009 研ぎ澄まされる


 太陽が岩々を照らし、岩肌を水滴が走り降りる。


 規則的に息を吐きながら、体術の型のようなものを行うカズキからも、同じように汗が滴となって流れ落ちる。


 すでに山々の雪は解け、春を感じさせる暖かな気候が続いていた。


 真っ先に目を引くのは、引き締まった肉体だ。


 この世界にやってきて、ここオブリビオンに捨てられたばかりの頃のカズキは、どれだけ贔屓目ひいきめに見ても、立派な体格とは言えなかった。


 しかし、過酷な山中で暮らす生活のおかげで無駄なぜい肉は削ぎ落され、筋肉は大きく肥大し、顔つきも精悍せいかんさを増していた。


 それもそのはずで、ここにはお菓子やジュースといったものもなければ、ご飯やパンといった、太りやすい炭水化物すらない。


 もっぱら栄養となるのは、魚や獣といった野生動物の肉――つまりたんぱく質である。


 これにルタから課せられる厳しい鍛錬によって、カズキの肉体は短期間で、劇的に強靭なものとなっていた。


 カズキの身体は刃物のように、研ぎ澄まされていた。


 はじめカズキは、ルタが考案し独自に練り上げたという格闘術の型を、見様見真似みようみまねさせられていただけだった。

 その型は拳法の流派などに属してはおらず、あまりに荒唐無稽こうとうむけいな動きを繰り返すもので、カズキは奇声をあげながらふざけ半分に行っていた。


 恥ずかしさもあり(誰も見ていないのだが)、すぐにルタに他の修行をお願いしたが、その恥ずかしさを超えてやり続けることでこそ、本音を引っ張り出す練習にもなるのだ、と取り合ってもらえず続けるしかなかったのだ。


 しかし、全身すべてを動員して行うルタ流拳法の型は、荒唐無稽であるがゆえ、カズキの今まで使われることのなかった筋肉や細胞まで、目覚めさせるに至った。


「フゥゥゥゥ――」


 酸素が全身に巡っていくのを感じながら、深く息を吐くカズキ。


 ともすれば滑稽に映る、股割りから上半身をゆするような動きも、肉体が研ぎ澄まされているがゆえなのか、今では妙な威圧感を周囲に撒き散らしている。


 鋭利に、鋭敏になったカズキのフィジカルは、他の生物を寄せ付けなくなっていた。


 はじめてルタに狩りを命じられ、川で、命からがら熊を仕留めたあの日から。


 カズキはあれから二度、熊を狩った。

 二度目は初回と同じく、川で背後から襲われた。

 三度目は浅瀬で、あえて正面から立ち向かった。


 どちらも、カズキの圧勝だった。


 三度目の対峙で、熊はカズキに、触れることすらできなかった。

 ただカズキも、無益な殺生を楽しんでいるというわけでは決してなかった。


 自らの上達具合を知る意味もあったが、単純に、生物としての食物連鎖に従っているまでのことだった。


 だがカズキは、たとえ弱肉強食が自然の摂理であっても、命の循環に感謝し、常に感謝を捧げながら熊の肉を喰らった。


 日本でぬくぬくと暮らしていた頃には、一切考えたこともない感覚だった。


 命は、命の上に成り立っていて、自然の中で気を抜けば、すぐに自分も命を生かす側となり、死を迎える。


 ルタの説明によれば、この世界にはまだ銃のような火器は存在しておらず、強力な武器を使いこなす魂装カルマ遣い以外は、熊に対して成す術は基本ないのだと言う。


 そして、今現在のルタですら、熊を狩ることはリスクが高いと話していた。


 しかし今のカズキにとっては、熊は恐れを抱く相手ではなくなっていた。


 当然、油断すればその膂力と強靭な顎、爪で引き裂かれ肉塊となってしまうだろうが、一度命の危機を味わったカズキが、命のやり取りの中で気を緩めるようなことは一切なかった。


 その上、カズキの魂装は格段にレベルアップしている。


 右手に宿る魂装は、今や極小の指輪ではなく、鋭利な刀にもなれば、長大な槍にも、果ては精緻せいちに再現された右手そのもののようにすら、カズキは操作することができた。


 熊との戦いでは主に、大きく距離を取り、限界の長さまで引き延ばした鋭い槍先で急所を突き刺し、勝利した。


 熊相手に接近戦を挑むのは、武〇壮氏だけで十分だ。

 余談だが彼ですら八週間かかるらしい。


 ただ、カズキとしては熊のような強大な相手と接近戦をしなければならなくなったときの対応も学んでおきたいと考えていた。

 この世界には魔物と呼ばれる生物も存在するらしく、そんな相手と対峙したときのために特訓をしておきたいとカズキは考えていたためである。


 カズキは無意識に、この世界であらゆる生物と敵対したときのことを考えて行動するようになっていた。

 それはひとえに、自分と同じ種族であるはずの人間に裏切られ、殺されかけた経験からくるものだった。


 自分を守れるのは自分だけなんだ――


 そんな思想に基づき、熊との三度目の対峙では、正面から突っ込んだ。


 魂装を体の周囲に常に展開させ防御を盤石にし、相手の隙をついて鋭利な刃物を脳天や喉といった急所に突き入れる――そうして、カズキは熊を圧倒した。


「…………ふぅ」


 一際大きく、カズキが息を吐く。


 流動していた肉体は静止し、鼓動も落ち着きを取り戻していく。


 全身の肌から噴き出している汗が唯一、右手首から先だけ一切見られない。

 それはその右手が、魂装による疑似的な右手であることの証左であった。


 今現在、カズキの右手首から先にある手は、まるで本物の人間の手であるかのように、肌の質感や色合いが再現されていた。

 神経が通っているかのように、呼吸に合わせて自然に指が揺れている。


 カズキはそんな芸当ができるほどに、繊細な魂力のコントロールを習得していたのだった。


「そろそろ、頃合いじゃろうかの」


「フっ……! ……なんのさ?」


 呼吸を整えたカズキの傍に、ゆっくりとした足取りで、ルタがやってくる。


 カズキは水で濡らしたボロ布で体を拭いながら、疑問を差し挟む。


「なんじゃ、わからんか? いつまでもここに留まっていては、見つかるものも見つからんじゃろうて」


 ルタは豊かな金髪を指先でいじりながら、余裕たっぷりな態度で勿体つける。


「ってことは……ついにサバイバル生活、卒業?」


 淡い期待を抱いてカズキは訊いてみる。

 返ってきたのは――ルタのあの顔だった。


「ぬふふ、その通りじゃ。――街へ降りるぞ」


 ルタが薄い胸を張る。

 憎らしいほどの邪悪な笑みが、炸裂した。


 カズキは思わず、右手を天高く突き上げ、ガッツポーズした。


 魂力が暴走し、ルタにどやされたのは言うまでもない。



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