第210話 05:ゆいとピアノ
夜。
ゆいと龍誠はてくてく歩いていた。
目的地はピアノが弾けるスタジオ。
道中、龍誠はゆいの小さな握り拳を見守っていた。
普段のゆいならば天真爛漫に騒いでいる。それが一言も話さないのだから、その小さな握り拳に込められた感情は、とても強い。
いくつも考えていることがある。
例えば、怒っている。どうして自分が外に出る側なのか分からない。分かるけど、分からない。
あのピアノは、ゆいのピアノだ。
どうしてみさきが使うことになるのか分からない。ママが妊婦さんで、りょーくんが気を遣って外に出たのは分かる。でもみさきは――
果たして、ゆいの演奏は乱れた。
音楽なんてちっとも分からない龍誠でも、これは酷いと分かるレベルだった。
しかしゆいは練習を続けた。
何度も何度も失敗を繰り返しながら、胸の内に抱えた感情を吐き出すようにして、演奏を続けた。
「ストップ」
三十分ほど経ったところで、龍誠が声を出した。
ゆいはビクリと肩を震わせて演奏を止める。
「休憩しよう」
「まだ平気です!」
今日ここのピアノを使える時間は三時間。まだ半分も終わっていない。普段のゆいも、一度練習を始めれば、誰かに声を掛けられるまで演奏を続ける。
実際、龍誠も一時間くらいは我慢する予定だった。
しかし三十分で限界を迎えた。それほどまでに、ゆいの演奏は痛々しいものだった。まるで彼女の内側にあるグチャグチャした感情がそのまま表現されているみたいな、苦しい音だった。
「ゆいちゃん、なぜ上手くいかないか分かるか」
「……邪念が多いからです」
「いいや、それは違う」
龍誠は静かに首を振る。それはゆいにとって予想外の否定であると同時に、一瞬だけ邪念を削ぐ結果となった。
もちろん龍誠が狙って引き起こした結果ではないけれど、次の言葉は、しっかりとゆいに届いた。
「歌が足りない」
「…………」
りょーくん、何言ってるんだろ。
きょとんと首を傾げるゆい。思わず脱力。
「調子に乗るといつも歌ってるだろ」
「あれは、インスピレーションが溢れ出た結果です」
「そうそれ、インスピレーションだ」
ゆいは龍誠が何を言っているのか分からなかった。
「白状するとファンなんだ。せっかくだから聞かせてくれ」
「……なんと!」
ゆいの関心が龍誠に移った!
そもそもゆいが思春期的な悩みに苦しんでいたことが奇跡だった。確かに多感な年頃ではあるけれど、根本にある楽観的な性格は変わっていない。
要は、単純なのである。
「今日はそのためにスタジオ代を払ったと言っても過言ではない」
「そんな……りょーくんの時給よりも高いスタジオ代は、あたしのために……っ!」
いやそこまで高くねぇぞこのスタジオ。
龍誠は野暮な感想を心に秘めて、
「聞きたい! すげぇ聞きたい!」
「しょーがないなあ!」
ゆいは調子を取り戻した。
バッと両手を伸ばして、ピアノに向き合う。
そして、弾き語る。
観客は一人。ゆいが主演のコンサートが始まる。
「いきます。おうちかえりたいのうた」
はたらっきかたぁ かいかく~
社畜に食わせる残業代は~ ない~
という歌詞で始まった謎の曲。
今度は何に影響を受けたのだろうと悩む龍誠は、腕を組んで感情を殺していた。その外見だけは、真剣に音楽を聴いている。
やがて演奏を終えたゆいは、バッと勢い良く振り向いた。龍誠はふっと笑って、拍手で応える。
「社会の闇を的確に表現していたな」
「最後は家族愛に繋がるところがポイントです」
えっへんと胸を張るゆい。
そんなフレーズあったかなと悩む龍誠。
「続きます。トマト滅ぼしたい」
どんなにママが 彩り愛情込めても
どろどろえきで 食欲なくす~
今度はサビっぽいメロディから始まった。
龍誠は、相変わらず心に闇を抱えていそうな歌詞だなと思いながらも、魂のこもった歌声に感心する。
演奏後、再びバッと振り向いたゆい。
龍誠は期待に応えて拍手する。ゆいは満足そうに鼻を鳴らして、
「次が最後です。新曲です」
「おう、どんな曲なんだ?」
「――みさきに勝ちたい」
一瞬の間を置いて、ゆいは演奏を始めた。
その迫力は、龍誠は気圧される程だった。
新曲。
そう宣言された曲には歌がない。ピアノの為に用意された旋律が、滑らかに、しかし強い感情を伴って流れていく。
龍誠は、その曲に覚えがあった。ほんの数分前まで何度も聞いていた曲。しかし同じ曲とは思えない程の迫力がある。
……ここまで変わるのか。
それは、音楽に全く興味がない龍誠を感動させる程の演奏だった。
もちろんコンクールに感動の有無は関係ない。明確な評価基準があり、それを如何に満たせるかということだけが重要である。
龍誠は確実にみさきを贔屓する。
そのうえで、今の演奏を聞いた彼は思った。
もしも自分が審査員だったなら。みさきとゆいが共に百点の演奏をして、それでも優劣を付けなければならない状況になったなら。
きっと、ゆいに手を挙げる。
ゆいの演奏には、そう思わせる程の力があった。
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