第199話 SS:ゆいと体調不良
日曜日の朝。
結衣は珍しく家に居た。
ほんの一年ほど前までは年中無休で働くのが当たり前だった結衣だが、その生活は龍誠と出会ったことで少しずつ変化している。
もちろん、変化したのは生活だけではない。
体調が良くなったとか、余裕が生まれたとか、良いことは多くあるけれど、一番は最愛の娘と居られる時間が増えたことだ。
今、結衣は歌いながらピアノを弾くゆいを見守っている。
手にはアイロン。手元には小さな服。柔らかい微笑みを携えて、結衣は幸せな朝を過ごしていた。
「ファッ、キュッ! ファッ、キュッ!」
ガタンッ!(アイロンが落ちた音)
ジュー、ジュー(床が焼ける音)
「ママ! あっちっち! あっちっち!」
「ハッ!? ごめんなさい!」
珍しく慌てた様子でアイロンに手を伸ばす結衣。
しかし焦った彼女は目測を誤って、真っ直ぐ鉄に手を伸ばした。
「――ッ!?」
声にならない悲鳴を上げて手を引いた結衣。
「れいせいちんちゃく!」
颯爽と現れてアイロンを持ち上げたゆい。
そのままスイッチを切って、ホッと息を吐く。
ゆいは思う。
やれやれ、最近のママは世話が焼けるぜ。
ママは最強。
それから、かわいい。
最近では、こんな風に危なっかしいミスをすることも多い。
すっかり慣れてしまったゆいは、お手伝いをする感覚で結衣のフォローをしている。
原因は明らかだ。結衣は自覚しているし、ゆいも子供ながらに察している。察して、ママの幸せと新しいパパを渇望している。
だが、今回のミスは違う理由によるものだ。
……ゆ、ゆゆゆゆいが、ゆいが不良に
結衣は激しく動揺していた。
……いえいえ、そんなはずありません。きっと何かと聞き間違えて――
「ファッ、キュッ! ファッ、キュッ!」
「いやあああああ!」
結衣は耳をふさいで泣き崩れた。
ゆいは突然の奇行に困惑しながら――くしゃみを繰り返す。
「ファッ、キュッ! ファッ、キュッ!」
うー、なんだか止まらないぞ?
のんきに首を傾けるゆい。一方で結衣の震えも止まらない。
結衣は震える手でケータイを握りしめ、この世界で信頼できる唯一の大人に電話を掛けた。
*
「風邪じゃねぇの?」
「ファッ、キュッ! ファッ、キュッ!」
なんだか喧嘩を売られている感じがする。
そんな感想を抱きながら、呼び出された龍誠はゆいにティッシュを差し出した。
「風邪でしたか。安心しました」
そっと胸を撫でおろす結衣。
「……ん」
大丈夫?
みさきはゆいの肩をトントンした。
「ファッ、キュッ! ファッ、キュッ!」
その小さな衝撃で再びゲフゲフしたゆい。
みさきは飛び散った鼻水を見て、そっと龍誠の背に隠れた。
行動の意図を察した龍誠は苦笑しつつ、床に飛び散った液体を拭き取る。
「ファッ、キュッ! ファッ、キュッ!」
さらに激しくゲフゲフするゆい。
流石にこれは矯正した方がいいんじゃねぇの? そう思った龍誠が結衣に目を向けると、しかし彼女は恍惚とした表情でカメラを構えていた。
「ああ、半泣きで鼻をすする姿……かわいい」
ダメだこいつ。
龍誠は諦めて、新しいティッシュでゆいのケアをする。
「とりあえず、温かくして寝ようか」
「……かんしゃかんげきぃ」
元気のない様子で言ったゆい。
一目で分かる体調不良。少し前までなら心配で他に何も考えられなかったであろう結衣は、しかし娘の貴重な姿を写真に収めようと必死である。
もちろん、ゆいと二人きりならこんな行動はしていない。
龍誠がいる。たったそれだけで、結衣の中にあった負の感情は安心感に変わったのだった。
――数時間後。
「悪化していますね」
ゆいの額に手を当てた結衣は、心配そうな声で言った。
「……てっぷのきゅぅぅぅぅ」
ベッドで横になっているゆいは、自分ではどうにもならないと訴えた。
ほんの少し前までは楽しく撮影していた結衣だが、どんどん体調が悪化していくゆいを見て、不安が増していた。
「なにかしてほしいことはありますか?」
「……ちゅー」
迷わず顔を近付ける結衣。
しかし直前で隣に立っていた龍誠に止められた。
「今はやめとけ。移ったら面倒だ」
「放してください。ゆいの為なら平気です!」
「誰が看病するんだよ」
結衣は少し考えて、
「待て待て、どうしてそうなった」
「止めないでください! ゆいの為なら死ねます!」
貴方が看病するのですよ!
とは言えない。
「マジでやめとけ!」
「やーめーまーせーんー!」
羽交い絞めにされながらゆいに唇を近付ける結衣。
だが力の差は歴然。結衣は軽々と持ち上げられて、子供みたいにじたばたしていた。
「……」
その姿を見て、ゆいは思う。
これは――ママとりょーくんが仲良くなるチャンス!
「……チュー」
ゆいは結衣に顔を近付けた!
「待っててください! 今行きます!」
「おまえ最近どうかしてるぞ!? 前はもう少し冷静だったろ!?」
「あなたが言わないでください! このみさき中毒者!」
「みさきをウイルスみたいに言うんじゃねぇ!」
騒ぎ始めた結衣と龍誠。
ゆいは声が大きくて頭がキーンってなるなぁと思いながら、楽しそうなママを見てニヤニヤするのだった。
くい。
服を引っ張られて、龍誠は足元に目を向けた。
「うるさい」
「……ごめんなさい」
みさきの一言で龍誠は動きを止める。
隙を見て抜け出した結衣は迷わずゆいに駆け寄った。
みさきに説教される龍誠。
ゆいからウイルスを吸い出そうとする結衣。
四人で過ごす日曜日は、ゆいが体調不良を忘れるくらいには賑やかだった。
※ゆいの風邪は翌朝に完治しました。
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