第208話 03:しょうぶ!
九月。
残暑が大人を苦しめ、夏休みロスが子供を苦しめる時期。
ゆいとみさきの戦争が始まった。
「……ふんっ」
「……べーっ」
そっぽを向くみさきと、舌を出すゆい。先日爆発した二人の感情は、睡眠を経ても鎮火しなかった。
ざわ、ざわざわ。
二人の様子を見て周囲がざわつく。
微妙な空気感の中、真っ先に立ち上がったのは、いつもゆいにチョッカイをかけている男子だった。
「おい、さっさと謝っとけ」
ゆいは唇を噛んで顔を上げた。
無言で睨まれた彼は、いつもと違う反応にゾッとする。しかし彼は、その違和感に気を配れるほど大人ではなかった。
「どうせみさきには勝てねぇんだから、長引かせるだけ無駄だって」
「うるさい!!」
ゆいはバンと机を叩いて立ち上がった。
目に涙を浮かべて、小さな拳を震えるほど握り締めて、彼を睨み付ける。
「……な、なんだよ」
「どーん☆」
緊迫した空気。
皆が固唾を呑んで見守る中、二人の間に飛び込んだのは瑠海だった。
「一流のレディは、ぷっつんしーなーいーぞ☆」
こつん、ゆいの額をつついた瑠海。
ゆいはギュッと口を一の字にして、腰を下ろした。
そっぽを向いたゆい。瑠海はひとまず安堵した表情を見せ、件の男子に目を向けた。
「……悪かったよ」
目も合わせない小声の謝罪。もちろんゆいは返事をせず、残ったのは険悪な空気だけだった。
いつも賑やかな教室が静まり返る。
二人の喧嘩は、それくらい衝撃的なことだった。
「ゆーいーちゃんっ」
声を出したのは、自称みんなのお姉さん
「何があったのかな? お姉さんに話してごらん」
ゆいは何も言わない。
「ほらほら、ほっぺたクルクルしちゃうぞ」
人差し指でゆいの頬に渦を描く静流。
ゆいは――
ゆいは、みさきに勝ったことがない。
初めての友達。
五年前、ゆいはひとりぼっちだった。
結衣と出会って、結衣に憧れた。
一生懸命に勉強した。ゆいは同年代よりも少しだけ早く大人になった。結果、友達が作れなかった。
いつもひとりだった。当時の結衣は仕事が忙しくて、家でもほとんど話が出来なかった。
そんなとき、みさきが現れた。
小さくて、無口で、一人では何もしない女の子。
ゆいは張り切った。
妹が出来たような気分だった。
正直いろいろ失敗した。
だけど、みさきだけは変な目で見なかった。
ゆいは孤独ではなくなった。
一番の親友は誰と問われたら、みさきの名前を答える。迷わず答える。コンマ一秒で返事をする。
だけど今では別の感情もある。小学生になってからは、ただの友達として考えるのは難しかった。
勉強。
学校のテストはいつも百点だ。ゆいとみさきにとって公立の授業はレベルが低過ぎる。だから、家では別の勉強をする。みさきは、いつもゆいより難しいことを学んでいる。ゆいがひとつ覚えるまでに、みさきは十個も二十個も覚えている。
運動。
ゆいは運動が苦手だ。体育の授業がある度に龍誠を頼っている。負けず嫌いで、必死に努力して、みさきが一度で出来ることが出来るようになる。
絵を描いても、裁縫をしても、英語もプログラミングも料理も何もかもみさきには勝てない。
だけど、ピアノだけは違った。
結衣が買い与えてくれた大切なもの。ゆいは音を鳴らすのが好きで、ピアノが上手に弾けると喜ぶ結衣の顔を見るのが好きで、時間さえあれば演奏していた。
あるとき、コンクールで賞を取った。
結衣は絶賛した。龍誠は興奮して、ゆいを持ち上げた。勢い余って天井に頭をぶつけた。みんな笑っていた。ゆいは、もっとピアノが好きになった。
ピアノだけは特別だった。
ピアノだけは、ゆいが一番だった。
でも、心の奥底で考えていたことがある。
もしもみさきがピアノに興味を持ったら――
ゆいは怯えていた。
他のことなら構わない。だけどピアノだけは絶対に譲れない。だってそれは、結衣との大切な思い出なおだから。
最近、結衣と話す機会が減っている。
結衣は子育てに忙しくて、お手伝いをしても、ほとんどみさきと話をしている。
もちろん結衣は差別などしていない。例えばナイフを触らせないのは、ゆいの指を大事に思っているからだ。しかしゆいの視点では違った。みさきの方が上手に出来るから、みさきばかり頼るのだと思っていた。
ゆいは、怖くなった。
みさきは一番の友人で、いつも一緒にいる。だからこそ、みさきの異常な能力を知り尽くしている。
学校のみんなも知っている。みんなが、ゆいよりもみさきの方がすごいと思っている。
もしもみさきがピアノに興味を持ったら。
ゆいは――あたしは、きっと勝てない。
そしたら、なにも残らない。
だからピアノだけは譲れない。
これが、昨夜爆発したもの。
ゆいの中にあった火種の正体。
大丈夫、みさきはりょーくんにしか興味がない。
りょーくんに頼めばコンクールには出ない。みさきのことは分かってる。誰よりも分かっている。
だから、
ゆいは勝ちたい。
ピアノだけは、負けられない。
「みさきは、」
ゆいは、長い沈黙の後に返事をした。
「みさきはライバル」
「ライバル?」
静流はきょとんとした反応を示す。
ゆいはみさきを指差して、
「みさきは次のコンクールに出ます! だから終わるまではライバルです! 獅子身中!」
級友達が揃って耳を傾けるなか、ゆいは宣言した。
「えーすごい! 二人ともコンクールに出るの?」
大袈裟に拍手をする瑠海。
目を向けられたみさきは返事をしない。
代わりに、ゆいが「そうです!」と叫んだ。
一番の親友を相手に、一度も勝ったことがない親友を相手に、それでも、結衣からもらったピアノだけは絶対に負けないと叫んだ。
「よーし! みんなで応援に行こう!」
静流が手を上げて、大きな声で言った。
「あ、でもどっちを応援すればいいのかな。お姉さんは皆のお姉さんだから、贔屓できないよ」
「俺は、」
声を出したのは、ゆいの地雷を踏み抜いた男子――蒼真だった。中二病を卒業した彼は、捻くれた態度で言う。
「俺は戸崎姉を応援する」
わーお。
思わず声を出した静流。
「負けそうな方を応援した方が楽しいだろ!」
「なんだと!?」
照れ隠しと、怒るゆい。
瞬間、堰を切ったように騒がしくなる教室。
なんだよ、喧嘩じゃないのか。
みさきちゃんピアノ弾くの!? 楽しみ!
乙女どもの真剣勝負。尊いなり。
おまえどうする? 俺みさきに御縁チョコ十個。
各々が好き勝手に騒ぎ続ける。
その声はどれも楽しそうだった。
その中で、ゆいだけは恐怖に震えていた。
みさきは多くの質問に返事をしながら、ゆいの意図を考えて、わからなくて、困惑していた。
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