第5話
家に帰ると、僕はすぐにソファーに寝そべった。
今日は本当に疲れた。
まだ胸の中でモヤモヤとしたものが渦巻いている。
その気持ち悪さが胃にきてるらしく、今日はなにも食べられる気がしない。
僕は学校から一駅離れたアパートで一人暮らしをしている。
物心ついたころから母親と呼べる人はいなかったし、父さんは仕事でしょっちゅう海外に行っているから一人暮らしを余儀なくされていた。
それはそれで気ままでいいのだけれど、今みたいにしんどいときに相談できる人が近くにいないというのが辛い。
いたとして、相談できるかどうかはべつとして……。
そうしてソファーの上でゴロゴロとして一時間が経ったころ、
——ピンポーン
と、インターホンが鳴った。
なにかの勧誘かもしれないので、僕はひっそりとドアまで近づいてのぞき穴を見る。そして大きくため息を吐いた。
「おーい、帰ってるんだろー? お姉さんがやってきたぞー!」
ドア越しに無駄にデカい声。
今、誰かと会って話す気分じゃないんだけどな……。特にこの人とは、と思いながら扉を開ける。
「よ、サッくん! セクスィーJD見参!」
「……なんでしょうか吉川さん?」
無駄に元気なこの人の名前は
一つ隣に住む大学生で、今年三回生になったばかりの二十歳。
容姿は茶髪で派手。グラビアアイドルかってくらいスタイルが良くて綺麗な人だけど——ちょっとどころかだいぶ残念な人だ。
例えば——
「ガス代滞納しちゃってさー、お湯が出ないからお風呂貸してー! いいのー? ありがとう!」
——とまぁこんな感じで。
ズボラと傍若無人を足して二を掛けた感じだ。
見てくれはいいんだけどね、見てくれは……。
吉川さんは玄関で乱雑にスリッパを脱ぐと、ずかずかと家の中に入ってきた。
「僕はいいともダメとも言ってないんですが——というより、滞納する前にお酒やめたほうがいいんじゃないですか——って、うっ……酒臭っ! またそんなに飲んでー……」
「にゃははー! 今日は大学が休みだったのらー!」
いきなり絡まれて面倒臭い。
そして、大きな胸が柔らかい——って、そうじゃなくて!
「この酔っ払いめ! 未成年に絡まないでください!」
「へっへー、本当はこんなセクスィーなお姉さんに抱きつかれて喜んでるくせにー! このこのー!」
「コラ! この酒乱痴女めっ!」
「ねぇねぇ、お風呂貸してってば貸してー!」
「わ、か、り、ましたから、離れてください!」
「はい言質とりましたー——おっ! 相変わらず部屋がキレーだねー!」
こんな感じで週に三回は自分の家のようにずかずかと入ってくる酒乱痴女もとい吉川さん。
これで法学部だというのだから、日本の行く末がどうなっていくのか非常に不安だ。
「あ、着替え忘れた——ま、いっか」
「よくないからっ! 着替えとってきてください!」
「だったら貸してよー! エプロンとかでいいからさ!」
彼女は僕をなんだと思っているんだろう?
とりあえずエプロンのくだりは無視しておくか……。
「吉川さんに貸せる服は——ってコラ! いきなり脱ぐなー! 脱衣所に行けー!」
「あ、そだ。わたしの脱ぎたてパンツほしい?」
「いりません!」
「ほら、新鮮だし食べるかと思って」
「食べないわっ! どんな変態グルメ野郎だっ!」
「にゃはははー! じゃ、お風呂一緒に入る?」
「もちろん入りません!」
「えー? この潔癖童貞めー」
「誰が潔癖童貞だっ!」
たしかに童貞だけれども……。
僕はげんなりとしながらまたソファーに寝転ぶ。
そのうちシャワーの音が聞こえてきた。
あれでもうちょっと性格が良かったらどストライクなんだけど……。
僕はそっと脱衣所に洗ったばかりのスウェットを置いておく。
なんでこんなことしてるんだろうな、とつくづく思いながら。
* * *
「にゃははー! しゅっきりー!」
「そりゃよかった。それじゃあお帰りを——ってうおっ!」
風呂上がりの吉川さんはなぜか僕の置いたスウェットじゃなく、洗濯カゴに放り込んでおいたはずの僕のワイシャツを一枚だけ羽織っていた。
第二ボタンまで開かれた胸元からは深い谷間が強調されている。
胸元がきついせいなのか、あえて扇情的な格好をチョイスしているのかはわからないけど、お年頃の高二男子にはちょいと刺激が強すぎる気が……。
「あなた、なんつー格好を……。あとそれ僕のシャツ……」
「借りたー。スウェットは洗ったばっかりっぽかったから勿体無いし」
「そういう配慮はいいんで、もううちに来ないでください」
「にゃははー! 本当はこんな美人なお姉さんが来てくれて嬉しいくせにー。このこのー!」
「コラ! その格好で抱きつくな! はだけるでしょうが!」
すでにはだけていて黒い下着が見え見えなんですがね……。
「えー! サッくんに見られるのはべつにいいもーん」
「そういうのは彼氏にしてください!」
「うにゃあー!」
吉川さんをぐいっと引っぺがして、僕はテーブルの対面に座り直す。
まったく……酒が入ると甘え上戸になるところもなんとかしてほしい。
このままだと僕の貞操が……。
「ビールなかったっけ?」
「ありませんよ。僕、高校生ですから」
「そうだったねー。じゃ、うちから持ってくるー」
吉川さんはシャツ一枚のまま玄関のほうへと向かう。
「いやいや、だからその格好で——って聞いてないし」
少しして吉川さんがどたどたと戻ってきた。
「ただいまー」
「お帰りください」
「そこはおかえりーじゃん? つれないなーサッくんはー」
えいえいと僕の頬っぺたを指で押す吉川さん。
まったく、人の気も知らないで……。
「で、今日のサッくんはどうしたんだい? いつもより不機嫌じゃあないかー」
プシュッと缶ビールのプルタブを開けた吉川さんは、これまた自分の家かのようにどっとソファーに腰を下ろした。
「年上超絶美女のお姉さんが聞いて差し上げよー」
「いや、大丈夫なんで。マジでほっといてください」
「ほっとけないよー。お隣さんだしー」
「その心配ができるんだったらお隣さんに迷惑をかけるのはやめてください!」
「えー! かけてないじゃーん! ごほーびじゃーん!」
そのご褒美とやらが僕にとっては刺激が強すぎるんだって。こちとらお年頃ですぞ!
「で、で、で。なにがあったんだねサッくん! いろいろな意味で経験豊富なお姉さんに話したまえー!」
「なんですか、いろいろな意味って?」
「聞きたい? ねえ? 聞きたい?」
「いや、きっとロクなことじゃないんだろうと察しがつくんでやめておきます」
「で、なにがあったのかね?」
「吉川さんに話すほどのことでもないんですが——」
僕は学校であった一連のできごとをある程度かいつまんで吉川さんに話した。
吉川さんは僕の恋愛遍歴や学校で仲人みたいなことをしてることなんかをある程度知っている。
その上で、ごくごくたまに(針に糸を通すほどのわずかさだけど)、年上として適切なアドバイスをしてくれる。
「——てなことが、ありました」
「ほうほう。それはそれは、君もまーた厄介な女の子を好きになっちゃったもんだねー」
「いやいや、厄介ってほどでは……」
「そうかなー? わたしだったらそんな面倒臭い女の子と友達になれないなー」
「面倒臭い? とても良い子だと思うんですが……」
「まあ、サッくんが良いって言うなら良いのかもだけどーなんだかなー?」
なんか棘のある言い方だなぁ……。
「それで、この後のことはどうするの?」
「考え中です」
「面倒くさいことにならなきゃいいけどなー……」
「もうすでに面倒くさい感はあるので……。ま、ここまで来たら最後までやりますよ」
「あそう? ちょっと心配だけど、お姉さんはいつだってサッくんの味方だからねー」
「うわー、うれしー」
「なぜ棒読みだ! このー!」
その後吉川さんが酔い潰れて眠るまでひたすらじゃれつかれたけど、僕は明日からのことが気になって頭から離れなかった。
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