第7話

 翌日の四月二十三日の放課後、僕と榎本さんは屋上に続く階段の前で待ち合わせた。


 榎本さんは五分くらい遅れてきた。身だしなみを気にしてトイレに行っていたらしいが、たとえ寝癖がハネていたとしても榎本さんは可愛いと思う。


「さ、じゃあ心の準備はいい?」


「う、うん……」


 僕らはゆっくりと階段を上がり、屋上前の鉄扉のところまで来た——と、鉄扉は少しだけ開かれており、扉の向こうから誰かが話す声が聞こえてきた。


「……ね、ねえ? 屋上にいるのって、一条くんだよね?」


「あ、うん……たぶん。あ、でも、もう一人いるみたいだね?」


 話し声は一条くんともう一人、女子の声だ。

 それも、僕の知っている人の声……。


 たまらず榎本さんは鉄扉に近づいて覗きこむ。


 ——やめろ、行くな!


 心の中で彼女を引き止めたけど、僕の身体は完全に固まってしまって動かないし声も出ない。


「っ……!」


 榎本さんは口を押さえたまま後ずさった。

 どうやらなにかを見てしまったらしい。


 小刻みに震えていた榎本さんだったが、急に踵を返すと無言のまま僕の横を駆け抜けていった。


 そりゃ、そうだよな……。


 ……だって、扉の向こうで、榎本さんの大好きな人、一条くんと高橋さんが抱き締め合っていたのだから。




  * * *




 昨日、僕は榎本さんと別れたあと、一人図書室に向かった——高橋花音に会うために。


 彼女は図書委員で、放課後はいつも図書室にいることを僕は知っていた。

 図書室の前で大きく深呼吸をして扉を開ける。


 図書室に入ると、彼女は一人だけカウンターにちょこんと座って静かに本を読んでいた。


 僕と目が合うなり、彼女のその大きな目が見開かれる。


「こんにちは、高橋さん」


「と、友田くん?」


「実は、高橋さんに用があって」


「わたしに? なに?」


 高橋さんはそう言うと読みかけていた本の間に栞を挟んで閉じた。


 それにしてもドストエフスキーの『罪と罰』か。ずいぶんとハードなのを読んでるんだな……。


「実は、一条くんへの告白の予定が決まったんだ」


「そう……」


 胸のあたりできゅっと手を握る高橋さんは、どこか苦しそうな表情を見せた。


「わざわざそのことを伝えに来たの?」


「高橋さんに、ちょっと聞きたいことがあってね」


「わたしに、聞きたいこと?」


「うん。どうして、中学時代に一条くんをフったの?」


「っ……!」


 まさか中学時代のことを僕が出すとは思っていなかったようで、高橋さんは驚いて固まった。


「実は一条くんから聞いたんだ。——これ、この書き込みの件」


 僕はポケットからスマホを取り出し、例の裏サイトを開いて見せた。


「僕は過去のことはあまり気にしていないんだ。過去にどんな遍歴があっても、今とこれからが大事だと思うから。でも、この誹謗中傷はちょっとどうかなって思って調べてみたんだ」


 僕はスマホを再びポケットにしまいながら固まっている高橋さんをまっすぐに見た。


「一条くんがこんな中傷を受けることになったのは、彼が一人の女の子を助けたからなんだ」


「……」


「これもある筋から聞いたんだけど、西ノ浦松中学校でいじめに遭っていた女の子がいた。その女の子を助けた一条くんは、今度は逆にいじめてたやつらから目をつけられる羽目になって、ネットにこんな感じでひどい書き込みをされたんだって……」


 僕は近くの椅子に腰掛けた。


「それからこれも聞いた話なんだけど、助けた女の子に告白をしたけどフられちゃったんだって。その言葉が今でもたまに思い出しちゃうそうだよ? たしか——」


「——わたしに近寄らないで、そう、言ったの……」


 高橋さんは今にも泣きそうな顔になっていた。


「あのころ、わたしは中三のときクラスでいじめに遭っていた。詳しくは言いたくないし、思い出したくもない……。でも、いじめはだんだんエスカレートしていって、わたしはもうダメだと思ったの……」


「そこに一条くんが現れた」


「そう……。当時彼は隣のクラスで、二年のとき一緒だったんだけど、スポーツはできるけどお調子者で、思慮が浅くて……。でも、わたしがいじめられていると知ったのか、ある日わたしがいじめられている最中に彼がうちのクラスにやってきた——」




『——やめろっ! お前ら恥ずかしくねぇのかっ!』




「——彼は、いじめの主犯格だった男の子に掴みかかって大怪我をさせてしまったの。それから、わたしに対するいじめはぴたりと止んで、代わりに彼が——」


「標的になっちゃったんだね?」


「わたしのせいで……」


「ううん、それは違うよ。一条くんのせいでも、高橋さんのせいなんかじゃない——悪いのはいじめを始めた卑劣な連中さ」


「だとしても、彼はわたしをかばってそうなっちゃったんだし——わたしが悪いの……」


 高橋さんはいよいよ泣き出してしまった。


 僕はそれをただ黙って見ているしかない。


 彼女に優しい言葉をかけるのは——いや、かけてほしい相手は僕じゃないのだから。


「一条くんに告白したいって気持ちは、罪の意識から?」


「そうじゃない! わたしはただ、わたしの本当の気持ちを伝えたくて!」


「そっか……。じゃあ、なんで今? この高校に入学したことはお互いに知っていたわけだし、タイミングはいくらでもあったんじゃないかな?」


「タイミングはあっても、わたし、ひどいことを彼に言っちゃったから……」


「言い出しづらかった、か……」


 それでいよいよ僕のところに来たのか……。


「でも、やっぱりごめん。ルールを曲げることはできないから」


「そう……」


 こればっかりはどうしても譲ることができない。

 好きになった順番は高橋さんの方が早いかもしれない。


 けれど、僕は依頼主である榎本さんを裏切ることもできない。

 じゃあ、どうしてこんなところに来たのか?


「告白は明日の放課後だから。いい? 明日の放課後、屋上だからね?」


 僕は念を押すように言った。

 僕の意図を察してくれたのか、高橋さんの目がまた大きく見開かれた。


「友田くん、どうして——」


「ルールは曲げられない。でも、想いも曲げられない。僕も自分で自分がどうしたいのかわからなくなったんだ……」


 それだけ言って、僕はそのまま図書室を後にした。




  * * *




 僕は昨日のことを思い出しながら、屋上で抱きしめ合う一条くんと高橋さんを見ていた。


 結果的に、僕のしたことは榎本さんを裏切ることになってしまったのかもしれない。


 胃がキリキリと痛む。

 僕は榎本さんを追うこともなく、ただそっと階段を降りる。


 荷物を取りに教室に戻った。他のクラスメイトたちは部活に行くか帰宅したらしく、教室には僕しかいない。


 机の中から教科書類を取り出し、カバンに入れる——と、後ろの方で扉が開く音がした。


「榎本さん……」


「友田くん——あれ、どういうこと?」


 泣いた跡が痛々しく残る真っ赤な目で榎本さんは僕をキッと睨んだ。


「あれも全部、君の仕掛け?」


「ううん……。僕は——いや、予定通りに物事が進んでいたんだけど、イレギュラーなことが起きちゃったみたい、だね……」


「あれって五組の高橋さんだよね? 知ってたの? 高橋さんが一条くんのことを好きだったって……」


 ここまできて嘘は吐けないよな……。


「……知ってたよ。榎本さんの依頼を受けたあと、高橋さんが僕のところにきたから」


「じゃあ、裏切ったの? 高橋さんの告白を優先させた?」


「違う、とは言い切れない——」


「ひどいっ! わたしのこと、協力する振りをして陰で笑ってたんだ!︎」


「それは違うよ、違う! 僕の話を聞いて——」


「聞きたくないっ!」


 榎本さんは俯いた。

 そして、嗚咽の混じった声でポツリ、ポツリと話し出した。


「ひどい、ひどいよ……。友田くん、そんな、信じてたのに……。友田くんにお願いしたら、一条くんと、ぜったい……うまくいくって……」


「僕は……——」


 それ以上何も言えなかった。

 心のどこかで、昨日高橋さんに会ったことを引け目に感じていたから……。


 高橋さんは今日の放課後に「早い者勝ち」で勝った。

 僕らよりも一足先に屋上に行き、一条くんへの告白を済ませた。


 ——そして、二人は結ばれた……。


 もし僕が高橋さんに会わなかったら——と、激しい後悔が押し寄せてくる。


「ひどい言い方をしてごめん……でも、二度と友田くんには頼まない……」


 それだけ言うと、榎本さんはよろよろと教室を出て行った。

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