第193話 LO
私の話をしよう。
私はお母さんが大好きだった。
だけどお母さんは、私のことが好きじゃなかった。
甘えると嫌な顔をして、いつしか顔を見る回数も減っていった。
そして五歳の誕生日を迎えると――りょーくんの所に捨てられた。
りょーくんは怖かった。
睨むし、大きいし、臭かった。
でも優しかった。
いつも私のことを見てくれた。
りょーくんは、みさきを一番に考えてくれた。
まゆちゃんは、きっと私にとって母親のような存在だった。
絵が上手くて、たまに早口になって、たまに変な顔をする不思議な人。
だけど、りょーくんと同じくらい優しくて、傍に居ると安心できた。
お風呂の入り方、体の洗い方、絵の描き方……いろんなことを教えてもらった。
離れることになった時は悲しかったけれど、まゆちゃんのことを応援しようって思った。夢を叶える為に頑張っている姿が、とってもかっこいいと思えた。
まゆちゃんの描いた漫画は全部もってる。
映画も見た。面白かった。
まゆちゃんは、私にとって最も大切な人の一人だ。
ゆいちゃんは、義理のお姉ちゃんだ。
ガサツな所が多いけれど、素直で優しい自慢のお姉ちゃん。
そして結衣さんは、りょーくんのお嫁さんだ。
私にとってはお母さんで、そのことを理解するまでには時間が掛かった。
りょーくんと結衣さんの結婚式は良く覚えている。
とっても幸せそうな顔をした二人を見て、私まで嬉しくなった。
結婚式の少し後、結衣さんのお腹が大きくなった。
「……ふとった?」
「みさき、そこに正座しなさい」
正座して聞いた赤ちゃんの話は、今でも覚えている。
一年くらい経って、弟が生まれた。
ゆいちゃんは大喜びしていて、私も「ちっちゃいりょーくん!」と心の中で騒いでいた。
名前は
私は「あーくん」と呼んで、それはそれは可愛がった。
ゆいちゃんはスッカリお姉ちゃん気分。
一生懸命にお世話をしようとするけれど、いつも泣かせてしまって、最後は一緒に泣いていた。
あーくんが生まれてから半年くらいして、また結衣さんのお腹が大きくなった。
次に生まれたのも男の子で、
「なんか! いったいかん!」
曰く、ゆいちゃん。
なんか、一体感を覚えるらしい。
さて三人目の弟が結衣さんのお腹にいる頃、私は十歳になった。学校で二分の一成人式が行われて、年齢も二桁になって、なんだか少し大人になったのかなと思った。
四年生の終わりには課外活動が始まって、私は周りの勧めで陸上を始めた。この頃はまだまだ体が小さかったけれど、りょーくんに教えてもらったおかげで、とっても運動が得意だった。
六年生になる頃には、ゆいちゃんと身長が逆転した。その頃からゆいちゃんが必死に牛乳を飲み始めたけれど、私は内心「もう遅い」と思っていた。
ゆいちゃんと長男のあーくんは犬猿の仲で、ゆいちゃんが牛乳を飲んでいる時に「やーい! ゆいねーちゃんのチビー!」「うっさいお前の方がチビだ!」という会話を飽きずに繰り返していた。
さて私の話に戻ると、体が大きくなったことで、陸上の記録が凄いことになった。
だけど私には実感が無くて、興味が持てなくて、とりあえず、りょーくんが喜ぶから金色のメダルを貰ってこよう、くらいの気持ちだった。
中学校の入学式、結衣さんのお腹には初めての妹がいた。名前は生まれる前から『
この頃には、いろんなことが分かるようになっていた。
家族の事、りょーくんとのこと。
りょーくんと結衣さんのこと。
弟達のこと。
ゆいちゃんとのこと。
結衣さんは、あーくんが生まれて直ぐに仕事を止めた。きっと家に残すのが心配だったのだろう。
その後は家でも出来る仕事を始めて、家にパソコンとインターネットが設置された。
その家は、新しい家だ。
結婚式の少し後、私達はまたお引越しをした。
今度の家は、一戸建て。
とても広くて、二階建てで、部屋が十三個もあった。
二個は私とゆいちゃん。
一個はりょーくんと結衣さん。
そして十個は、未来の子供達の部屋って聞いた。
お金がいっぱい必要みたいで、りょーくんが家に帰る時間が少しだけ遅くなった。
私は寂しかったけれど、お姉ちゃんだから、我慢した。我慢して、弟達の面倒を見た。
たまに弟よりゆいちゃんの方が大変だったけれど……とにかく、思った。
子供を育てるのって、大変だ。
りょーくんは、どうして私を育ててくれたんだろう。
りょーくんと私は、赤の他人。
初めて会った時、りょーくんはきっと私の事が嫌いだった。でも直ぐに優しくなって、一生懸命に育ててくれた。
私はただただりょーくんのことが大好きだった。
だけど大人に近付くにつれて「なんで?」と思うようになった。
きっと聞けば答えてくれる。
でも、なんとなく聞けなかった。
だから代わりに喜ぶことをしようと思った。
部活は陸上を続けて、なんとなくのまま一番になった。
勉強も、ずっと百点だった。
中学校の勉強は、小学生の頃りょーくんに喜んで欲しくてやったところばかりで簡単だった。
ゆいちゃんは私に対抗して猛勉強していた。
結衣さんが一生懸命に教えていて、三年間でどんどん差が縮まった。
ゆいちゃんはガサツだから、よくミスをする。
だけど一回だけ百点を取って、その時は家でパーティをした。楽しかった。
この頃には大家族。
五人の弟と、二人の妹。
そしてお腹の中に、三人目の妹。
名前は
家は毎日騒がしくて、いつも疲れた様子で帰ってくるりょーくんが、だけど皆の声を聞くと元気になる。だから私は家族が大好き。りょーくんが元気になれる場所が、とてもとても大好き。
ちょっとだけ大変だったのは、進路を決める時だ。
私は近くの高校に通うつもりだった。
だけど周りの人は言う。
陸上の名門校へ行きなさい。
一番の進学校へ行きなさい。
そんなに運動が出来るのに。
そんなに勉強が出来るのに。
どうでも良かった。
全部りょーくんが喜ぶからやっただけだ。
りょーくんと離れることになるなら、喜ぶ顔が見られないなら、そんなの意味無い。
「……高校、行かない」
三年の秋、私は結衣さんにそう言った。
結衣さんは一番下の妹を抱いたまま、短く返事をした。
「龍誠くんに、同じことを言いなさい」
それは結衣さんらしい言葉だった。
りょーくんに相談しなかったのは「高校に行きなさい」と言われるのが分かっているからだ。りょーくんは、お父さんだから。お父さんなら、そう言うしかない。
りょーくんは私のヒーローだ。世界で一番かっこいい特別な存在だ。そう思っていたから「普通のお父さん」になって欲しくなかった。
りょーくんに話をして、高校に行きなさいって言われて、私の中で普通のお父さんになってしまうかもしれない。それが怖くて、りょーくんに話すのは嫌だった。
だから結衣さんに相談した。
りょーくんの次に頼りになる人で、私にとっては普通のお母さんだから。
でもきっと結衣さんにはお見通しだった。
反対に、私は何も分かっていなかった。
「みさき、心配はいりません」
まるで私の心を覗き見たかのように、結衣さんは言う。
「みさきが大好きなりょーくんは、世界で一番かっこいい人ですよ」
こんなことを言われたら、りょーくんに話をするしかない。
だけど直ぐには話せなかった。
りょーくんと話をする機会は毎日あった。でも、りょーくんと二人で話すチャンスは、なかなか訪れなかった。
みんな、りょーくんが大好きだから。
りょーくんの側には、いつも弟達がいた。
私の側にも、弟達が寄ってきた。
かーくんだけはゆいちゃんにベッタリだけど、他の子は元気いっぱいだった。
まだ歩くことも出来ない妹達は結衣さんが面倒を見ていて、ゆいちゃんは頼りなくて、だから弟達のことを見るのは、ほとんど私か、りょーくんだった。
「みさきねーちゃん! オレきょう、かけっこでいちばんだった!」
「ん。あーくん、すごいね」
「すごいでしょ! しょうらい、みさきねーちゃんみたいになるんだ!」
「ん。頑張って」
りょーくんにしてもらったみたいに、弟の頭を撫でる。そうしていると、りょーくんが嬉しそうにこっちを見る。それを見ると、私も嬉しかった。
だけど、たまに思う。
弟達がずるい。
もうずっと前から、りょーくんは一緒にお風呂に入ってくれなくなった。体が大きくなってからは、りょーくんに抱き付いたり、肩の上に乗ったりするのが難しくなった。
私は、りょーくんと一緒にいたいだけ。
他には何もいらない。なのに、どんどん遠くなる。
りょーくんを独占して、思い切り甘えたい。
だけど、そうしたら、りょーくんが困る。
りょーくんは私が甘えたら困る。
そのことが、どうしようもなく辛くて、頭がおかしくなりそうなくらいに、痛かった。
*
「結衣、起きてるか?」
「みさきのことなら本人に聞くのが一番ですよ」
「……いつも思うんだが、なんで言わなくても分かるんだ?」
「当然のことです。あなたの妻なのだから」
「そうか。それは恐れ入った」
「ええ、とことん思い知ってください」
「……子供の成長は早いな」
「そうですね」
「今のみさきには、どう声をかけたらいいものか」
「みさきは昔から大人びていましたからね。身長は驚くほど伸びました。弟達から好かれていて、私も頼ってしまっています。ゆいなんて、学校で何度も助けられているそうです」
「ゆいちゃんは、昔から変わらないよな」
「あの子はあの子で、立派に成長していますよ。幾分か口が悪くなりましたが、年齢を考えれば、しっかりしています。みさきと比較するのは少し酷でしょう」
「ああ、みさきは本当にすごい」
「不合格です。みさきは昔のままですよ」
「……昔のまま?」
「話せば分かります」
「…………」
「今なら、まだ起きていると思いますよ」
「……本当に、お前は」
「行ってください。こういうことは早い方が良いと思います」
「ああ、分かった」
おぎゃあああああああああ!
「おーよしよし、怖い夢でも見ましたか?」
おぎゃぎゃあああああああ!
「あらあら夜泣きの二重奏です。友里と
どごっ、どごっ!
「うっ、お腹の子も反応しています」
「……大丈夫か?」
「平気です。来年には八児の母なのですよ? ゆいとみさきも含めれば、十人目です。だから今は、みさきを優先してください」
「……ああ、分かった」
*
遠くから赤ちゃんの泣く声が聞こえてくる。
こんなことは慣れっこだけど、今夜は少し気になった。
眠れない。
いろいろ考えてしまって、ちっとも眠くならない。
「……みさき、起きてるか?」
っ、りょーくんだ。
なんで、急に……どうしよ。
「入るぞ」
えっ、待って!
「悪いな、起こしたか?」
「平気、起きてた……なに?」
りょーくんはポリポリと頬をかいて、
「久々に、一緒に寝ないか?」
「……なんで?」
なんで急に、一緒に寝ようなんて言うの?
「最近みさきと話す機会が少なかったから、寂しくて」
りょーくんは、嘘が下手。
でも今の言葉は、とても嬉しかった。
「狭いよ」
「昔みたいに俺の上に乗れば大丈夫だろ」
「重いよ」
「安心しろ。悪ガキ達で鍛えてる」
りょーくんは弟達に甘い。その分だけ結衣さんが厳しいから、りょーくんはとっても弟達に好かれている。凄い時は、五人揃ってりょーくんに抱き付いてる。
だから、私ひとりくらい大丈夫なんだと思う。
でもなんだか……ちょっと恥ずかしい。
「りょーくん、えっち」
「そうなるのか!? 悪かった、別に下心とかは無いんだ!」
「りょーくん、ひっし」
「……みさき、からかってるだろ」
バレた。
でも、りょーくんだって照れ隠しで結衣さんに意地悪してるの、知ってる。だからこれは、りょーくんのマネ。
……結衣さんが、言ったのかな。
「聞いたの?」
楽しい時間は終わり。
ちょっと寂しいけど、私から話を振った。
りょーくんが部屋に来る理由は他に考えられなくて、明日もお仕事があるのに、私のせいで睡眠時間を奪ってはいけない。
「ごめんね」
りょーくんはとっても忙しいのに、私のせいで心配をかけてしまったことが、申し訳ない。
「みさき」
顔を上げる。
同時に、ポンと頭に手を乗せられた。
「弟達は好きか?」
「……ん?」
「明は特に懐いてるよな。海誠はゆいちゃんにベッタリだけど、
りょーくんは楽しそうに弟達の話をした。
その顔を見ると、やっぱり私は嬉しくなる。
もっともっと、りょーくんに喜んで欲しくなる。
「
「ああ、そうだな」
「みさきねーちゃん、大人気」
「ああ、みさきは立派なお姉ちゃんだ」
そう言って、りょーくんは頭を撫でてくれる。
嬉しい。とっても嬉しい。
みさきは、この為に頑張ってるんだよ。
りょーくんに褒めて欲しくて、喜んで欲しくて、その為だけに頑張ってるんだよ。
「りょーくん」
そっと服を掴んだ。
このまま抱き付いて昔みたいに思い切り甘えたい。
「……私、高校、行かない」
言うつもりは無かったのに、口が勝手に動いてしまう。
「りょーくんと、ずっと、一緒がいい」
そのまま、幼い子供みたいに甘えてしまった。
頭では分かっているのに、我慢できなかった。
きっと怒られる。優しいりょーくんに、普通のお父さんみたいに、怒られる。
そう思うと、少し泣きそうになった。
「……みさきがそうしたいなら、そうすればいい」
だけど、りょーくんは怒らなかった。
「ごめんな。みさきに頼ってばかりで、みさきのこと、考えてやれなかった」
なんで謝るの?
私、ワガママを言っただけなのに。
「みさき、ゆいちゃんは先生になりたいらしいぞ」
「先生?」
「ああ、子供達からチヤホヤされたいそうだ」
「ゆいちゃん、正直」
知らなかった。
ゆいちゃん、先生になりたいんだ。
「明は将来の夢を聞かれて、みさきねーちゃんって答えたそうだ」
「叱って」
「いいじゃねぇか。可愛いだろ」
「恥ずかしい」
あーくん、やんちゃ。
「まあとにかく、下の子達も、そのうちやりたいことを見付けると思う」
……りょーくんの言いたいこと、分かった。
「私は、無いよ」
「俺もそうだ」
私は驚いて、だけど直ぐに気が付いた。
りょーくんの趣味とか、何も知らない。
私が頑張った時、家族と一緒に居る時、りょーくんは嬉しそうな顔をする。でも、りょーくんが一人で居る時のこと、何も知らない。
「運動が得意だった。勉強も出来て、学校で教わるようなことなら、誰にも負けなかった。みさきと同じだ」
それは私の知らないりょーくんの話。
とっても興味深いと思った。
「なんでも出来たのに、なんにも出来なくて、興味も持てなかった」
りょーくんの声が、どうしてか胸に突き刺さる。
本当に、同じだ。学校では何でも出来て、みんなにすごいねって言われるけど、嬉しくないし、興味も無い。
……そっか、分かった。
りょーくんは、りょーくんのいない私だったんだ。
もしも、りょーくんが居なければ……私は、どうなっていたんだろう。
「みさき」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
りょーくんは私の目を真っ直ぐ見る。
「みさきは何でも出来る。俺が何でもやらせてやる」
りょーくんは、笑顔で言う。
「だからまず、みさきがやりたいことを見付ける為に、俺が知ってる最強の方法を伝授する」
「……なに?」
「友達を作れ。いろんな人と仲良くなれ」
「……それだけ?」
聞き返すと、りょーくんは力強く頷いた。
「ゆいちゃんから聞いてるぞ。みさき、友達いないんだろ?」
「ゆいちゃん」
「他には?」
「瑠海ちゃん」
「それから?」
ゆいちゃん……覚えてて。
「たまに、声、かけられる」
ちょっとだけムキになって言うと、りょーくんは笑った。
なんだか子供扱いされていて、とても微妙。
「部屋、戻って」
「怒るなよ」
「戻って!」
「分かったから押すなって」
りょーくんは素直にドアまで歩いて、
「友達の話を聞けるの、楽しみにしてるからな」
「……ん」
頷いて、私は頭から布団を被った。
それから暫くして、ドアの閉まる音が聞こえる。
「……」
ひょっこり布団から顔を出して、本当にりょーくんがいないことを確認した。
「りょーくん、大好き」
ひっそりと、私は呟いた。
りょーくんは、やっぱり世界で一番かっこいい。
*
「かーくんはトーマトがにーがーて。ゆいお姉ちゃんがー、いつか食べさせてあげるぞー♪」
不思議な歌を歌うゆいちゃんと一緒の登校。
私はちょっとだけ緊張しながら、ゆいちゃんに声をかけた。
「ゆいちゃん」
「おー珍しい。どうしたの?」
「友達、どうやって、作る?」
「…………」
ゆいちゃんは足を止めて、とっても驚いた目をして私を見る。
「友達って言った?」
「ん」
「プリンセスオブボッチで有名なみさきが?」
「怒るよ」
ゆいちゃん、最近ちょっと、調子に乗ってる。
「なんで、いまさら?」
「……なんとなく」
ゆいちゃんは腕を組んで、うーんと声を出す。
「ははーん、りょーくんに何か言われたんでしょ」
ムカつく顔をして、ゆいちゃんは言い当てた。
それから周りをキョロキョロして、大きく息を吸う。
私は嫌な予感がして、ゆいちゃんの口を塞ごうと手を伸ばした。
「みんな聞いてー! みさきが彼氏募集してるって!!」
――けど、遅かった。
おいおい聞いたか? みさきちゃんが彼氏募集だってよ。
情報源が戸崎姉だろ? どうせいつもの戯言だって。
「そこ聞こえてるから! 今回はマジだから!」
――思ったより平気だった。
「ゆいちゃん、正座して」
「え?」
でも、やっぱり叱っておこうと思う。
「早くして」
「いやでも通学路だよ? 遅刻しちゃうよ?」
「早くして」
「……はい」
ゆいちゃんにお説教した後、いつも通り教室に向かった。ゆいちゃんとは違うクラスだ。
私はクラスメイトの顔だけなら覚えたけれど、名前も一緒に覚えた人はいない。
どうしようかな。
りょーくんと約束したから、頑張らないと。
考え込んでいると、前の席に座っている女の子が、声をかけてきた。
「みさきちゃん、彼氏募集って本当?」
「嘘」
「そ、そっか。だよね、ごめんね」
謝られちゃった。
悪いの、ゆいちゃんなのに。
……聞いてみよう。
「あなたは?」
「……え? え、え、えぇ!? 私ィ!?」
すごい反応。
なんか、まゆちゃんみたい。変な人。
「彼氏、募集中?」
「ええっと……どちらかと言えば、居たら嬉しいよねー、みたいな」
「なんで?」
「えー? なんか、ほら……憧れ的な?」
憧れ……?
よく分からない。
「どうして?」
「いやほら、付き合ってる人達とか見ると、なんか、いいじゃん?」
「そう?」
「……そう、だと、思い、ます」
なんか、小さくなっちゃった。
「なになに、何の話してんの?」
「みさきちゃんが話してるとか珍しいじゃん。私も混ぜてよ」
なんか、いっぱい人が来た。
でも、ちょうどいい。
いろいろな人と話をしよう。
りょーくんが、そう言ったから。
――そんな動機で、私は級友達と話すようになった。
三年の二学期という時期だったからか、話題は進路や勉強の事が多かった。あとは誰が誰を好きとか、そういう話。
全部、興味の無い話だった。
だけど、みんな楽しそうだった。
それを見てると、いいなって思えた。
だから私は……
「結衣さん、教えて」
「はい、何を知りたいですか?」
夜、弟達がお風呂に入っている時。
私は結衣さんに相談した。
「誰かが喜ぶ、お仕事?」
級友達と話をして気が付いた。
私は、誰かの嬉しいが好きだ。
「何をすれば、いい?」
「まずは、沢山の誰かを知るのが良いでしょう」
結衣さんは微笑んで、一冊の本を私に差し出した。
「……なに?」
「ひとつの選択肢です。あとは、みさきが決めてください」
結衣さんは他に何も言わなかった。
差し出されたのは、とある私立高校のパンフレットだ。
全校生徒は二千人程で、各学年に一クラスだけ特殊な学科が存在する。普通科とは違うそこで行っているのは、海外留学だ。
最初の一年間は外国で過ごして、それから日本に戻ってくる。他の国に行って、いろんな考え方を学んで、帰ってくる。そんなカリキュラム。
それを知った時、私は驚いた。
ほんの少し前なら絶対に嫌だって思ったはずなのに……ワクワクしてしまった。
りょーくんが教えてくれた最強の方法は、いろんな人と仲良くなること。
結衣さんが与えてくれた選択肢は、いろんな人と会える場所。
理解した時には、もう決めていた。
*
「えぇ!? みさき外国に行くの!?」
「ん、一年だけ」
「ほんとに!? りょーくん欠乏症で倒れたりしない!?」
「そんな病気、無いよ」
ゆいちゃんの反応は、こんな感じ。
よく分からなかった。
「そうか、みさきは外国へ行くのか」
「ん、いろんな人と、仲良く、なるよ」
「そうか、頑張ってくれ……俺も、みさき欠乏症で倒れないように頑張るから!」
「そんな病気、無いよ」
りょーくんの反応は、こんな感じだった。
ゆいちゃんの言ってることが分かった。
「知らない人には付いて行かないように」
「危機管理?」
「はい。それから体調には十分注意して、りょーくん欠乏症で倒れる前に電話をすること」
「ん、分かった」
結衣さんは、お母さんらしい反応だった。
病気のことは、受け入れた。
弟達とも簡単に話をして、学校で友達にも話をして――その日は、あっという間に訪れた。
初めて乗った飛行機。
聞き慣れない言葉。
ホストファミリーと簡単に挨拶をして、案内された部屋に荷物を置いた。その後は直ぐに学校だから、持っていく物を取り出そうとして……
「ん?」
見慣れない本が一冊。
古くて、ところどころ傷が目立つ。
表紙には、大きな文字で『みさき』と書かれていた。
なんとなく本を開く。
直ぐに、りょーくんの物だと気が付いた。
「…………」
そこに書かれている文字を見て、私は
「りょーくん、字、下手」
くすくす笑って、本を閉じた。
とっても気になるけど、あまり時間が無い。
ぱらぱら見たら最後までギッシリ文字が書いてあるし、今晩ゆっくり読むことにしよう。もしかしたら、りょーくんが何かメッセージをくれたのかもしれない。
学校では、初日だからか簡単な案内だけだった。
私がしたことは、同じ学校から留学した人達と連絡先を交換したことくらいだ。
それが終わってからは、直ぐにホストファミリーの家に戻った。
ちょっどだけ時差ボケに悩みながら、とっても気合の入った料理で歓迎してもらって、そこそこ英語が通じることに安心した。
あっという間に時間が流れて、気が付けば夜。
おやすみの挨拶をして部屋に入った後、私は直ぐに本を開いた。
最初のページをめくって、最初の文字を見る。
――みさきと出会った日。
「……日記?」
やっぱり、りょーくんの物で間違い無い。
みさきって書いてあるから、弟達が間違えて入れちゃったのかな?
「……」
私は少し悩んだ。
勝手に人の日記を見るのは、悪いこと。
でも、気になった。
りょーくんがどうして私を育ててくれたのか、書いてあるかもしれない。
「……ごめんね」
私は日記を読み始めた。
とっても懐かしい気持ちになった。
りょーくんと出会ってからのことが、たくさんたくさん書いてあった。
――育てると決めた日
りょーくんが食べさせてくれた牛丼、美味しかった。あの時、りょーくんは優しい人なのかなって、少し思った。
日記の文章は、乱暴な表現が多くて、すごく読みにくい。
:みさきを育てると決めた。
:ムカついたから、やってやるって思った。
:そしたら、案外わくわくした。
しかも、大事なことが分からない。
どうしてムカついたの? わくわく……?
他に気になったのは、なんだか文章が過去形で、思い出しながら書いているような印象を受けたことだ。
――禁煙した日
:みさきの為にタバコをやめることにした。
:わりと辛かったが、最初としては上等だと思った。
そういえば、りょーくんは直ぐに臭くなくなった気がする。
このあとは、一緒にお風呂に入って……
――銭湯に行った日
そうそう、りょーくんと初めて銭湯に行った。
:いきなり熱いと怒る。
:髪は少し強めに洗う。
:パパって呼んでくれなかった。
ふふっ、こんなことメモしてたんだ。
あと、名前の事を気にしてたのかな? でも、りょーくんは、りょーくん。
:しっかり育てようと、あらためて思った。
やっぱり理由は書いてないし、短い。
箇条書きだし……日記というより、メモ張?
――禁酒した日
:みさきに怒られてしまった日。
:酒はもう二度と飲まない。あの失敗を忘れてはならない。
……怒って、ないよ?
ちゃんと覚えてる。りょーくんが、初めてギュッとしてくれた日のことだ。
えええ……私が怒ったと思ったから、お酒を飲まなくなったんだ。逆に、嬉しかったんだけどな。
――みさきが勉強を始めた日
あ、初めて本を買ってくれた時のことだ。
私が勉強して何かを覚えると、すごく喜んでくれてた。
だから、夢中で勉強した。おかげで高校に入る時は楽だったな。入試、簡単だった。
:みさきはやっぱり子供。
:ちょろい。とりあえず褒めれば大丈夫。
これは、ちょっと読みたくなかったかな。
――短期バイトを始めた日
兄貴さんとのことが書かれていた。
りょーくん、最初は兄貴さんのところで働いてたんだ。
あのお店、汚いけど美味しかったな。
――同人誌を読んだ日
……え、まゆちゃんにエッチな本を読まされたの?
――みさきが入園した日
待って、前の話が気になる。
もっと詳しく書いといてよ!
でも、これはこれで懐かしい。
へー、まゆちゃんのアイデアだったんだ。
……んー?
りょーくん、友達のこと、役に立つ存在って言ってなかった?
今と違う。日記にも特に書いてないし……どこかで考えが変わったのかな?
――送り迎えをした日
:みさきに友達が出来たらしい。仲良さそうな感じで、保育園に入れて良かったって思った。
初めての感想だ。
ふふっ……りょーくん、成長してる。
――短期バイトを卒業した日
:この日、短期バイトを卒業した。
:多くのことを学んだ。あのクソ店長のことは心から尊敬して、兄貴と呼ぶことにした。
りょーくんも、学んだんだ。
あと最初はクソ店長って呼んでたんだ……りょーくん、やんちゃ。
――お祈りされた日
ロリコンさんと会った日のことだ。
そういえば、お風呂で騒いでた人、ロリコンさんだ。
……変態さん、だったんだ。
――人生ゲームを作った日
プログラミングのこと、事細かに書かれてる……なんか、面白そうかも。
りょーくんのお仕事、プログラミングだったっけ?
私も、ちょっとやってみようかな……。
――いろいろ記念日
ゲーム完成したんだ!
流石りょーくん。すごく頑張ってるの、伝わったよ。
しかも私が初めて牛丼を完食した日だったんだ。
牛丼……結衣さんの料理ではあまり出てこないけど、今でも好きだな。
私は昔のことを思い出しながら、次々とページをめくった。ここまでのページは、スラスラとめくることが出来た。
「黒い」
思わず、声が出た。
次のページには、突然、ギッシリと文字が書かれていた。
なんとなく読まずに次のページを見る。
その次も、そのまた次も、真っ黒になるくらい文字が書かれていた。
「……この日、何かあったのかな?」
なんとなく深呼吸をしてから、私は読み始めた。
――一歩進んだ日
:あの人、じゃなくて、母親と八年振りに会った。
その文字を見て、私は目を疑った。
そういえば、りょーくんは一人で生活していた。
でも母親と八年も会っていないなんて思わなかった。だけど一番驚いたのは、その次の文章だ。
:母親の口から、産まなければ良かったという言葉の、
「……ひどい」
思わず読むのを止めて、声が出た。
りょーくんの、お母さん。
たまに会う優しいおばあちゃん。
こんなひどいこと、りょーくんに言ったの?
「……」
私は深呼吸してから、もう一度、読み始める。
:母親の口から、産まなければ良かったという言葉の、本当の意味を聞いた。彼女が何を思っていたのか、初めて知った。その気持ちが痛いくらい分かった。俺もみさきを育てようとして、何をすればいいのか分からなくて、すごく悩んでいるからだ。毎日、何をするにも、すごく不安だったからだ。
「……りょーくんの、気持ち」
今迄の箇条書きの文章とはまるで違う。
ここから先に、きっと私の読みたかった文章がある。
それを思うと、少しだけ怖くなった。
だけどやっぱり、読むのをやめられなかった。
:でも、泣いてるみさきを見て思った。みさきは五歳の子供で、俺よりもずっと不安で、そんな当たり前のことに気が付いた。だから俺が頑張ろうって思った。何を出来るかなんて分からないけど、今日から歩き出そうと思った。みさきがいつか自分で歩けるようになるまで、俺の手なんか必要無いくらい立派に育てて、それで、いつか、生まれてきて良かったって、思わせて見せる。そう決意した。
読んでいる途中から、どうしてか涙が浮かんできた。りょーくんが不安に思っていたことなんて、知らなかった。
りょーくんには悩みなんて無いと思ってた。
みさきが困ったらいつでも助けてくれて、いつもみさきの嬉しいことをしてくれる。
最強のヒーローだと思っていた。
:だから今日から日記を書くことにした。俺は物覚えが良くないから、毎日続けて、みさきをどれだけ喜ばせられたか確認することにする。今日までの事は……とりあえず、思い出しながら書くことにした。
だから箇条書きだったんだ。
:目的を書いておく。
:立派な親になること。
:みさきをたくさん喜ばせること。
:みさきに、生まれてきて良かったって思わせること。
:この三つは、絶対に達成する。それを目標に、これからを生きる。俺も親に捨てられて、無意味な人生を送ってきた。何の目的も無く、時間を無駄にしてきた。だから絶対に、みさきには同じ失敗をさせない。同じ後悔なんて、絶対にさせない。何が何でも立派な親になって、みさきを幸せにしてやる!!
そこで限界だった。
もう、文字は見えなかった。
「……りょーくん」
大好きな人の名前を呟いた。
「りょーくん、りょーくんっ」
世界一かっこいい、お父さんの名前を呼び続けた。
「私、幸せだよ。りょーくんがいたから、毎日、とっても、嬉しかったよ。たくさん、喜んだよ」
涙が次から次へと流れて、声が震えて、でも、どちらも止められない。
「生まれてきて、良かったよ……!」
りょーくんの日記を抱きしめて、私は心から叫んだ。
思ったよりも大きな声が出て、外からホストファミリーが心配そうに声をかけてきた。
私は平気だよと返事をして、目を閉じた。
そうすると浮かんでくる。
今日までの日々が、りょーくんと出会ってからの日々が、次々と――
牛丼を食べさせてくれた。美味しかった。
お風呂に連れて行ってくれた。部屋が臭くなくなった。
本を買ってくれた。いろんなことを知ることが出来た。
保育園に行かせてくれた。ゆいちゃんと仲良くなった。
毎朝公園に行って、顔を洗って運動をした。
みさきの嬉しいことを、いつもしてくれた。
みさきは、りょーくんが大好きになった。
りょーくんが喜ぶと、みさきも嬉しかった。
りょーくんの為に、みさきは一生懸命だった。
たくさん勉強した。
運動も頑張った。
でも、みさきの知らないところで、りょーくんはもっと頑張ってた。
まだまだ続く日記には、りょーくんが頑張ったこと、悩んだこと、思ったこと。全部、全部書いてあった。
夜遅くまで、寝ないで読み続けた。
笑ったり、泣いたり、たまに恥ずかしくなったりしながら、最後まで読んだ。
日記に書かれていたのは、ほんの半年分くらいのこと。だけど私にとっては、何よりも大切な、りょーくんの気持ちが書かれていた。
その日は、本を抱いたまま眠った。
次の日、ちょっとだけ寝坊した私は、ホストファミリーのルーシーに起こされた。
彼女はひとつ年上で、留学先の高校に通う先輩だ。
「みさき、昨夜はどうしたの? ホームシック?」
「違うよ。とっても、嬉しかった」
「どうして?」
「……内緒」
私の話をしよう。
私はお母さんが大好きだった。
だけどお母さんは、私のことが好きじゃなかった。
甘えると嫌な顔をして、いつしか顔を見る回数も減っていった。
そして五歳の誕生日を迎えると――りょーくんの所に捨てられた。
りょーくんは怖かった。
睨むし、大きいし、臭かった。
でも優しかった。
いつも私のことを見てくれた。
りょーくんは、みさきを一番に考えてくれた。
りょーくんと会うまでは、ずっと寂しかった。
りょーくんと会ってからも、少しだけ、寂しかった。
幼い私はりょーくんに甘えたくて……今でもそうだけど……あの時は、ちょっと怖くて、私が甘えると迷惑かなって思って、我慢していた。だから、少しだけ寂しかった。
寝ている時は不安だった。
起きたら、りょーくんがいなくなっているかもしれないと思った。
いつも早く目が覚めて、りょーくんの顔をじーっと見ていた。
その時間が、なんとなく好きだった。
でも私は、ずっとずっと、りょーくんと出会った日から、本当に寂しいと思ったことは無かった。だけど……寂しかった日々も、大事だと思う。
りょーくんの日記に書いてあった。
後悔してるから、頑張るんだって。
失敗することは、とても辛い。
私が甘えたせいで、本当のお母さんには嫌われてしまった。
りょーくんが何を失敗したのかは、具体的には書いてなかった。だけどきっと、すごく悔しい思いをしたのが分かる。
だから頑張ったんだって書いてあった。
それが、とてもかっこよかった。
この日記は私の宝物だ。
……私も、書こうかな。
タイトルは、りょーくん?
それは、ちょっと恥ずかしい。
でもどうせなら、かっこいい名前が良い。
私が書く日記。
独りで外国に来て、書く日記?
独りは英語で Alone ……うーん、なんか微妙。
独り……孤独……Loneliness? ちょっといいかも。
でも孤独なんてタイトルは、少し寂しい。
私はもう、孤独じゃない。
孤独の……先、越える、向こう側…… Over かな。
Loneliness Over
映画のタイトルみたい。
やっぱり、もう少し普通がいいかな。
……ううん、これにしよう。
これから一年間で学ぶこと、それから、りょーくんへのありがとうを、書こう。
それで帰ったら、プレゼントしよう。
りょーくん、喜んでくれるといいな。
泣いちゃったら、どうしようかな。
一年後、楽しみだな。
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