001 出会い
辺り一面に、灰色の巨石が転がっている。
風が吹き荒び、岩肌は乾ききっている。
荒涼とした場所であるにも関わらず、なぜか人為的なゴミが点々と散らばっていた。辺りには草木が一切見当たらない。
石と岩と、雪解け水が作ったのであろう小さな小川と――
ボロ雑巾と見紛うようなカズキの姿だけがあった。
「ぁ……ぁあ…………」
血と汗と涎、そして涙でグチャグチャになったカズキ。
二年間と少し着続けた高校の制服は血濡れて汚れ、ワイシャツはすでに血が渇き始めていた。
もう白い箇所はほぼなく、全体が茶色く変色してしまっている。
このまま死ぬのか。
カズキの脳裏に、様々な感情がよぎる。
なぜこんなことになったのか。
ただ俺は家の茶の間でお菓子を食いながら、漫画を読んでいただけなのに。
ちょうど一冊読み終えて、次巻のある二階へと、お菓子を持って階段を上っていたら、そこで急に視界が切り替わって、この世界に呼び出されていた。
気が付いた先で、右も左もわからないまま見慣れない連中に担ぎ上げられ、勇者、勇者とはやし立てられ、一切何がどうなっているのか飲み込めないまま戦わされ、そして――
右手を失くした。
負けたら無能と嘲り……いや、負ける前から奴らは、俺を無能と言い切っていた。
自分たちで勝手に期待して、幻滅して。
見下ろし、見下し、そして捨てた。
「………………ロニ…………キドゥ…………民…………」
カズキの口から、ボソボソと音が漏れる。
それは誰かに届けようというものではなく、ただ口の中で呟かれただけの、声にならない声だった。
「……ジプロニカ王、セイキドゥ、側近ども、見て見ぬフリの給仕係、熱狂した国民……」
淡々と、一定のリズムで、誰にも届くことはない言葉の羅列が続く。
「……ジプロニカ王、セイキドゥ、側近ども、見て見ぬフリの給仕係、熱狂した国民…………ジプロニカ王、セイキドゥ、側近ども、見て見ぬフリの給仕係、熱狂した国民……」
言うなればこれは、呪詛だ。
カズキは自分をこんな目に遭わせた全ての者たちを、死ぬ寸前の最後の力でひたすらに呪っていた。
生まれ変わったら必ず、この手で復讐する――カズキは右手の痛みすら忘れ、ただただ呪いを吐き出す肉塊となった。
「……俺は………………あの人間どもを、許さない」
カズキの呪詛は、言葉となって結実した。
彼は本来、一人称が『僕』であった人間だ。
しかし右手を失ったことで、社会生活で得た建前や体裁が壊れ去り、彼の中にあった『自分は一人称が僕であるべき』という、社会的自己を取り繕う感情が消失した。
それにより、カズキの本来の精神性が表に出はじめていた。人称の変化は、その証左だった。
右手を失うという経験は、十七歳の少年にとっては、それだけの痛みと衝撃があった。
「なんじゃ、気味の悪い声がすると思ったら……本当に人間ではないか」
と。
呪いの言葉を延々と垂れ流していたカズキの耳に、妙な声が届いた。
しわがれた老婆のようでもあり、それでいて、幼い少女の甘ったるい囁きのようでもあった。
そしてなぜかその声は、じんわりと、荒み切ったカズキの心に、なんの抵抗もなく浸透していった。
「……だ、れ……だ?」
「わしか? わしは…………いやまぁ、わしのことはよい。それより、うぬは――」
カズキの視界はすでに霞み、
それでも声の主が、女の子の姿をしていることだけはわかった。
岩壁の隙間から差し込む陽の光を跳ね返す、
その姿は、死の間際のカズキにとってはまるで、自分を天国へと誘う天使に思えた。
「見るに…………うぬ、捨てられたようじゃな。」
「……ぁぁ」
「人間が、人間に捨てられたのか?」
「…………ぁぁ」
「ふむ……何があったか知らんが、今日のわしは機嫌がいい」
「…………?」
天使のような少女――というよりは幼女に近い――はやけに、古風な話し方をしていた。
届く声音は妙に耳心地が良く、カズキにとっては場違いなほど――
笑えた。
「…………っ」
「なんじゃ、にやけおって。気色悪いのぅ」
「…………う、る、せぇ」
こんな場所で急に出て来た金髪幼女の方がよほど気味が悪い、カズキはそう言いたかった。
しかしさすがに、反論を声にする余力は残っていなかった。
「ガフ……っ、ぐふっ」
無理に大きめの声をひり出したせいで、咳き込む。口の奥から血が噴き出し、さらにカズキの呼吸を困難にする。
血を吐き出しながら何度も咳き込み、カズキは一歩一歩死に近づいていく感覚に、静かに戦慄した。
「…………うぬよ、生きたいか?」
金髪幼女から発せられた言葉によってか、カズキの瞳には、涙がゆっくり溜まっていく。
そして一筋、目尻から零れ落ちた。
「…………あ、」
あたり前だ。
声に出して言い切ることはできなかったが、カズキの目には微かに光が宿る。
生きて、あいつらに。
生き抜いて、あいつらに自分と同じ痛みを味わわせやりたい。
身体は死ぬ寸前だというのに、心だけは生きたいという意志で満ち満ちている。
カズキの眼は充血していた。
金髪の幼女はその瞳から目を逸らすことなく、しばらくの間、見つめ続けていた。
なにかを悟ったのか、幼女はふとした瞬間に口の端を釣り上げ、獰猛に――
笑った。
「ふむ……ならば、生かしてやらんこともないぞ」
「…………!」
生かしてやるという言葉に、カズキの全細胞が沸き立った。否応なく、言葉の先を促そうと目がギラつく。
だが幼女の提案はともすれば、肉体が健常で、精神的にも正常な判断力を有する者が見ていれば、一笑に付されるものかもしれない。
金髪の幼女が、死にかけた人間一人を再起させようと言うのだから。
しかし当のカズキは、大量の出血のせいで意識が混濁している。他にも切り傷や打撲など、これまでに被ったことのない様々な外傷を負った。
そんな状態だけに、幼女の現実離れした提案に、本能が飛びついたのだった。
心だけは今までにない程、明確な生きる衝動に駆られている。
「はじめは殺してやろうと思っておったのじゃが。うぬの人間への恨み節を聞き、気が変わった」
「…………っ」
幼女の口から自らへの殺意が語られても、カズキは彼女を見つめることをやめられなかった。
すがるのはもう、彼女しかいないのだ。
「うまくいけば助かる。ただし――」
「…………た、だし?」
全身全霊をかけて、カズキは彼女の言葉を反芻した。
「生き残った場合は、ちとわしの野望の手伝いをしてもらう。それでもいいかの?」
問われるまでもなく、腹は決まっていた。
生き残り、この世界で生き抜いて、そして――後悔させる。
そのためならば、どんなことだってする。
今のカズキにとって幼女からの提案は、天に昇る蜘蛛の糸とさえ思えた。
このときのカズキにとって彼女はまぎれもなく、天使だったのだ。
「…………なん、だって……やって、やる」
「ふむ……決まりじゃの」
カズキの最後の記憶は、それで途切れた。
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