第209話 04:緊急保護者会議
夜。
結衣と龍誠の寝室には明かりが灯っていた。
はむっ、と粘り気のある固形物を頬張る結衣。龍誠が作ったそれは、少し量が多くて、全て口に含むのは難しい。しかし結衣は、ゆっくりと時間をかけながら全て飲み込んだ。愛する夫が自分の為に作ってくれたのだから無駄には出来ない。
「相変わらず量が多過ぎます」
しかし文句は言う。きっちり伝える。
「無駄に大きいからですか、調整できませんか?」
しょんぼりする龍誠。
「何度も言っていますが、一口サイズで良いのです」
結衣は俯いた夫の顎に手を当てて、
「私の口の大きさは、まだ覚えられませんか?」
世界が寝静まった後の寝室。
愛し合う二人の視線が重なって、どちらからともなく顔を近付けた。
ふと、龍誠は結衣の口の端に白いものを見つけた。正体は明らかで、龍誠は、
「何を笑っているのですか?」
「これ、ご飯粒」
結衣の口に入り切らなかった白い粒を指に引っ付けて、堪え切れないという様子で肩を揺らした。
「両手で食べてるところ、子供っぽくて可愛かった」
「おにぎりが大きいせいです!」
結衣は早口で言って、口元を擦る。
「もう残ってないぞ」
ムッとする結衣。
その直後、眠っていた長男が泣き声をあげた。
「いい、俺がやる」
立ち上がろうとした結衣を制して、龍誠は腰を上げた。
「ほーらどうした。腹ペコか、トイレか?」
専用のベッドで眠る長男に話し掛ける龍誠。
結衣は無意識に口角を緩めて、自分のお腹に手を当てる。一目で妊婦と分かる膨らみ。あと二ヶ月もすれば、新しい家族が顔を見せる。
子供はサッカーチームが出来るくらい欲しい。冗談のようで、かなり本気の言葉。孤独を乗り越えて家族になった二人の、口には出さない夢。
「寝言のようです。そっとしてあげてください」
「マジか、この歳でも寝言とかあるのか」
「パパおにぎり下手、と言っていますね」
「いいや、俺にはママ食いしん坊に聞こえたな」
軽口を言い合う二人。
その数秒後、結衣が指摘した通り長男は静かな眠りを再開した。
「マジで寝言だったのか」
「あら、疑っていたのですか?」
「いいや、まだまだ敵わないなと思っただけだ」
苦笑して、また結衣の隣に座る龍誠。
そのあと、二人は少しだけ無言だった。
静かな時間。
だけど、隣に大切な誰かがいる時間。
結衣は龍誠に身体を傾ける。
それから、こほん、と声に出して、
「では、緊急保護者会議を始めましょう」
「唐突だな」
「今がベストです。これ以上は、その、ダメです」
「そうか」
肩を揺らす龍誠と、目を逸らす結衣。
「それにしても、二人が喧嘩か……」
「原因は分かりますか?」
「さっぱりだ。学校で何かあったのか?」
「相変わらず鈍感ですね」
龍誠は少し驚いた様子で、
「何か知ってるのか?」
「ゆいのことなら何でも分かります。だからこそ困ってしまうのですが……」
みさきのバカ!
ゆいが大声を出す直前、結衣は娘の色を見ていた。
あの感情を言葉で表現するのは難しい。
それは嫉妬に似ているけれど、どこか危機感があって、強い劣等感と共に負けたくない気持ちがあって、あえて一言で表現するならば、青春だった。
「みさきもピアノコンクールに出るそうです」
「みさきが? 初耳だぞ」
「ゆいが言っていました。しかし、みさき自身は何も考えていないでしょうね」
きょとんとする龍誠。
結衣は鈍感過ぎる夫に溜息ひとつ、
「親としては、とことんやらせてやろうと思います」
「……コンクールのことか?」
「はい。みさきは、龍誠くんが声を掛ければ直ぐにでも出場を決めるでしょう」
「俺から言うのか……?」
まったく事態が把握できていない龍誠。
結衣は、鈍感と切り捨てるのも酷かと考えて、
「みさきは許可待ち状態です」
「とりあえず分かったが、練習はどうする? 二台目のピアノを買うか?」
「スタジオを利用しましょう。利用料は、龍誠くんの時給よりも……安いと信じています」
含みのある言い方をする結衣。
現状、龍誠の収入は専業主婦の道を選んだ結衣よりも少ない。
「私は心配です。将来、あなたの収入だけで大家族を養えるでしょうか」
「……がんばります」
小声で返事をする龍誠。彼の収入は、年齢を考えれば決して少なくはない。しかし、結衣が運用している資産と比較すると子供の小遣いみたいな額だ。龍誠は結婚してから資本主義の闇に苦しめられている。
「まさに、ゆいは龍誠くんと同じ心境なのです」
「マジか、あの歳で資本主義に苦しんでいるのか」
「違います」
結衣は心底呆れた声で、
「身近に自分よりも優れた人間が居ると、どうしても比較してしまうものでしょう?」
その一言で、ようやく龍誠は事情を察した。
「なるほど、そういうことか」
みさきは優秀だ。異常だ。
まだみさきが幼い頃は、何かする度に褒めていた。それは今でも変わらない。みさきは年齢と共に高くなるハードルを軽々と超え続けているのだ。
一方で、ゆいは普通の子供だ。
いや、平均的な子供と比べれば、運動以外は優秀な部類に入るだろう。
ゆいは努力家だ。
結衣と結婚してから、龍誠は間近で見ていた。
龍誠は知っている。
右も左も分からない状況で、無謀な挑戦をすることがどれだけ大変で、怖くて――それを乗り越えた先に何があるのか、よく知っている。
「提案がある」
だから、その案は直ぐに思い浮かんだ。
「提案ですか?」
「ああ、とっておきのアイデアだ」
龍誠の表情を見て、結衣は微笑む。
それは、結衣が大好きな笑顔だった。
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