第185話 婚姻届と証人と
「優斗、ちょっと頼んでもいいか?」
「どうした天童龍誠、頼み事なんて珍しいな」
ロリコンの部屋(仕事場)
昼休憩の時間、俺は優斗に持っていた紙……婚姻届を差し出した。
「……なんだ、これは」
「見ての通り婚姻届だ。ここ、書いてくれ」
ロリコンは心底驚いた顔をして、
「ま、まさかついにみさきちゃんをくれるのか?」
「あるわけねぇだろ、名前のとこ見てみろ」
ロリコンは夫と妻の欄に書かれた俺と結衣の名前をまじまじ見た後、他の二人と目配せをした。
もっと騒ぐかと思ったが、意外に静かな反応だ。これはこれで話しやすくて良いのだが、なんだか拍子抜けしてしまう。
婚姻届を提出するには、証人を二人用意しなければならない。証人といっても二十歳以上の誰かに署名と印鑑を貰うだけなのだが……さておき誰に頼もうかと考えて、悔しいが真っ先に浮かんだのはロリコンの顔だった。
やがてロリコンは、優しい表情をして言う。
「戸崎結衣って、誰だ? AV女優か?」
俺は迷わず掴み上げた。
さてどうしよう、このまま窓の外に捨てようか。
「……まっ、待て天童龍誠っ……悪かった、冗談だ」
掴んでいた手を離して、ロリコンを床に落とす。
彼はゲホォっと大袈裟な反応をすると、そのまま転がって他の二人の背に隠れた。
「彩斗、言ってやれ」
「あはっ、任された」
相変わらず腹の立つ爽やかさで、彩斗は立ち上がる。
「残念だけど、二次元の嫁とは結婚できないんだよ」
「そんな痛々しいことしねぇよ。リアルの嫁だ」
彩斗は笑顔を凍りつかせて、拓斗に視線を送った。
『写真とか、あるのかな?』
「あるぞ」
ケータイを取り出すと、三人は高速で俺に近寄った。俺は二人で撮った写真を見せて、暫く時が止まって、
「「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!??」」
果たして、彼等は騒ぎ始めた。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! 天童龍誠にこんな美人妻がぁああああああああああ!!」
「あっ、はははは、コラでしょ、コラだよね? 悪質なコラに決まってるんだよぉおおおおおおお!!!」
『おめでとう天童くん。式はあげるのかい?』
キレたサルみたいに騒ぐ二人と、穏やかな拓斗。
「式は結衣の伝手で三月末に――」
「ストォォォォオオオップゥウゥゥゥゥ!」
「普通に名前で呼び捨てにしてるところから感じられるリア充オーラに殺意がががががががああああああああああああああああああぁぁぁぁあ!!??」
『三月末だね、また詳しい日程が決まったら教えて』
どこまでも穏やかな拓斗と、留まる所を知らない二人。
これでは落ち着いて話をすることも難しくて……結局、騒ぎに気が付いたロリコン母が乱入するまで、優斗に捺印をしてもらうことは出来なかった。
*
龍誠が優斗達に結婚を伝えたのとは別の日。
結衣は最初の部下である森野を連れてファミレスに訪れた。
結衣がファミレスを選んだのは、多くの人に話を聞かれるのを避けたかったからだ。
彼女は社内で既婚者ということになっている。その相手との間に生まれた子供がゆいで、夫は海外を転々としていて滅多に会えない人で……という作り話を、これまで結衣は一貫して述べてきた。
実は嘘でしたー、と言ってしまうのは簡単だが、配偶者がいるという設定で社会人をやっていた結衣にとって、多くの人に知られるのは面倒だ。だから、最も信頼できる相手にだけ伝えようと考えた。
「えええぇ!? 戸崎さんが結婚!? ええっと……えええぇ!? 結婚してなかったんですか!?」
「森野さん、声を抑えてください」
予想通り絶叫した部下に対して、結衣は冷静に話を続ける。
「これまでは話を円滑にする為、既婚ということにしていました」
「円滑に?」
「取引先に独身男性が多く、縁談を持ちかけられることが多かったのです」
「なるほど、戸崎さん美人ですからね」
息を吸うように容姿を褒められて、結衣は少し顔が熱くなった。
コホンと咳払いをひとつ、鞄から一枚の紙を取り出す。
「戸崎さん、これは?」
「婚姻届です。婚姻に際して成人二名の捺印が必要なことはご存知かと思いますが、夫と話して互いの最も近しい友人に頼むと決めました」
結衣は堅苦しい言い方をしているけれど、その裏にあった会話はこんな感じだ。
ここどうする?
証人、ですか。無難に友人といったところでは?
そうだな。それじゃ、互いに一人ずつ。
という具合に、特に悩むこともなく決まった。
しかし誰に頼もうかと考えた時、直ぐに問題が発覚した。
結衣には友人が存在しないのである。
さて困ったどうしようと悩み続け、果たして部下の中で最も付き合いの長い森野に依頼することにした。
「森野さんを友人と呼べるかは分かりませんが、共に仕事をするうちに、近しい物を――」
「戸崎さん!!」
小恥ずかしいことを言いかけた結衣は、急に言葉を遮られて、少しムッとした。
しかし森野は気が付かず、婚姻届に書かれた名前を凝視しながら言う。
「こ、夫の欄にある天童って……まさか、あの天童ですか?」
「ええ、龍誠くんは天童グループの女帝、天童
結衣の言葉を聞いて、森野は戦慄する。
「……せ、政略結婚ですか?」
「恋愛結婚です」
結衣が呆れながら返事をすると、森野は深く息を吐きながら脱力した。
「ですよね……えっと、お似合いです。戸崎さんには、それくらいの相手でないと釣り合いませんよね」
「ええ、彼はとても素敵な人ですよ」
結衣は龍誠を褒められて気分が良くなった。
その余韻をぶち壊すようにして、森野はバンと机をたたく。
「ちょっ、ちょっと戸崎さん! この証人の所に書かれた和崎優斗って……まさか、あの和崎優斗ですか!?」
「そこまで驚く程の人物ですか?」
「和崎優斗と言えばIT業界でトップクラスに有名な人ですよ!? 寡黙な魔術師と呼ばれているプログラマーで、彼が率いる会社は、たった三人で年商が百億に届くとか届かないとか……そっか、天童グループとも繋がりがあるんだ」
極限まで盛られた話を真に受けて、一人で盛り上がる部下。
一方、龍誠の交友関係を把握していなかった結衣は、和崎優斗という名前を深く記憶に刻んだ。どこかで聞いたことがあったような気もするけれど、基本的にIT業界とは無縁なのだ。しかし龍誠くんの友人ということなら、二重の意味で挨拶をしないわけにはいかない。
果たして打算を始めた結衣。
金の匂いを見過ごせないのは彼女の性だ。しかも最近は「家族の為に将来の蓄えを作るぞ」という気持ちも加わり拍車がかかっている。
さておき、森野は改めて婚姻届を凝視していた。
会社に貼られている売上表で、一人だけ別の単位を使われている先輩。
その気になれば日本を買い取れる程の財力を持っている(と噂されている)天童家の跡取り(勘違い)
たった三人で年商百億(大嘘)に到達した合同会社SDSの社長、和崎優斗。
「すごいオーラです。なんなんですか、この婚姻届」
大物の名前がずらりと並んだ婚姻届を前に戦慄する森野。
「こ、ここに私の名前が……いいんでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」
「なんというか、畏れ多いです」
「森野さん、あなたは私が最も信頼している部下です」
森野の心境を察した結衣は、そっと手を伸ばして、森野の手に添える。
それから優しい笑みを浮かべて、
「あなただから、お願いしているのです」
「……戸崎さん!」
森野は感動して、思わず目頭が熱くなった。
「私、私……ごめんなさい、これまで戸崎さんの旦那さんの事、陰でタンポンって呼んでました……」
「なんですって?」
「でも架空の人物だったんですよね! きっと天童家の跡取りなら、そっちも国家級なんですよね!」
「なんとなく意味が分かりました思い出しました。森野さん、貴女には品性が足りないと常々思っていましたが、どうやら再教育の必要があるようですね」
かつて、森野は結衣に問いかけた。
所謂夫婦の営みについて、何か教えてくれと。
それについて、結衣は既婚者という設定を守るために、想像に任せて雑な返事をした。
――初めての時って、痛かったですか?
――愛の前に痛みなど無力です。そうですね、タンポンを入れるようなものですよ。
――タンポン……? あっ、細かったんですね。
という会話があったと、結衣は記憶している。
つまり彼女の発言はそういうことだ。
「酔った中年のセクハラに通ずる物がありました。悔い改めてください」
「でも、結婚するということは、つまりそういうことですよね」
果たして、森野は婚姻届を人質に、結衣から根掘り葉掘り聞きだした。
ゆいのこと、キスは指で数えられる程度にしかしていないこと、裸どころか下着すら見せていないこと、ありとあらゆることが未経験であること、同じ布団に入っても手を繋ぐくらいしかしていないこと――
「あー、これは別れますね」
「な、何を言うのですか突然」
「いやその……小学生じゃないんですから」
「見解の相違ですね。私達は体ではなく心を求め合っているのです」
「戸崎さん、眩しいですね」
「何か言いたいことがあるのなら、どうぞ遠慮なく」
「まあ私のは聞いた話でしかありませんが……」
という具合に――
世間一般的な(ある意味では偏った)恋愛観を聞いた後で、結衣は森野に捺印させた。
そして結衣は、早速今夜アプローチを始めることにしたのだった。
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