第177話 予感


 ピアノの音が聞こえる。

 みさきとゆいちゃんが順番に演奏している音だ。


 有名なクラシック。

 愉快な即興曲。


 イメージ的には、みさきがクラシックでゆいちゃんが即興曲だけど、実際には逆だろうから少し面白い。


 ゆいちゃんの演奏はとても丁寧で、一生懸命に練習している姿が思い浮かぶ。その姿はとても良いもので、みさきにも何か習い事をさせてみようかと思えた。


 何がいいかな。

 そう考えた時、意図的に続けていた心の声が途切れた。すると意識しないようにしていた感覚が一気に存在感を増す。


「ゆいちゃん、ピアノ上手いな」

「みさきも、味のある演奏ですね」


 気を逸らそうとした会話は、しかし続かない。


 少し前。

 食事後に電話をかけて、結衣の部屋へ行くことになった。もちろんみさきも一緒だ。


 ドアの前で待っていた結衣に招かれて部屋に入ると、直ぐにピアノの音が聞こえた。


 みさきは引き寄せられるようにしてゆいちゃんの部屋へ向かい、残された俺と結衣は、リビングのソファに向かった。


 並んで座り、暫くして結衣の方から手を重ねた。

 たったそれだけで俺は言葉を失ってしまった。


 おかしい。

 互いの年齢を考えたら、もっとこう、子供達に見せられないような展開になってもおかしくないはずだ。なのに俺は、ただ手を重ねているだけで満たされている。


 結衣はどうなのだろうか。

 彼女も俺と同じような気持ちなのだろうか。


「気になりますか?」


 まるで心の声を聞いていたかのようなタイミングで発せられた言葉に俺は息を飲んだ。

 徐に目を向けると、悪戯を成功させた子供のような目で結衣がこちらを見ていた。


「その色は図星ですね。またみさきですか? それとも……」


 迷わず言葉を発しているようで、しかし彼女の手は震えていた。きっと表に出している態度とは裏腹に緊張しているのだろう。それが分かったから、俺は辛うじて冷静でいられた。


「今回は、みさきのことじゃない」


 そこで俺は言葉を止めた。

 これ以上は必要ないと思ったからだ。


「……照れますね」

「……そうだな」


 今の言葉にもドキリとした。

 照れて途中までしか言わなかったことがバレたと思ったからだ。


 ……調子が狂う。


 そもそも俺はどうしてここに?

 手を繋ぎたいとかいう理由で呼び出されて、迷わず足を運んで……どうかしている。


「呼び方を決めましょう」


 結衣の言葉によって俺は思考を遮られた。


「互いの名前を、どう呼ぶか。何かと順序が狂っていますが、こういうことは、大事だと思います」

「……そう、だな」


 呼び方、呼び方……あれ、普段の俺ってどう呼んでたっけ? 逆に、どう呼ばれてたっけ?


「ゆいやみさきのように、りょーくん……というのは、少し子供っぽいですね」


 結衣の呟く声を聞いて、俺は想像してみる。

 りょーくん、と呼ばれた後に、聞き慣れた刺々しい言葉が――それは何というか、いずれ反抗期を迎えるであろうみさきを暗示しているかのようで、なんだか辛い。


「では昔のように天童くん……いえ、交際を始めたのだから、やはり名前で呼びたいですね」


 天童くん、という呼び方には懐かしい響きがあった。

 俺としては新鮮で悪い気はしないのだが、結衣は気に入らなかったらしい。


「龍誠くん……なんだか語呂が悪いですね」

「仕方無いだろ、そういう名前なんだ」

「思い切ってダーリンと呼んでみましょうか」

「それは止めてくれ」


 みさきが聞いたら絶対にマネをする。

 ついでに、ゆいちゃんもマネをするはずだ。


 それを外でやられたら……想像するだけで身震いする。


「逆に、あなたはどう呼んで欲しいですか?」


 あなた。

 普段はこう呼ばれていたんだった。


 考えたことも無かったけれど、なんだか淡泊な印象を受ける。

 そういう意味では、呼び方を変えるというのはありかもしれない。


「呼び方か……」


 俺は初めて真剣に考えた。

 といっても、選択肢は多くない。


 天童龍誠。

 結衣は名前で呼びたいらしいから「りょうせい」という文字に着目しよう。


 ……りょーくん以外にあるのか?


 その選択肢を潰してしまった結果、語呂が悪いと称された「龍誠くん」以外の案が見つからない。


「というか、龍誠くんってそんなに語呂が悪いか? りょーせーって、実際は『りょ』と『せ』で二文字みたいなもんだろ」

「二文字……ッ!?」


 何かに気が付いた様子の結衣。


「……なら、あなたが私を結衣と呼べば、共に二文字で、お揃いになりますね」

「そう、だな」


 頷いて、


「結衣……って、俺の方はいつもこう呼んでないか?」

「いつもではありません。龍誠くんは、おいとかおまえとか、その辺りは雑でした」


 自然と、互いの名前を口にした。

 たったそれだけのことで、どうしてか顔が熱くなる。


「……照れますね」

「……そうだな」


 なんだこれは。

 ここにいるのは二十六歳の男女だぞ、名前の呼び方ひとつで、どうしてこんなにも照れている?


「……龍誠くん、龍誠くん、りょーせーくん」


 何が楽しいのか、結衣は繰り返し俺の名前を呼んでいた。


「……ふふふ」


 そして嬉しそうに笑った。

 直後、体を傾けて、肩を寄せてきた。


「ようやく、恋人っぽくなってきましたね」

「……そう、なのか?」

「ふふふ、照れていますね。バレバレですよ」

「うるさい、手汗すごいぞ」

「龍誠くんの汗ですよ?」


 なんか、調子に乗ってないか?

 俺の知ってる結衣と違うというか、なんというか……。


「龍誠くんは、私の事をどう思っていますか?」

「どうって?」

「好きとか、愛してるとか、そういうことです」

「だから、そういうのは良く分からん」


 やばい、結衣の顔を直視できない。


「辞書には、こう記されていました。恋、異性に愛情を寄せること、その心。愛、そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持ち。如何ですか? 当てはまりますか?」


 ……あ、同じ辞書を読んだのか。


「あっ、今ちょっと喜びましたね? どれか当てはまりましたか?」

「違う。今のは、ちょっと、なんというか……」


 なんで分かったんだよ!?


「ふふふ、お見通しですよ」


 結衣は嬉しそうな表情をして、俺の頬をつついた。

 微妙に子供扱いされている感じが悔しくて、俺は彼女に背を向ける。すると後ろからくすくす笑い声が聞こえて、もうワケが分からないくらいに顔が熱かった。


 *


「悪いな、晩飯までご馳走になって」


 夜。

 特に帰る時間は決めていなかったけれど、気が付けば外は暗くなっていた。みさきは食事を終えて瞼が重たくなったようで、今は俺の肩の上で器用に寝ている。因みに、ゆいちゃんはトマトと死闘を繰り広げている。


「……」


 玄関。

 結衣は何か言いたそうにしていた。


 今日は散々……なんというか、調子を狂わされ続けたけれど、いざ終わりとなると少し寂しい。きっと結衣も同じで、だから別れの言葉が見つからないのだろう。


 なら、最後くらいは俺の方から声を出そう。


「明日からは結衣も仕事か?」

「はい、そうなります」

「なら次は来週か。楽しみにしてるよ」


 我ながら、もっと普通に言えないのだろうか。

 なぜ気取った感じになる? 後で恥ずかしさに悶えるのは自分だぞ。


「それじゃ、またな」


 俺は逃げるようにして踵を返した。

 だが次の瞬間に背中を引っ張られて、振り返る。


「……帰らないでください」

「えっと……仕事があるだろ。お互いに」


 結衣は真っ直ぐ俺の目を見て、


「私よりも仕事の方が大事ですか?」

「そうは言ってない」


 結衣は目を逸らさない。

 そこには妙な迫力があって、俺は思わずたじろいた。


 瞬間、彼女は肩を揺らす。


「ふふふ、言ってみたかっただけです」


 こいつ、ほんと……まったく、なんなんだよ、この感じ。


「おやすみなさい。またの機会を楽しみにしていますね」

「……ああ、また」


 今度こそ、俺は部屋を後にした。




 帰り道。

 冬の夜風を受けながら、今日のことを思い出していた。


 結衣の様子が今迄とまるで違う。

 俺は、その姿にひたすら戸惑っている。


 戸惑って、戸惑い続けて……ふと、別の感情もあるような気がしていた。

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