第5話 伊国少女の言語事情

 金曜日の朝、開店に向けて準備をしていると隣から視線を感じた。


「……キッカさん、おはようございます」

「ひさし、ぶり、だね?」

「……はい、お久しぶりです」


 最後に会ったのは日曜日だから、だいたい五日ぶりだ。

 

 今は今日店に出すケーキの陳列を終え、明日店に出すケーキのスポンジを作っている。

 スポンジは一日ほど寝かせた方が美味しくなる。あと日持ちしない。だから毎朝作るのが日課になっている。

 クッキーなど、日持ちするものを毎日作ったりはしない。いや、作らなくていい。悲しい。

 ところで結城さんの件でスポンジの数がひとつ足りない。

 熟考の末、チョコレートケーキは開店と同時に完売することに決めた。


 そうして黙々と作業を続けていると、キッカさんが何も言わずに手を貸してくれる。

 使い終わった道具を片付けたり、出来上がったスポンジを冷蔵庫に入れたり、肩を叩いてくれたり……あ、もう少し上。


 キッカさんは、フランスにいた頃に出会ったイタリア人の女性だ。

 同じ店で、彼女は経営を学んでいた。

 それなりに交流があったからか、日本で店を出すと言った時についてきてくれることになった。

 募集したアルバイトの人数や時給、販売する商品の数や値段、そういったことは全て彼女が決めてくれている。


 天然の金髪碧眼は日本ではなかなか珍しい。

 真っ白だった肌は日焼けしたのか少し赤くなっている。

 あと日本語を猛勉強している。教え役がこんなので申し訳ないが、少しは役に立っていると思いたい。

 


 そんなこんなで開店準備を終え、時刻は10時30分ちょうど。

 開店30分前である。


「うりあげ、どう?」

「……この通りです」

「おー、やったね」


 売り上げを記した手帳を見て、キッカさんは小さく手を挙げた。ハイタッチ。


「でも、もくよう、かわってない、よ?」

「……残念ながら」

「ゆうき、さん?」


 唇に左手の人差し指を当てながら手帳を見つめる。

 これは、彼女が何かを考える時の癖だ。


「げんきゅう、する?」

「……いえ、アルバイトに、そこまでするのは……」

「そう、なの?」

「……はい」


 減給。さらりと口にしたのは、彼女が経営を学んだ環境のせいだ。

 フランスにいた頃、給料は仕事に対する報酬という扱いだった。

 そこに仕事時間は含まれず、日本に戻って時給制を知った時に少し驚いたくらいだ。


「えっと、これ」


 差し出されたのは、漢字ドリル。

 キッカさんは、現在漢字を猛勉強中。


「むずか、しい」


 何処の国の人にとっても、漢字は鬼門らしい。

 画数が多かったり、読み方が複数あったり、罠があったり。

 たとえば、


 一、二、三……oh! パターン! パターン見えたよ!

 これ漢字いけるよ! 簡単じゃん!

 四。

 Why Japanese people!!!


 テレビで見た芸人のトークに、キッカさんは力強く頷いていた。


 最も簡単であるべき数字。つまり多くの人が最初に学ぶであろう漢字。

 そんな初歩の初歩で心を折られるから、精神的にも難しいようだ。


「……書いて、覚えましょう」


 フランスに飛んだのは中学を卒業して直ぐ。

 日本にいた頃、漢字はとにかく書いて覚えさせられたと記憶している。


「えっと、いみ、おしえて?」

「……はい」


 開店前、事務室の机に二人で並ぶ。


「これ、だよ?」


 ノートを開き『浮』という字を指さした。ノートの左上には『さんずい』という見出しがある。


「さんずい、は、みずに、かかわる?」

「……はい、合っています」

「みず、が、浮く?」

「……水、に、だと思います」

「でも、そら、にも、浮く、だよ?」

「……水も空気も、同じ流体だからではないでしょうか」

「りゅう、たい?」

「……fluido」

「おー、じゃあ、法、は?」

「……水は、規則正しく流れます。きっと、そこに由来しています」

「でも、あれる、よ?」

「……規則正しく、荒れています」

「うーん、むずか、しい」

「……すみません」


 自分でも言っていてよく分からなかった。

 力及ばず、面目ない。


「あと、もいっこ、いい?」

「……どうぞ」

「なんで、です、って、いうの?」

「……それは、丁寧語というものです」

「でも、です、って、ていねい?」

「……そのように、考えられています」

「でも、です、って、にっぽんごで、し、だよ?」


 おそらく英語のdeathの事を言っている。


「ていねい?」

「……いえ、このですは、日本語の、です、です」

「でも、です(death)、だよ?」

「……そう、ですね」

「んー? し、が、ていねい? へん」

「……いえ、死ではなく、です、という言葉があります」

「どういう、いみ?」

「……語尾に、付ける事で、丁寧な、言葉遣いに、なります」

「んー?」


 キッカさんが大きく首を傾ける。

 自分でも意味が分からなくなってきた。ですって、なんなんだ。


「……日本語、難しいです、あっ……難しい、ね?」

「そう、だね?」


 なんてことだ「ですね」と語尾に付けたら「deathね(死ね)」という意味になってしまう。

 語尾に死ねと付けることが丁寧な言葉遣いの言語、怖い。


 この後もキッカさんの勉強に付き合った。

 そして開店時間になり、思う。

 経営と、日本語、どちらが難しいのだろう。

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