雪月花の間に、言の葉を。

水神鈴衣菜

雨音

 ある梅雨が始まったばかりの日。私は曇った空の下、いつものように行きつけの本屋さんに向かっていた。仕事の合間、早めに上がることができた日にはいつもあの本屋さんに行っている。こぢんまりとしたなんでもない本屋さんだけれど、私にとってはとても落ち着く、第二の実家のような場所。


 流行りの本とか、異世界系とか、そういうものはあまり分からない。昔ながらの、という言い方はおかしいかもしれないが、皆が教科書で読んでいるであろう作家が──例えば太宰治だとか、芥川龍之介だとか、坂口安吾だとかの作品が大好きだ。

 特にこの作家を、というのはあまりないけれど、ずっと読み続けているのは宮沢賢治の作品である。あの不思議な世界観や綺麗な言葉選びが好きで、言葉の力というか、言霊ことだまを感じることができると勝手に思っている。


 今日は、これといった収穫はなくただぐるぐると店内を回るだけにはなったが、活字の海に呑まれるととても癒される。ちいさくありがとうと呟いて、私は店を出ようとした。

 あ、と声が出る。

 ぽつぽつと──いやその表現は相応しくないかもしれない。かといってざあざあという言葉も相応しくない。曖昧に雨が降っていた。

 そういえば梅雨入りをしたのだったか、と今日の持ち物を確認しながら思い出す。しかし果たして、傘とおぼしきものは見つからず、その場に足止めを食らうことになってしまった。

 全く、とちいさく息をついて、私は文庫本を鞄から取り出す。こういう日にも傘はなく本はあるのだから、改めて自分が本の虫であることを認識させられる。


 しばらく本を読み、顔をあげ、眉尻を下げ、ということを繰り返していた。読み始めた頃には薄かった右手側のページたちも、最初から三、四倍程の厚さになった頃、さすがにもう帰らなければならないかと思った。お気に入りの紅茶のシフォンケーキみたいな色のセットアップが濡れてしぼんでしまうのは悲しいけれど、仕方ない。

 覚悟は決まったけれど上手く足が出せず止まったままの私の耳に、ばしゃばしゃとこちらへ駆けてくる大きな足音が届いた。

「ふぅー……さすがに無理があったかあ」

 びしょ濡れのままそう呟く人。私は驚いて目をぱちくりとさせる。

 彼は気づいたのか、驚く私の方を見て申し訳なさそうな顔をした。

「……あ、ごめんなさいうるさくして」

「い、いえ……それよりも、大丈夫、なんですか」

「大丈夫って、何が」

「だって、びしょ濡れ……」

 そう言われて彼はへらっと笑う。

「このくらい平気ですよ、ほら、馬鹿は風邪引かないって……っくしゅんっ」

「あっ、ほら……」

 私はお節介かもしれないと躊躇いながら、鞄からハンカチよりも少し大きめのハンドタオルを彼に差し出す。

「これ、使ってください……全身に使うのには小さいかもしれないけど」

「いいんですか? ありがとうございます」

 ふわと笑って私のハンドタオルを受け取り、頭や体を拭き始める。しっかりしていると思った。

 さてこの後どうしようと悩むが、彼の方を見ているのも、ここで本を取り出すのも、入れ違うように外へ出るのも違う。どうするべきだろうかと考えていると、横から声が飛んできた。

「あの、お姉さん」

「わ、私ですか」

「だってお姉さんしかいないでしょう、今」

「なん、でしょうか」

「これ、洗って返しますね」

「いやそんな……大丈夫ですよ、私がしたくてやっただけのことなので……」

 おどおどとそう返すと、彼は少し唇を尖らせた。

「だめですよ、借りたものをそのまま返すのは俺のポリシーが許しません。借りたものを使うことで変わっちゃうものなら尚更」

「で、でも……」

「いいんですって、なんでもやってもらっちゃ申し訳ないんで」

 ね、と念を押され、私は頷くしかできなかった。まだ雨は止まない。


「……お姉さん、よくここ来るんですか?」

「あ、はい。昔から本が大好きで……」

「いいですね、俺、読めよって言われないと本って滅多に読まないからなあ」

「私はどっちかというと、ここの雰囲気というか、そういうのが好きで。実家もこの近くで、昔からずっと通っていたんです」

「素敵だなあ」

 ふふ、と笑う彼。

「あの、あなたは何を?」

「俺ですか? 近くの大学に通ってるんです。今日は普通に傘を忘れて、弱いうちに帰れるかなって思ってダッシュしたんですけど……案の定びしょ濡れです」

「大学に戻ればよかったのに」

「家、近くのはずなのに方向音痴ですぐ迷っちゃって。大学戻ろうとしてもどこだか分かんなくて適当に走ってたらここがあったんです」

「あら……」

 笑ってはいけないとは思うのだけれど、つい表情筋が緩んでしまう。

「お姉さんがいなかったら、今頃帰れないし寒くて風邪引くしでボロボロでしたよ」

「それは、よかったです」

「お姉さんはお仕事されてるんですか?」

「ええ、一応……外国の絵本とかの翻訳の仕事をしています、まだ見習いですけど」

「本のお仕事なのか! 好きなことを仕事にできるって羨ましいなあ」

「将来の夢とかは……?」

 そう聞くと、彼は少し悩んでから言った。

「俺、まだいいなって思う職業とかなくて。いろんな講義を取れる学部にはしたんですけど、なかなか難しいなって」

「未来のこと……考えるのって、難しいですからね」

 未だ来ぬことが分かるほど、人間の脳は上手くはできていない。

 だけど皆は未来を考えろと言う。

 そう言う皆も未来は分からないはずなのに。

「たくさん悩めばいいと、思います」

「はい、そうします」


 ふと空を見上げると、雲の涙はすっかり消え去っていた。曇ったままではあるが、少し明るくなった気がする。

「あ、止みましたね」

「帰らないと……」

「やべ、俺も勉強しなきゃ」

「では、また……大学頑張ってください」

 自分にできる精一杯の笑顔と共にそう言う。彼も微笑んで返してくれた。

「はい、お姉さんも。お互い頑張りましょう」

 そう言って、それぞれの家へと帰った。

 その日のことは、しばらく忘れたままだった。

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