第184話 挨拶をした日
お通しという悪習がある。
頼まれていない品を出し、原価率が一割にも満たないであろう金銭を要求する文化のことだ。もちろん立派なビジネスであり、客が入場料か何かとして受け入れたから成立している。
しかし、しかしだ。
一杯の水が千円もするというのは、どうなのだろう。その裏にサービス料やら何やら含まれていることは知っているが、日本においては高級店もファミレスも店員の質に大差は無い。もちろんマナーを気にする人にとっては違うのだろうけれど、そうでない俺にとっては服装が違う程度だ。
そんな普段なら絶対に足を運ばない場所に、俺は結衣と二人で訪れた。
もちろん背伸びをしたかったわけではない。
ある人と話をする為に、俺達はスーツを着てここに来た。
「龍誠くん、意外に堂々としていますね」
「中学に入るまでは毎日こんな感じだったからな」
「金持ちアピールですね」
「そうじゃねぇよ」
独特の雰囲気を前に動じなかった俺を見て、結衣は揶揄うような口調で言った。
結論から言って、俺達は籍を入れることになった。それに伴い、両親に挨拶をすることにしたのだ。古いドラマを見ると、新郎が義父に「娘さんをください」と頭を下げるシーンがある。しかし現代では、結婚に親の承諾など必要ない。法的には昔から、社会的には、ごく最近から。
という話を、数日前に役所で聞いた。
単純に、家族という繋がりが希薄になっていることを表しているのだろう。
家族だからとか、親や子だからという価値観は、きっと時代に合っていないのだ。
俺は身を持って知っているし、みさきやゆいちゃんを見ていてもそうだ。
もしも俺がみさきを育てると考えなければ、もしも結衣がゆいちゃんと出会わなければ……そのもしもが、この世界には数えきれない程に存在しているのだろう。
それでも――だからこそ俺は、あの人に挨拶をしたいと思った。
俺は彼女のことを知らない。
性格や好みどころか、名前すらも知らない。
だけど、ひとつだけ分かる。
彼女も俺と同じ人間で、子供の育て方なんて分からなくて、最後には金を出すことしか出来なかった。俺も結衣と出会わなければ、きっと同じことになっていた。
あの日、彼女が俺を見て涙を流した理由が、今ならはっきりと分かる。
「結衣、今日は付き合ってくれてありがとう」
「龍誠くんの頼みですから」
そう言って、隣に座る結衣は俺の手を握った。
俺はそっと握り返して、目を閉じる。
他にも客の姿はあるけれど、やはりファミレスとは雰囲気が違う。聞こえるのは金属音と、ちょっとした話し声くらいだ。
彼女との待ち合わせ時間まで、残り五分程度だろうか。俺は少しばかり緊張していたけれど、結衣のおかげで今は落ち着いている。
と、そう思ったら。
不意に、結衣がそわそわし始めた。
「どうした?」
「お金の匂いがします」
俺の嫁は唐突に何を言い出したのだろう。
「ちょっと部下にメールを送りますね」
「……ああ、好きにしてくれ」
結衣は俺から手を離すと、両手でスマホを持って、驚異的な早さで文章を打ち込み始めた。
たしか結衣の仕事は物を売ることで、売り上げに応じて給料が増えていくらしい。いわゆる歩合制という仕組みで、そこは俺も同じだから理解しやすかった。同じだからこそ結衣の年収が謎だったのだが、その一端を垣間見たような気がする。
驚いたというか、呆れたというか、なんだか力が抜けた。
そして、まるで見計らったようなタイミングで、彼女は現れた。
「三年振りですね」
近くで聞こえた声に顔を上げて、その姿を見てハッとする。
「初めまして、戸崎結衣と申します」
「あら、誰かと思えば魔女ではありませんか。なぜ、このような場所に?」
一瞬前までケータイを弄っていたはずの結衣にも驚いたが、それより彼女の反応にゾクリとした。ゆいちゃんなら泣き出しそうなくらい威圧的というか、それより魔女ってなんだ、知り合いなのか?
「光栄です。魔女という呼び名は好ましくありませんが、随分と高い所まで届いていたようですね」
「有名ですよ。なんでも、話せば必ず契約を結ばされてしまうのだとか」
なんだ、この緊張感。
どうやら知り合いではなさそうだが……あれか、商売敵みたいな関係か?
「とりあえず、二人とも座らないか? ゆっくり話そう」
俺が間に入ると、二人は謎のアイコンタクトをしてから席に着いた。
途端に居辛くなって、どうしようか思っていると、結衣が机の下で俺の脚を叩いた。
目を向けると、結衣は妙に作り物っぽい笑顔を浮かべていた。何が伝えたいのだろうと思って見ていると、また脚を叩かれる。その感覚が妙に硬かったような気がして、俺はようやく気が付いた。
とてつもない威圧感です!
思わず仕事モードになりました!
そう書かれたスマホの画面を見せられて、思わず頭を抱える。
そうか、仕事中の結衣って今みたいな感じなのか。
「少し気分が悪いですね。机の下で、彼に何を見せましたか?」
直後に指摘されて、思わず背筋が伸びた。
どうするという意味を込めて結衣に目を向けると、助けて、という目が返ってきた。
俺は軽く息を吸って、覚悟を決める。
「今のは、あれだ――いや、アレです。あんたが――違う、お母様の顔が怖くて、ではなく、とても緊張するという意味の……ハンドサインでした」
やべぇ緊張で敬語がボロボロだ。
「龍誠、貴方が緊張してどうするのですか」
「……はい、そうですね」
何だろう、結衣に叱られてるゆいちゃんとか、こんな気持ちなのかな。
待て待て現実逃避してる場合じゃねぇ。
「とにかく、今日は来てくれてありがとう。あんたにだけは、どうしても伝えたかったんだ」
もう敬語がどうとか言っていられない。
言葉なんて意味さえ伝わればいいだろという気持ちで、俺は続ける。
「ここに居る結衣と、結婚することになった」
彼女は考え込むようにして目を閉じると、たった一言だけ言葉を返した。
「なぜ?」
そのシンプルな質問に、
「ずっと一緒に居たいと思ったからだ」
俺は迷わず返事をした。
いくらか間をおいて、彼女は目を開く。
「聞けば、二週間ほど前から寝食を共にしているようですね。結婚のメリットは、配偶者との間に子を生すと申告することで国から支援を受けることです。共に生きるという意には沿わず、相手が彼女であれば支援も不要でしょう。故に再び問います。なぜ?」
容赦の無い問い掛けだった。それは質問というより、詰問に近い。
結婚のメリットなんて考えたことも無かったけれど、確かに一緒に居るというだけの目的ならば不要だ。彼女の言っていることは正しい。
だけど、返す言葉は驚く程あっさり思い浮かんだ。
「形が欲しいと思ったからだ」
彼女の言う通り、結婚にメリットなど無いのかもしれない。だけど、少なくとも俺は価値を見出している。わざわざ面倒な手続きをして、家族になるということに、意味がある。
「目に見えない物なら、いくつも貰った。だから、そうじゃない物が、一個くらいは欲しいと思った」
「……そうですか」
彼女は俺の返事を聞いて、また短く返事をした。
しかし、その表情は柔らかくなっているように感じられて、きっと納得してくれたのだと分かる。
「では、貴女は?」
「夢だったからです」
まるで自分にも同じ質問が来ると予期していたかのように、結衣は即答した。
「子供の頃から、龍誠くんのお嫁さんになるというのが、私の夢でした」
……嘘なのか本当なのか分からんが、なんで堂々と言えるんだこいつ、照れるじゃねぇか。
「なるほど」
あんたもスゲェな、どうして堂々としていられるんだよ。
「では、これで夢が叶いますね。しかし残念なことに、結婚は人生の墓場という言葉があります。貴女の理想が、現実によって打ちのめされることもあるでしょう。そうなった時、どうしますか?」
すげぇこと聞くな、この人。
結衣はどう答えるんだろう、かなり気になる。
「ふふ、そんなの小学生でも知っていることですよ?」
結衣は微笑んで、
「同じお墓に入るまでが結婚です。その後については、皺くちゃになってから話し合う予定です」
また堂々と、まともに顔が見られなくなるようなことを言った。
俺だって結衣と離れるつもりは無いけれど、ここまで当然の事として宣言されると、やはり照れる。場所が自室なら迷わず抱きしめていたところだ。
「……そうですか」
俺達の返事を聞いた後、彼女は感慨深そうに呟いた。
それから静かに立ち上がって、深々と頭を下げた。
「息子のことを、よろしくお願いします」
――それからは、他愛のないことを話した。
二人はいつ出会ったのかとか、これまでに何があったのかとか。
場所が場所だけに静かな会話となったけれど、きっと俺にとっては初めて母親と共に和気藹々とした食事をした時間だった。
「是非、式にも招待してください」
「ええ、もちろんです」
別れ際、二人はすっかり打ち解けていた。
もちろん互いに遠慮する部分はあるのだろうけれど、最初と比べれば見違える程だ。
「ところで、龍誠くんのお父様は?」
「……彼は、ちょうど海外に出張中でして」
「そうでしたか。とにかく、良い時間でした。また会える日を楽しみにしております」
「ええ、こちらこそ」
……。
「結衣、ちょっとだけ席を外してくれないか?」
「はい、店の外で待っていますね」
「ありがとう、助かる」
察しの良い結衣のことだ、きっと俺の意図は完璧に伝わっているのだろう。
さて、残り時間も僅かだが、彼女と二人で話す時間が出来た。
もともと今日は、たった一言を伝える為だけに来たのだ。これを忘れて帰るわけにはいかない。
その前に――
「あの人は……いや、何でもない」
父親のことを聞こうとして、やめた。
まともに彼と話した記憶が、俺には無い。
そして彼が俺のことをどう思っているのかは、今こうして彼女が一人で来ていることが答えなのだろう。それについて思うところはあるけれど、何かをしたいとは思わない。
ただ血が繋がっているというだけで、彼はみさきやゆいちゃんの父親と同じなのだ。確かに存在しているけれど、互いのことについて何も知らない赤の他人。無理に会ったところで、どちらも幸せにはなれない。
「……ごめんなさい、声は掛けたのですが」
「構わない、当然だと思う。それより、あんたに伝えたいことがある」
だから今は、目の前にいる母親の事だけを考えよう。
「正直、あんたに言われたことは忘れてない」
――最低ね、本当に。やっぱり、産まなければよかった。
「何かしてもらったとも思ってない。あんたが自分で言った通り、母親としては最低なんだと思う」
彼女は俺の言葉に何を言い返すでもなく、ただ静かに目を伏せた。
「だけど最近、俺も同じような経験をした」
あの時――みさきの為に何かしたくて、金を出すことしか思い浮かばなかった時のこと。もしも結衣が隣に居なければ、きっと俺も同じ道を辿っていた。
「だから、これだけは言わせてくれ」
その時、彼女は目を開いた。
いくらか老いた女性の――母親の目を真っ直ぐに見て、俺は言う。
「俺、生まれてきて良かったよ。今すげぇ幸せなんだ。だから、ありがとう……母さん」
この言葉が、俺の伝えたかったことだ。
これを聞いて彼女がどう思ったのかは分からない。しかし、いとも簡単に零れ落ちた涙が、俺の行動に間違いが無かったと教えてくれた。そもそも彼女が今日の呼びかけに応じた時点で、答えは分かっていたのだ。
それだけを確認して、俺は踵を返した。
「もう良いのですか?」
店を出て直ぐのところで、結衣に声をかけられた。
「ああ……さて、次は結衣の番だな」
「私ですか?」
「両親への挨拶だ。結衣のところは、仲が良かったんだろ」
「……私の、両親は」
「知ってる。だから、お墓まで連れて行ってくれ。せめて墓石の前で、挨拶をしよう」
「……はい、ありがとうございます」
小さな声で言って、結衣は身を寄せた。
俺は黙って彼女の手を握る。
それから、ゆっくりとした歩調で歩き始めた。
「そういや、よくあんな恥ずかしいこと言えたな」
「龍誠くんがそれを言いますか? 覚えていますよ、コホン――目に見えない物なら、いくつも貰った。だから、そうじゃない物が、」
「もういい分かったっ、俺が悪かった!」
「よろしい、許しましょう」
たったそれだけで会話が途切れて、また暫く歩いた。
とりあえず駅に着いて、電子マネーで改札を抜ける。
それから結衣の後に続いて電車に乗る。
運良く席に座れたところで、結衣は俺の肩に頭を乗せた。
「……龍誠くん」
「どうした?」
それから、いくら待っても返事は無かった。
代わりに結衣は、全体重を俺に預けて、静かに目を閉じている。
俺は少しだけ力を込めて、彼女が倒れてしまわないよう、目的の駅まで支え続けていた。
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