第193話 LO


 私の話をしよう。


 私はお母さんが大好きだった。

 だけどお母さんは、私のことが好きじゃなかった。


 甘えると嫌な顔をして、いつしか顔を見る回数も減っていった。

 そして五歳の誕生日を迎えると――りょーくんの所に捨てられた。


 りょーくんは怖かった。

 睨むし、大きいし、臭かった。


 でも優しかった。

 いつも私のことを見てくれた。


 りょーくんは、みさきを一番に考えてくれた。




 まゆちゃんは、きっと私にとって母親のような存在だった。

 絵が上手くて、たまに早口になって、たまに変な顔をする不思議な人。


 だけど、りょーくんと同じくらい優しくて、傍に居ると安心できた。

 お風呂の入り方、体の洗い方、絵の描き方……いろんなことを教えてもらった。


 離れることになった時は悲しかったけれど、まゆちゃんのことを応援しようって思った。夢を叶える為に頑張っている姿が、とってもかっこいいと思えた。

 

 まゆちゃんの描いた漫画は全部もってる。

 映画も見た。面白かった。


 まゆちゃんは、私にとって最も大切な人の一人だ。




 ゆいちゃんは、義理のお姉ちゃんだ。

 ガサツな所が多いけれど、素直で優しい自慢のお姉ちゃん。


 そして結衣さんは、りょーくんのお嫁さんだ。

 私にとってはお母さんで、そのことを理解するまでには時間が掛かった。


 りょーくんと結衣さんの結婚式は良く覚えている。

 とっても幸せそうな顔をした二人を見て、私まで嬉しくなった。


 結婚式の少し後、結衣さんのお腹が大きくなった。


「……ふとった?」

「みさき、そこに正座しなさい」


 正座して聞いた赤ちゃんの話は、今でも覚えている。


 一年くらい経って、弟が生まれた。

 ゆいちゃんは大喜びしていて、私も「ちっちゃいりょーくん!」と心の中で騒いでいた。


 名前はあき

 私は「あーくん」と呼んで、それはそれは可愛がった。


 ゆいちゃんはスッカリお姉ちゃん気分。

 一生懸命にお世話をしようとするけれど、いつも泣かせてしまって、最後は一緒に泣いていた。


 あーくんが生まれてから半年くらいして、また結衣さんのお腹が大きくなった。


 次に生まれたのも男の子で、海誠かいせいと名付けられた。かーくんはヤンチャな子だったけれど、ゆいちゃんが傍に居ると、なぜか大人しくなった。


「なんか! いったいかん!」


 曰く、ゆいちゃん。

 なんか、一体感を覚えるらしい。


 さて三人目の弟が結衣さんのお腹にいる頃、私は十歳になった。学校で二分の一成人式が行われて、年齢も二桁になって、なんだか少し大人になったのかなと思った。


 四年生の終わりには課外活動が始まって、私は周りの勧めで陸上を始めた。この頃はまだまだ体が小さかったけれど、りょーくんに教えてもらったおかげで、とっても運動が得意だった。


 六年生になる頃には、ゆいちゃんと身長が逆転した。その頃からゆいちゃんが必死に牛乳を飲み始めたけれど、私は内心「もう遅い」と思っていた。


 ゆいちゃんと長男のあーくんは犬猿の仲で、ゆいちゃんが牛乳を飲んでいる時に「やーい! ゆいねーちゃんのチビー!」「うっさいお前の方がチビだ!」という会話を飽きずに繰り返していた。


 さて私の話に戻ると、体が大きくなったことで、陸上の記録が凄いことになった。


 だけど私には実感が無くて、興味が持てなくて、とりあえず、りょーくんが喜ぶから金色のメダルを貰ってこよう、くらいの気持ちだった。


 中学校の入学式、結衣さんのお腹には初めての妹がいた。名前は生まれる前から『友里ゆり』と決めているらしくて、私はゆりちゃんと会える日が楽しみだった。


 この頃には、いろんなことが分かるようになっていた。


 家族の事、りょーくんとのこと。

 りょーくんと結衣さんのこと。


 弟達のこと。

 ゆいちゃんとのこと。


 結衣さんは、あーくんが生まれて直ぐに仕事を止めた。きっと家に残すのが心配だったのだろう。


 その後は家でも出来る仕事を始めて、家にパソコンとインターネットが設置された。


 その家は、新しい家だ。

 結婚式の少し後、私達はまたお引越しをした。


 今度の家は、一戸建て。

 とても広くて、二階建てで、部屋が十三個もあった。


 二個は私とゆいちゃん。

 一個はりょーくんと結衣さん。

 そして十個は、未来の子供達の部屋って聞いた。


 お金がいっぱい必要みたいで、りょーくんが家に帰る時間が少しだけ遅くなった。


 私は寂しかったけれど、お姉ちゃんだから、我慢した。我慢して、弟達の面倒を見た。


 たまに弟よりゆいちゃんの方が大変だったけれど……とにかく、思った。


 子供を育てるのって、大変だ。

 りょーくんは、どうして私を育ててくれたんだろう。


 りょーくんと私は、赤の他人。

 初めて会った時、りょーくんはきっと私の事が嫌いだった。でも直ぐに優しくなって、一生懸命に育ててくれた。


 私はただただりょーくんのことが大好きだった。

 だけど大人に近付くにつれて「なんで?」と思うようになった。


 きっと聞けば答えてくれる。

 でも、なんとなく聞けなかった。


 だから代わりに喜ぶことをしようと思った。

 部活は陸上を続けて、なんとなくのまま一番になった。


 勉強も、ずっと百点だった。

 中学校の勉強は、小学生の頃りょーくんに喜んで欲しくてやったところばかりで簡単だった。


 ゆいちゃんは私に対抗して猛勉強していた。

 結衣さんが一生懸命に教えていて、三年間でどんどん差が縮まった。


 ゆいちゃんはガサツだから、よくミスをする。

 だけど一回だけ百点を取って、その時は家でパーティをした。楽しかった。


 この頃には大家族。

 五人の弟と、二人の妹。


 そしてお腹の中に、三人目の妹。

 名前はゆずちゃんになるらしい。


 家は毎日騒がしくて、いつも疲れた様子で帰ってくるりょーくんが、だけど皆の声を聞くと元気になる。だから私は家族が大好き。りょーくんが元気になれる場所が、とてもとても大好き。


 ちょっとだけ大変だったのは、進路を決める時だ。


 私は近くの高校に通うつもりだった。

 だけど周りの人は言う。


 陸上の名門校へ行きなさい。

 一番の進学校へ行きなさい。


 そんなに運動が出来るのに。

 そんなに勉強が出来るのに。


 どうでも良かった。

 全部りょーくんが喜ぶからやっただけだ。


 りょーくんと離れることになるなら、喜ぶ顔が見られないなら、そんなの意味無い。


「……高校、行かない」


 三年の秋、私は結衣さんにそう言った。

 結衣さんは一番下の妹を抱いたまま、短く返事をした。


「龍誠くんに、同じことを言いなさい」


 それは結衣さんらしい言葉だった。

 りょーくんに相談しなかったのは「高校に行きなさい」と言われるのが分かっているからだ。りょーくんは、お父さんだから。お父さんなら、そう言うしかない。


 りょーくんは私のヒーローだ。世界で一番かっこいい特別な存在だ。そう思っていたから「普通のお父さん」になって欲しくなかった。


 りょーくんに話をして、高校に行きなさいって言われて、私の中で普通のお父さんになってしまうかもしれない。それが怖くて、りょーくんに話すのは嫌だった。


 だから結衣さんに相談した。

 りょーくんの次に頼りになる人で、私にとっては普通のお母さんだから。


 でもきっと結衣さんにはお見通しだった。

 反対に、私は何も分かっていなかった。


「みさき、心配はいりません」


 まるで私の心を覗き見たかのように、結衣さんは言う。


「みさきが大好きなりょーくんは、世界で一番かっこいい人ですよ」


 こんなことを言われたら、りょーくんに話をするしかない。


 だけど直ぐには話せなかった。

 りょーくんと話をする機会は毎日あった。でも、りょーくんと二人で話すチャンスは、なかなか訪れなかった。


 みんな、りょーくんが大好きだから。

 りょーくんの側には、いつも弟達がいた。


 私の側にも、弟達が寄ってきた。

 かーくんだけはゆいちゃんにベッタリだけど、他の子は元気いっぱいだった。


 まだ歩くことも出来ない妹達は結衣さんが面倒を見ていて、ゆいちゃんは頼りなくて、だから弟達のことを見るのは、ほとんど私か、りょーくんだった。


「みさきねーちゃん! オレきょう、かけっこでいちばんだった!」

「ん。あーくん、すごいね」

「すごいでしょ! しょうらい、みさきねーちゃんみたいになるんだ!」

「ん。頑張って」


 りょーくんにしてもらったみたいに、弟の頭を撫でる。そうしていると、りょーくんが嬉しそうにこっちを見る。それを見ると、私も嬉しかった。


 だけど、たまに思う。

 弟達がずるい。


 もうずっと前から、りょーくんは一緒にお風呂に入ってくれなくなった。体が大きくなってからは、りょーくんに抱き付いたり、肩の上に乗ったりするのが難しくなった。


 私は、りょーくんと一緒にいたいだけ。

 他には何もいらない。なのに、どんどん遠くなる。


 りょーくんを独占して、思い切り甘えたい。

 だけど、そうしたら、りょーくんが困る。


 りょーくんは私が甘えたら困る。

 そのことが、どうしようもなく辛くて、頭がおかしくなりそうなくらいに、痛かった。



 *



「結衣、起きてるか?」

「みさきのことなら本人に聞くのが一番ですよ」

「……いつも思うんだが、なんで言わなくても分かるんだ?」

「当然のことです。あなたの妻なのだから」

「そうか。それは恐れ入った」

「ええ、とことん思い知ってください」


「……子供の成長は早いな」

「そうですね」

「今のみさきには、どう声をかけたらいいものか」

「みさきは昔から大人びていましたからね。身長は驚くほど伸びました。弟達から好かれていて、私も頼ってしまっています。ゆいなんて、学校で何度も助けられているそうです」


「ゆいちゃんは、昔から変わらないよな」

「あの子はあの子で、立派に成長していますよ。幾分か口が悪くなりましたが、年齢を考えれば、しっかりしています。みさきと比較するのは少し酷でしょう」


「ああ、みさきは本当にすごい」

「不合格です。みさきは昔のままですよ」

「……昔のまま?」

「話せば分かります」


「…………」

「今なら、まだ起きていると思いますよ」

「……本当に、お前は」

「行ってください。こういうことは早い方が良いと思います」

「ああ、分かった」


 おぎゃあああああああああ!


「おーよしよし、怖い夢でも見ましたか?」


 おぎゃぎゃあああああああ!


「あらあら夜泣きの二重奏です。友里と結花ゆかは、きっと仲良しになりますね」


 どごっ、どごっ!


「うっ、お腹の子も反応しています」

「……大丈夫か?」

「平気です。来年には八児の母なのですよ? ゆいとみさきも含めれば、十人目です。だから今は、みさきを優先してください」

「……ああ、分かった」



 *



 遠くから赤ちゃんの泣く声が聞こえてくる。

 こんなことは慣れっこだけど、今夜は少し気になった。


 眠れない。

 いろいろ考えてしまって、ちっとも眠くならない。


「……みさき、起きてるか?」


 っ、りょーくんだ。

 なんで、急に……どうしよ。


「入るぞ」


 えっ、待って!


「悪いな、起こしたか?」

「平気、起きてた……なに?」


 りょーくんはポリポリと頬をかいて、


「久々に、一緒に寝ないか?」

「……なんで?」


 なんで急に、一緒に寝ようなんて言うの?


「最近みさきと話す機会が少なかったから、寂しくて」


 りょーくんは、嘘が下手。

 でも今の言葉は、とても嬉しかった。


「狭いよ」

「昔みたいに俺の上に乗れば大丈夫だろ」

「重いよ」

「安心しろ。悪ガキ達で鍛えてる」


 りょーくんは弟達に甘い。その分だけ結衣さんが厳しいから、りょーくんはとっても弟達に好かれている。凄い時は、五人揃ってりょーくんに抱き付いてる。


 だから、私ひとりくらい大丈夫なんだと思う。

 でもなんだか……ちょっと恥ずかしい。


「りょーくん、えっち」

「そうなるのか!? 悪かった、別に下心とかは無いんだ!」

「りょーくん、ひっし」

「……みさき、からかってるだろ」


 バレた。

 でも、りょーくんだって照れ隠しで結衣さんに意地悪してるの、知ってる。だからこれは、りょーくんのマネ。


 ……結衣さんが、言ったのかな。


「聞いたの?」


 楽しい時間は終わり。

 ちょっと寂しいけど、私から話を振った。


 りょーくんが部屋に来る理由は他に考えられなくて、明日もお仕事があるのに、私のせいで睡眠時間を奪ってはいけない。


「ごめんね」


 りょーくんはとっても忙しいのに、私のせいで心配をかけてしまったことが、申し訳ない。


「みさき」


 顔を上げる。

 同時に、ポンと頭に手を乗せられた。


「弟達は好きか?」

「……ん?」

「明は特に懐いてるよな。海誠はゆいちゃんにベッタリだけど、さとる拓海たくみは、いつもみさきの話をしてる」


 りょーくんは楽しそうに弟達の話をした。

 その顔を見ると、やっぱり私は嬉しくなる。


 もっともっと、りょーくんに喜んで欲しくなる。


夏樹なつきくんも、ベッタリ」

「ああ、そうだな」

「みさきねーちゃん、大人気」

「ああ、みさきは立派なお姉ちゃんだ」


 そう言って、りょーくんは頭を撫でてくれる。

 嬉しい。とっても嬉しい。


 みさきは、この為に頑張ってるんだよ。

 りょーくんに褒めて欲しくて、喜んで欲しくて、その為だけに頑張ってるんだよ。


「りょーくん」


 そっと服を掴んだ。

 このまま抱き付いて昔みたいに思い切り甘えたい。


「……私、高校、行かない」


 言うつもりは無かったのに、口が勝手に動いてしまう。


「りょーくんと、ずっと、一緒がいい」


 そのまま、幼い子供みたいに甘えてしまった。

 頭では分かっているのに、我慢できなかった。


 きっと怒られる。優しいりょーくんに、普通のお父さんみたいに、怒られる。


 そう思うと、少し泣きそうになった。


「……みさきがそうしたいなら、そうすればいい」


 だけど、りょーくんは怒らなかった。


「ごめんな。みさきに頼ってばかりで、みさきのこと、考えてやれなかった」


 なんで謝るの?

 私、ワガママを言っただけなのに。


「みさき、ゆいちゃんは先生になりたいらしいぞ」

「先生?」

「ああ、子供達からチヤホヤされたいそうだ」

「ゆいちゃん、正直」


 知らなかった。

 ゆいちゃん、先生になりたいんだ。


「明は将来の夢を聞かれて、みさきねーちゃんって答えたそうだ」

「叱って」

「いいじゃねぇか。可愛いだろ」

「恥ずかしい」


 あーくん、やんちゃ。


「まあとにかく、下の子達も、そのうちやりたいことを見付けると思う」


 ……りょーくんの言いたいこと、分かった。


「私は、無いよ」

「俺もそうだ」


 私は驚いて、だけど直ぐに気が付いた。

 りょーくんの趣味とか、何も知らない。


 私が頑張った時、家族と一緒に居る時、りょーくんは嬉しそうな顔をする。でも、りょーくんが一人で居る時のこと、何も知らない。


「運動が得意だった。勉強も出来て、学校で教わるようなことなら、誰にも負けなかった。みさきと同じだ」


 それは私の知らないりょーくんの話。

 とっても興味深いと思った。


「なんでも出来たのに、なんにも出来なくて、興味も持てなかった」


 りょーくんの声が、どうしてか胸に突き刺さる。

 本当に、同じだ。学校では何でも出来て、みんなにすごいねって言われるけど、嬉しくないし、興味も無い。


 ……そっか、分かった。

 りょーくんは、りょーくんのいない私だったんだ。


 もしも、りょーくんが居なければ……私は、どうなっていたんだろう。


「みさき」


 名前を呼ばれて、顔を上げた。

 りょーくんは私の目を真っ直ぐ見る。


「みさきは何でも出来る。俺が何でもやらせてやる」


 りょーくんは、笑顔で言う。


「だからまず、みさきがやりたいことを見付ける為に、俺が知ってる最強の方法を伝授する」

「……なに?」

「友達を作れ。いろんな人と仲良くなれ」

「……それだけ?」


 聞き返すと、りょーくんは力強く頷いた。


「ゆいちゃんから聞いてるぞ。みさき、友達いないんだろ?」

「ゆいちゃん」

「他には?」

「瑠海ちゃん」

「それから?」


 ゆいちゃん……覚えてて。


「たまに、声、かけられる」


 ちょっとだけムキになって言うと、りょーくんは笑った。

 なんだか子供扱いされていて、とても微妙。


「部屋、戻って」

「怒るなよ」

「戻って!」

「分かったから押すなって」


 りょーくんは素直にドアまで歩いて、


「友達の話を聞けるの、楽しみにしてるからな」

「……ん」


 頷いて、私は頭から布団を被った。

 それから暫くして、ドアの閉まる音が聞こえる。


「……」


 ひょっこり布団から顔を出して、本当にりょーくんがいないことを確認した。


「りょーくん、大好き」


 ひっそりと、私は呟いた。

 りょーくんは、やっぱり世界で一番かっこいい。



 *



「かーくんはトーマトがにーがーて。ゆいお姉ちゃんがー、いつか食べさせてあげるぞー♪」


 不思議な歌を歌うゆいちゃんと一緒の登校。

 私はちょっとだけ緊張しながら、ゆいちゃんに声をかけた。


「ゆいちゃん」

「おー珍しい。どうしたの?」

「友達、どうやって、作る?」

「…………」


 ゆいちゃんは足を止めて、とっても驚いた目をして私を見る。


「友達って言った?」

「ん」

「プリンセスオブボッチで有名なみさきが?」

「怒るよ」


 ゆいちゃん、最近ちょっと、調子に乗ってる。


「なんで、いまさら?」

「……なんとなく」


 ゆいちゃんは腕を組んで、うーんと声を出す。


「ははーん、りょーくんに何か言われたんでしょ」


 ムカつく顔をして、ゆいちゃんは言い当てた。

 それから周りをキョロキョロして、大きく息を吸う。


 私は嫌な予感がして、ゆいちゃんの口を塞ごうと手を伸ばした。


「みんな聞いてー! みさきが彼氏募集してるって!!」


 ――けど、遅かった。


 おいおい聞いたか? みさきちゃんが彼氏募集だってよ。

 情報源が戸崎姉だろ? どうせいつもの戯言だって。


「そこ聞こえてるから! 今回はマジだから!」


 ――思ったより平気だった。


「ゆいちゃん、正座して」

「え?」


 でも、やっぱり叱っておこうと思う。


「早くして」

「いやでも通学路だよ? 遅刻しちゃうよ?」

「早くして」

「……はい」



 ゆいちゃんにお説教した後、いつも通り教室に向かった。ゆいちゃんとは違うクラスだ。


 私はクラスメイトの顔だけなら覚えたけれど、名前も一緒に覚えた人はいない。


 どうしようかな。

 りょーくんと約束したから、頑張らないと。


 考え込んでいると、前の席に座っている女の子が、声をかけてきた。


「みさきちゃん、彼氏募集って本当?」

「嘘」

「そ、そっか。だよね、ごめんね」


 謝られちゃった。

 悪いの、ゆいちゃんなのに。


 ……聞いてみよう。


「あなたは?」

「……え? え、え、えぇ!? 私ィ!?」


 すごい反応。

 なんか、まゆちゃんみたい。変な人。


「彼氏、募集中?」

「ええっと……どちらかと言えば、居たら嬉しいよねー、みたいな」

「なんで?」

「えー? なんか、ほら……憧れ的な?」


 憧れ……?

 よく分からない。


「どうして?」

「いやほら、付き合ってる人達とか見ると、なんか、いいじゃん?」

「そう?」

「……そう、だと、思い、ます」


 なんか、小さくなっちゃった。


「なになに、何の話してんの?」

「みさきちゃんが話してるとか珍しいじゃん。私も混ぜてよ」


 なんか、いっぱい人が来た。

 でも、ちょうどいい。


 いろいろな人と話をしよう。

 りょーくんが、そう言ったから。


 ――そんな動機で、私は級友達と話すようになった。


 三年の二学期という時期だったからか、話題は進路や勉強の事が多かった。あとは誰が誰を好きとか、そういう話。


 全部、興味の無い話だった。

 だけど、みんな楽しそうだった。


 それを見てると、いいなって思えた。

 だから私は……


「結衣さん、教えて」

「はい、何を知りたいですか?」


 夜、弟達がお風呂に入っている時。

 私は結衣さんに相談した。


「誰かが喜ぶ、お仕事?」


 級友達と話をして気が付いた。

 私は、誰かの嬉しいが好きだ。


「何をすれば、いい?」

「まずは、沢山の誰かを知るのが良いでしょう」


 結衣さんは微笑んで、一冊の本を私に差し出した。


「……なに?」

「ひとつの選択肢です。あとは、みさきが決めてください」


 結衣さんは他に何も言わなかった。

 差し出されたのは、とある私立高校のパンフレットだ。


 全校生徒は二千人程で、各学年に一クラスだけ特殊な学科が存在する。普通科とは違うそこで行っているのは、海外留学だ。


 最初の一年間は外国で過ごして、それから日本に戻ってくる。他の国に行って、いろんな考え方を学んで、帰ってくる。そんなカリキュラム。


 それを知った時、私は驚いた。

 ほんの少し前なら絶対に嫌だって思ったはずなのに……ワクワクしてしまった。


 りょーくんが教えてくれた最強の方法は、いろんな人と仲良くなること。

 結衣さんが与えてくれた選択肢は、いろんな人と会える場所。


 理解した時には、もう決めていた。



 *



「えぇ!? みさき外国に行くの!?」

「ん、一年だけ」

「ほんとに!? りょーくん欠乏症で倒れたりしない!?」

「そんな病気、無いよ」


 ゆいちゃんの反応は、こんな感じ。

 よく分からなかった。


「そうか、みさきは外国へ行くのか」

「ん、いろんな人と、仲良く、なるよ」

「そうか、頑張ってくれ……俺も、みさき欠乏症で倒れないように頑張るから!」

「そんな病気、無いよ」


 りょーくんの反応は、こんな感じだった。

 ゆいちゃんの言ってることが分かった。


「知らない人には付いて行かないように」

「危機管理?」

「はい。それから体調には十分注意して、りょーくん欠乏症で倒れる前に電話をすること」

「ん、分かった」


 結衣さんは、お母さんらしい反応だった。

 病気のことは、受け入れた。


 弟達とも簡単に話をして、学校で友達にも話をして――その日は、あっという間に訪れた。


 初めて乗った飛行機。

 聞き慣れない言葉。


 ホストファミリーと簡単に挨拶をして、案内された部屋に荷物を置いた。その後は直ぐに学校だから、持っていく物を取り出そうとして……


「ん?」


 見慣れない本が一冊。

 古くて、ところどころ傷が目立つ。


 表紙には、大きな文字で『みさき』と書かれていた。


 なんとなく本を開く。

 直ぐに、りょーくんの物だと気が付いた。


「…………」


 そこに書かれている文字を見て、私は


「りょーくん、字、下手」


 くすくす笑って、本を閉じた。

 とっても気になるけど、あまり時間が無い。


 ぱらぱら見たら最後までギッシリ文字が書いてあるし、今晩ゆっくり読むことにしよう。もしかしたら、りょーくんが何かメッセージをくれたのかもしれない。


 学校では、初日だからか簡単な案内だけだった。

 私がしたことは、同じ学校から留学した人達と連絡先を交換したことくらいだ。


 それが終わってからは、直ぐにホストファミリーの家に戻った。

 ちょっどだけ時差ボケに悩みながら、とっても気合の入った料理で歓迎してもらって、そこそこ英語が通じることに安心した。


 あっという間に時間が流れて、気が付けば夜。

 おやすみの挨拶をして部屋に入った後、私は直ぐに本を開いた。


 最初のページをめくって、最初の文字を見る。


 ――みさきと出会った日。


「……日記?」


 やっぱり、りょーくんの物で間違い無い。

 みさきって書いてあるから、弟達が間違えて入れちゃったのかな?


「……」


 私は少し悩んだ。

 勝手に人の日記を見るのは、悪いこと。


 でも、気になった。

 りょーくんがどうして私を育ててくれたのか、書いてあるかもしれない。


「……ごめんね」


 私は日記を読み始めた。


 とっても懐かしい気持ちになった。

 りょーくんと出会ってからのことが、たくさんたくさん書いてあった。


 ――育てると決めた日


 りょーくんが食べさせてくれた牛丼、美味しかった。あの時、りょーくんは優しい人なのかなって、少し思った。


 日記の文章は、乱暴な表現が多くて、すごく読みにくい。


:みさきを育てると決めた。

:ムカついたから、やってやるって思った。

:そしたら、案外わくわくした。


 しかも、大事なことが分からない。

 どうしてムカついたの? わくわく……?


 他に気になったのは、なんだか文章が過去形で、思い出しながら書いているような印象を受けたことだ。


 ――禁煙した日


:みさきの為にタバコをやめることにした。

:わりと辛かったが、最初としては上等だと思った。


 そういえば、りょーくんは直ぐに臭くなくなった気がする。

 このあとは、一緒にお風呂に入って……


 ――銭湯に行った日


 そうそう、りょーくんと初めて銭湯に行った。

 

:いきなり熱いと怒る。

:髪は少し強めに洗う。

:パパって呼んでくれなかった。


 ふふっ、こんなことメモしてたんだ。

 あと、名前の事を気にしてたのかな? でも、りょーくんは、りょーくん。


:しっかり育てようと、あらためて思った。


 やっぱり理由は書いてないし、短い。

 箇条書きだし……日記というより、メモ張?


 ――禁酒した日


:みさきに怒られてしまった日。

:酒はもう二度と飲まない。あの失敗を忘れてはならない。


 ……怒って、ないよ?

 ちゃんと覚えてる。りょーくんが、初めてギュッとしてくれた日のことだ。


 えええ……私が怒ったと思ったから、お酒を飲まなくなったんだ。逆に、嬉しかったんだけどな。


 ――みさきが勉強を始めた日


 あ、初めて本を買ってくれた時のことだ。

 私が勉強して何かを覚えると、すごく喜んでくれてた。


 だから、夢中で勉強した。おかげで高校に入る時は楽だったな。入試、簡単だった。


:みさきはやっぱり子供。

:ちょろい。とりあえず褒めれば大丈夫。


 これは、ちょっと読みたくなかったかな。


 ――短期バイトを始めた日


 兄貴さんとのことが書かれていた。

 りょーくん、最初は兄貴さんのところで働いてたんだ。


 あのお店、汚いけど美味しかったな。


 ――同人誌を読んだ日


 ……え、まゆちゃんにエッチな本を読まされたの?


 ――みさきが入園した日


 待って、前の話が気になる。

 もっと詳しく書いといてよ!


 でも、これはこれで懐かしい。

 へー、まゆちゃんのアイデアだったんだ。


 ……んー?

 りょーくん、友達のこと、役に立つ存在って言ってなかった?


 今と違う。日記にも特に書いてないし……どこかで考えが変わったのかな?


 ――送り迎えをした日


:みさきに友達が出来たらしい。仲良さそうな感じで、保育園に入れて良かったって思った。


 初めての感想だ。

 ふふっ……りょーくん、成長してる。


 ――短期バイトを卒業した日


:この日、短期バイトを卒業した。

:多くのことを学んだ。あのクソ店長のことは心から尊敬して、兄貴と呼ぶことにした。


 りょーくんも、学んだんだ。

 あと最初はクソ店長って呼んでたんだ……りょーくん、やんちゃ。


 ――お祈りされた日


 ロリコンさんと会った日のことだ。

 そういえば、お風呂で騒いでた人、ロリコンさんだ。


 ……変態さん、だったんだ。


 ――人生ゲームを作った日


 プログラミングのこと、事細かに書かれてる……なんか、面白そうかも。


 りょーくんのお仕事、プログラミングだったっけ?

 私も、ちょっとやってみようかな……。


 ――いろいろ記念日


 ゲーム完成したんだ!

 流石りょーくん。すごく頑張ってるの、伝わったよ。


 しかも私が初めて牛丼を完食した日だったんだ。

 牛丼……結衣さんの料理ではあまり出てこないけど、今でも好きだな。



 私は昔のことを思い出しながら、次々とページをめくった。ここまでのページは、スラスラとめくることが出来た。


「黒い」


 思わず、声が出た。

 次のページには、突然、ギッシリと文字が書かれていた。


 なんとなく読まずに次のページを見る。

 その次も、そのまた次も、真っ黒になるくらい文字が書かれていた。


「……この日、何かあったのかな?」


 なんとなく深呼吸をしてから、私は読み始めた。


 ――一歩進んだ日


:あの人、じゃなくて、母親と八年振りに会った。


 その文字を見て、私は目を疑った。

 そういえば、りょーくんは一人で生活していた。


 でも母親と八年も会っていないなんて思わなかった。だけど一番驚いたのは、その次の文章だ。


:母親の口から、産まなければ良かったという言葉の、


「……ひどい」


 思わず読むのを止めて、声が出た。


 りょーくんの、お母さん。

 たまに会う優しいおばあちゃん。

 

 こんなひどいこと、りょーくんに言ったの?


「……」


 私は深呼吸してから、もう一度、読み始める。


:母親の口から、産まなければ良かったという言葉の、本当の意味を聞いた。彼女が何を思っていたのか、初めて知った。その気持ちが痛いくらい分かった。俺もみさきを育てようとして、何をすればいいのか分からなくて、すごく悩んでいるからだ。毎日、何をするにも、すごく不安だったからだ。


「……りょーくんの、気持ち」


 今迄の箇条書きの文章とはまるで違う。

 ここから先に、きっと私の読みたかった文章がある。


 それを思うと、少しだけ怖くなった。

 だけどやっぱり、読むのをやめられなかった。


:でも、泣いてるみさきを見て思った。みさきは五歳の子供で、俺よりもずっと不安で、そんな当たり前のことに気が付いた。だから俺が頑張ろうって思った。何を出来るかなんて分からないけど、今日から歩き出そうと思った。みさきがいつか自分で歩けるようになるまで、俺の手なんか必要無いくらい立派に育てて、それで、いつか、生まれてきて良かったって、思わせて見せる。そう決意した。


 読んでいる途中から、どうしてか涙が浮かんできた。りょーくんが不安に思っていたことなんて、知らなかった。


 りょーくんには悩みなんて無いと思ってた。

 みさきが困ったらいつでも助けてくれて、いつもみさきの嬉しいことをしてくれる。


 最強のヒーローだと思っていた。


:だから今日から日記を書くことにした。俺は物覚えが良くないから、毎日続けて、みさきをどれだけ喜ばせられたか確認することにする。今日までの事は……とりあえず、思い出しながら書くことにした。


 だから箇条書きだったんだ。


:目的を書いておく。

:立派な親になること。

:みさきをたくさん喜ばせること。

:みさきに、生まれてきて良かったって思わせること。

:この三つは、絶対に達成する。それを目標に、これからを生きる。俺も親に捨てられて、無意味な人生を送ってきた。何の目的も無く、時間を無駄にしてきた。だから絶対に、みさきには同じ失敗をさせない。同じ後悔なんて、絶対にさせない。何が何でも立派な親になって、みさきを幸せにしてやる!!


 そこで限界だった。

 もう、文字は見えなかった。


「……りょーくん」


 大好きな人の名前を呟いた。


「りょーくん、りょーくんっ」


 世界一かっこいい、お父さんの名前を呼び続けた。


「私、幸せだよ。りょーくんがいたから、毎日、とっても、嬉しかったよ。たくさん、喜んだよ」


 涙が次から次へと流れて、声が震えて、でも、どちらも止められない。


「生まれてきて、良かったよ……!」


 りょーくんの日記を抱きしめて、私は心から叫んだ。

 思ったよりも大きな声が出て、外からホストファミリーが心配そうに声をかけてきた。


 私は平気だよと返事をして、目を閉じた。


 そうすると浮かんでくる。

 今日までの日々が、りょーくんと出会ってからの日々が、次々と――


 牛丼を食べさせてくれた。美味しかった。

 お風呂に連れて行ってくれた。部屋が臭くなくなった。

 本を買ってくれた。いろんなことを知ることが出来た。

 保育園に行かせてくれた。ゆいちゃんと仲良くなった。

 毎朝公園に行って、顔を洗って運動をした。


 みさきの嬉しいことを、いつもしてくれた。

 みさきは、りょーくんが大好きになった。

 

 りょーくんが喜ぶと、みさきも嬉しかった。

 りょーくんの為に、みさきは一生懸命だった。


 たくさん勉強した。

 運動も頑張った。

 

 でも、みさきの知らないところで、りょーくんはもっと頑張ってた。


 まだまだ続く日記には、りょーくんが頑張ったこと、悩んだこと、思ったこと。全部、全部書いてあった。


 夜遅くまで、寝ないで読み続けた。

 笑ったり、泣いたり、たまに恥ずかしくなったりしながら、最後まで読んだ。


 日記に書かれていたのは、ほんの半年分くらいのこと。だけど私にとっては、何よりも大切な、りょーくんの気持ちが書かれていた。


 その日は、本を抱いたまま眠った。

 次の日、ちょっとだけ寝坊した私は、ホストファミリーのルーシーに起こされた。


 彼女はひとつ年上で、留学先の高校に通う先輩だ。


「みさき、昨夜はどうしたの? ホームシック?」

「違うよ。とっても、嬉しかった」

「どうして?」

「……内緒」




 私の話をしよう。




 私はお母さんが大好きだった。

 だけどお母さんは、私のことが好きじゃなかった。


 甘えると嫌な顔をして、いつしか顔を見る回数も減っていった。

 そして五歳の誕生日を迎えると――りょーくんの所に捨てられた。


 りょーくんは怖かった。

 睨むし、大きいし、臭かった。


 でも優しかった。

 いつも私のことを見てくれた。


 りょーくんは、みさきを一番に考えてくれた。

 

 りょーくんと会うまでは、ずっと寂しかった。

 りょーくんと会ってからも、少しだけ、寂しかった。


 幼い私はりょーくんに甘えたくて……今でもそうだけど……あの時は、ちょっと怖くて、私が甘えると迷惑かなって思って、我慢していた。だから、少しだけ寂しかった。


 寝ている時は不安だった。

 起きたら、りょーくんがいなくなっているかもしれないと思った。


 いつも早く目が覚めて、りょーくんの顔をじーっと見ていた。

 その時間が、なんとなく好きだった。


 でも私は、ずっとずっと、りょーくんと出会った日から、本当に寂しいと思ったことは無かった。だけど……寂しかった日々も、大事だと思う。


 りょーくんの日記に書いてあった。

 後悔してるから、頑張るんだって。


 失敗することは、とても辛い。

 私が甘えたせいで、本当のお母さんには嫌われてしまった。


 りょーくんが何を失敗したのかは、具体的には書いてなかった。だけどきっと、すごく悔しい思いをしたのが分かる。


 だから頑張ったんだって書いてあった。

 それが、とてもかっこよかった。


 この日記は私の宝物だ。


 ……私も、書こうかな。


 タイトルは、りょーくん?

 それは、ちょっと恥ずかしい。


 でもどうせなら、かっこいい名前が良い。


 私が書く日記。

 独りで外国に来て、書く日記?


 独りは英語で Alone ……うーん、なんか微妙。

 独り……孤独……Loneliness? ちょっといいかも。


 でも孤独なんてタイトルは、少し寂しい。


 私はもう、孤独じゃない。

 孤独の……先、越える、向こう側…… Over かな。


 Loneliness Over


 映画のタイトルみたい。

 やっぱり、もう少し普通がいいかな。


 ……ううん、これにしよう。

 これから一年間で学ぶこと、それから、りょーくんへのありがとうを、書こう。


 それで帰ったら、プレゼントしよう。

 りょーくん、喜んでくれるといいな。


 泣いちゃったら、どうしようかな。

 一年後、楽しみだな。

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