空蝉

 溶けそうなほど暑く、蝉の声がうるさい時期になった。なんやかんやで七月も後半になり、夏休みに入ってしばらくした頃、俺は今日もまた、あの本屋に向かっている。今日こそはあのお姉さんに会いたいと、胸に少しの希望を抱きながら。

 六月の頭、梅雨が始まったばかり、大雨が会わせてくれた彼女。あの人のおかげで、なんだかぼんやりと過ごしていた大学生活を、しっかりと頑張ろうという気持ちになることができたのだ。

 そして彼女に借りたままのハンカチ。借りたものはきちんと返せといつも母親に言われていた。だから返すまでは、引き下がることはできないのだ。

 今までは滅多に行かなかった本屋に、講義が遅くまで入っていない時以外はなるべく毎日通うようにした。あの本屋であれば、また会えるかもしれないと思って。

 しかし、彼女が言っていた翻訳の仕事が忙しいのか、はたまた彼女の気まぐれなのか、あの雨の日から一向に彼女を見つけることはできていなかった。


 日差しが肌を虐めてくるような陽気だ。眩しさに目を細めながら、もう行きつけになりつつあるくだんの本屋にたどり着いた。

 建物の中は涼しかった。

 いつものように少しばかり周りを見回すと、いつもと違い目に止まるものがあった。

「……あ」

 あの時のお姉さんだ。

 後ろ姿だけで、本当かは分からない。けれど確実に、その嬉しそうな後ろ姿が彼女であると、自分の中の誰かが俺に囁いている感じがした。

 彼女に近づき、───。


 少しぼーっとしていた。

 自分は何を……。

 今いるのは本屋、あのお姉さんを探して、あれ……それらしき後ろ姿を、じゃあこの腕の中のは……。

 ハッとした。俺は腕をばっと開いて、腕の中にいた人に言う。

「あ、っと……突然すみません」

「……あれ」

 覚えていてくれたのだろうか──いや、自分に都合よく考えすぎだ──彼女はこちらを振り返る。

「あれ、雨の日の……」

 その言葉に驚きつつ、胸に嬉しさが溢れる。

「あっそうです! お姉さんにハンカチ貸してもらった、あの人です」

「ど、どうしたんですか」

 それはそうだ、久々に会った、しかも一度しか面識のない男に抱き締められる理由など考えても見つかるはずがない。なぜそうなったのか、俺自身よく分かってはいないところでもある。

 とりあえず、事情を説明しようと口を開く。

「その……俺、ずっとお姉さんのこと探してて」

「私を、ですか?」

「ハンカチ、返せなかったので」

 言いながら、リュックからジッパーを取り出す。

 あの日、帰ったあとすぐに洗濯をして、乾かして、それからジッパーにいれたままいつも持ち歩いていた。

「これ、洗濯してすぐにジッパーに入れたので汚れてることはないと思うんですけど……ありがとうございました、ほんとに」

 改めて礼を伝えると途端に彼女はおろおろとし始めた。

「で、でも私、一ヶ月半くらい来てなくて」

「大学終わってから、なるべく通うようにしてたんです。前会った時も大学終わりだったから、その時間ならもしかしたら会えるかもって」

「そんな、よかったのに……やっぱり、私が家で……」

「だからそれはもういいんですって」

 少し強い口調になってしまったことを瞬時に悔いて、付け足す。

「お仕事、忙しかったんですよね」

「……少し、いい表現を見つけるのに時間がかかってしまって」

「頑張ってたんですから、いいんですよ」

 そう言うと彼女は少しほっとしたようだった。

「お姉さんのおかげで、本屋に通うようになって、毎回手ぶらで帰るのはちょっと違うかなって思って、分厚くない読みやすそうな本を買っていってたんです。おかげでめちゃくちゃ苦手だった国語の授業が楽しくなってきたんです。お姉さんとあの時会えたからです」

「そんな……本を買って帰ろうと思うのが素敵なことだと思います」

「それに、もう一回、お姉さんに会えたらいいなって、ちょっと思ってたんです」

 そう言うと、顔に体中の熱が集まるような感じがした。その熱を散らすように、ぶんぶんと首を振る。

「あっ、あー今の無しで……」

 恥ずかしくてそう呟いたが、次に聞こえた声に目を見張った。

「……私も、今日会えて嬉しかったです」

「え」

 小さく驚きの声が出てしまう。なんてことだ。

 お姉さんはふにゃと恥ずかしそうに笑う。その笑顔を、しばらく呆然と見つめる。

「……と、とりあえず、ハンカチは返せたんで、今日はこれで帰ります!」

 やっとのことで絞り出した言い訳がましい言葉に自分でも呆れる。

「は、はい……わざわざありがとうございました」

「いえ! じゃあ失礼します」

 唐突な声に面食らったのか驚いた様子で感謝を伝えてくれた彼女に、俺はにこっと笑って、大急ぎで本屋から出た。


 ……やってしまった。恥ずかしくて、どうしようもない。けれど会いたかったのは事実だし、彼女を無意識にも抱き締めた理由は思い当たる。

 俺が、お姉さんに恋しているのだ。きっとそういうことだろうし、そうでなければ他に理由がない。こう見えて恋には慣れていないので、この気持ちをどうやって制御すればいいのか分からない。ともすれば告白してしまいそうなくらい、俺の恋心は前進を訴えている。

 もしまた会えたら、その時は、伝えられるだろうか。

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