第211話 06:みさきとピアノ


 みさきは演奏を終えた。それは、きっと機械に聞かせても百点が取れる完璧な演奏だった。


 みさきは無表情で振り返る。

 もう終わりでいい? ゆいが見れば激怒するような態度で結衣に返事を求めた。


 結衣は、困っていた。

 みさきの演奏は完璧だ。みさきがピアノに触れるのは、龍誠の誕生日と、その前日だけ。それで今の演奏が出来るのだから、凄まじい才能であると言わざるを得ない。


 頭の中でイメージした動きを身体が再現する。誰もが理想とする技能を、みさきは当たり前のように持っている。


 運動も、裁縫も、美術も、音楽も。

 一度でも目にすれば完璧に再現できる。


 血が滲むような努力の果てに同じ結果を得る凡人を嘲笑うような才能を持った娘に与えるべき言葉は、結衣にすら思い浮かばなかった。


 結衣にも特別な才能がある。心理学者やメンタリストが人の表情や所作から心理を読み解くように、結衣は人の心を色として認識できる。既知の色であれば、コントロールする方法を知識として知っている。


 それでも、みさきの感覚を想像すらできない。

 みさきは、どんな世界を見ているのだろうか。


 みさきの世界には、龍誠しかいない。

 みさきが努力――新しいことを覚えるのは、龍誠に褒めてもらうため。手段であって、目的ではない。


 努力は苦しいことだ。だからこそ、目的を達成した時には相応の感動がある。それは次の努力に繋がり、きっと人生を豊かにする。


 しかしみさきは、その感動を得ることが出来ない。

 結衣は、みさきが笑った姿をあまり知らない。みさきが笑うのは、龍誠に褒められた時と、長男の頬を指でツンツンする時くらいだ。


 もちろん社会に出れば、みさきでさえも手に余る仕事が無数にあるだろう。しかし学校レベルでは、それを見つけることは困難だ。


 結衣は冷静に、客観的に、ゆいがみさきに勝てないと感じている。目の前にある残酷な差は、色眼鏡を着けても否定することが難しい。


「もう一度だけ聞かせてください」

「……ん」


 みさきは素直に頷いて、演奏を始めた。

 J.S.バッハのフランス組曲5番。ブーレ、サラバンド、ジーグの順に演奏する課題曲。それぞれの曲は小学生でも難なく弾ける難しさだが、リズムの違う譜面を連続してミスなく演奏するのは簡単じゃない。


 しかし、みさきのリズムは崩れない。

 まるで録音した音楽を再生するみたいに、一度目に行った演奏を再現する。一度のミスもなく、完璧に。


 それは、ゆいの演奏だった。

 みさきの前で毎日のように続けた練習。その練習において、最も上手くいった瞬間だけを繋ぎ合わせたかのような演奏。


 どんな譜面だろうと、短い範囲を繰り返し演奏すれば、誰でも一度はプロ顔負けの演奏が出来るだろう。みさきの演奏は、それだった。


 ゆいが練習する中で、最も上手に演奏できた瞬間。その記憶を組み合わせて、再現している。


 結衣は、すぐに気が付いた。ゆいの演奏を誰よりも長く聞いているのだから、気が付かないわけがない。


 この感覚は、龍誠では分からないだろう。

 結衣は、ゆいが初めてピアノに触れた瞬間から今日に至るまでを知っている。練習を見守って、何度も失敗した箇所を乗り越えた後には、一緒にハイタッチをしたこともある。自分のことのように、覚えている。


 結衣は、みさきのつまらなそうな色を見る。

 そして、みさきを見ていた娘の色を思い出す。


 ゆいは、どう思ったのだろうか。

 きっと今の結衣と同じ……いや、それよりもっと、強い感情を覚えたはずだ。それを理解できる大人は、結衣しかいない。


 ……あの人は、これを見越して私にみさきを預けたのでしょうか。


 今の結衣ならば、ゆいに最高の言葉を与えることが出来るだろう。しかし、みさきはどうだろうか。龍誠が言った言葉ならば、みさきはなんでも喜ぶ。だけどそれは、みさきのためになるのだろうか。


「……」


 みさきは二度目の演奏を終えて結衣を見る。

 結衣は、背筋に冷たいものを感じた。これから口にする言葉は、きっとみさきの将来を左右する。


 果たして、結衣は――

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