第176話 翌朝


 朝だ、朝になった。

 あのロリコンの会社も三が日は休みということで、今日までは休日である。


「………………………………………………」


 なんとなく手を伸ばす。

 もう片方の手で、それを握ってみる。


「………………………………………………」


 にぎにぎ、にぎにぎ。


「…………………………」


 もみもみ、もみもみ。


「…………」


 パンッ、パンッ!


「やべぇ!」


 思わず飛び起きた。

 何故って、耐えられないからだ。


「俺は、俺は……」


 思い浮かぶのは昨日のこと。


 ――一緒に探すとか、


「やめろぅぉおお!」


 俺は、俺はなんて恥ずかしい事を口走って……ああぅぁっ、ああぅ! 過去の自分を殴ってやりたい!!


 あれから部屋に戻るまで結衣のやつ一言も喋らなかったけど、まさか笑いを堪えてた!?


「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!」


 これはもう!

 叫ばずには!

 いられない!


「ッ!?」


 そこでふと気が付いた。

 寝起きに暴れ回ったということは、つまり……


「うぉぉみさきぃ! 無事か!?」


 咄嗟にみさきの姿を探して、直ぐに体がいつもより重たい事に気が付いた。


 視線を落として自分の腹部を見ると、いつも通りみさきがくっ付いていた。


「……うそだろ」


 意外な握力を発揮していることもそうだが、あれだけ騒いだのに、まるで聞こえていなかったかのように安らかな寝顔。


「なんという順応力ッ」


 思わず刮目した。

 その先で、みさきの口がもにょもにょ動く。


「……トマト、たべて」


 どんな夢を見ているのか想像することは容易くて、なんだか和んだ。


 だから俺は、のんびり二度寝することにした。



 *



「ママ! おはようございます!」

「はい、おはようございます」


 戸崎家の朝。

 顔を洗ってパッチリ目が覚めたゆいは、朝食の準備をしている結衣に元気な挨拶をした。


 そこで、むむむと首を傾ける。

 ママに様子がいつもと違う。


「ママ?」

「はい、どうしましたか?」


 すっごい、ニヤニヤしている。


「……一緒に探すとか、そういうことなら、興味ある。ふふっ……興味あるっ」


 なんか、言ってる。


「ママ?」

「はい、ママですよ」


 これは、何かあったぞ。


「……興味ある。ふふふっ……一緒に探すとかっ、ふふっ、ふふふふ」


 ゆいは思う。

 きっと昨日のデートが成功したに違いない。


「ママ!」

「はい、先程からどうしましたか?」


 ちゃんと聞こえている。

 ゆいはそれだけ確認して、


「きかせて!」


 ピタリと、結衣は動きを止める。


「聞かせてあげましょう!」


 待っていましたとばかりに目を輝かせて、結衣は語り始めた。


「単刀直入に言って、ママ達は相思相愛でした」

「そうしそうあい!」

「相性も抜群。好みもピッタリ一致しています」

「あいしょうばつぐん!」

「それから見てください、この服! プレゼントしてくれました! 七万円、現金一括ですよ!?」

「かわいい!」

「はいっ、ありがとうございます。次の仕事までは絶対に脱ぎませんからね」

「ひゅー!」


 よかったねママ!

 ゆいは全身全霊で祝福を表現する。


 その様子を見て結衣は満足しつつ、いくらか改竄された昨日を思い出していく。


 ちょっとした失敗はあったような気がするけれど、果たして通じ合うことが出来た。


 繋いだ手の感触は今でも残っている。

 帰り道、あの幸せな時間を結衣はきっと忘れない。


 いつまでも続くと思われた時間は――みさきを怒らせたゆいによって終わったのではなかっただろうか。


「ゆい、朝食はトマトにしましょう」

「え!?」


 天国から地獄。

 ゆいは過酷な戦いを強いられることになったのであった。



 *



「……二度寝、できない」


 久々だ。

 次から次に浮かぶ言葉が睡眠を許してくれない。


「逆に、みさきは良く寝るようになったな」


 俺より早く起きて寝顔を見ていたみさきは、どこへ行ってしまったのだろう。最近では俺の方が先に起きて、みさきの寝顔を見ている。というか見る度に寝ているような気がするけれど、眠りが浅かった日々の反動だろうか?


「交際って、何をするんだ?」


 さておき、最も俺を悩ませている疑問はこれだ。

 恋とか愛とか、そういう類の感情は良く分からない。


 ネットで検索してみると、辞書には以下のように記されていた。


 恋:異性に愛情を寄せること、その心

 愛:そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持


 言葉の意味は分かる。

 愛情とか、価値を認めるとか、強く引きつけられるとか……。


 みさきへの感情が、最も近しいのだろうか。

 俺はみさきの為なら何だって出来る。


 だけど、この感情は恋や愛とは違うのだろう。

 同じ愛情でも、あくまで親が子に向ける当たり前の――特別な感情だ。


 そういう意味の愛情は、すんなり理解できる。

 だけど別の意味の、異性へ向ける愛情というのは、まるで分からない。


 ひとまず、辞書にあった単語と結衣を照らし合わせよう。


 異性に愛情を寄せること。

 俺は結衣に愛情を寄せているのか……これは、違う気がする。


 ならば、そのものの価値を認めていること。

 俺は結衣の価値を認めているのか。そんなことは考えるまでもない。


 では最後に、強く引きつけられる気持ちがあるか。

 俺は結衣に……どうなのだろう。


 自分と良く似た相手だとは思う。

 似ているというのは、境遇のことだ。


 逆に考え方とか趣味嗜好とか、そういうところはまるで違う。そんな彼女に引きつけられる気持ちは……意味合いは異なるけれど、興味はあるのだと思う。


 結衣と過ごす時間は心地よい。

 あの無駄にトゲのある言葉を聞いていると妙に落ち着く。


 なんというか……そう、壁が無いのだ。


 そこまで考えた時、聞き慣れた着信音が耳に届いた。


 確認するまでもなく、相手は結衣だろう。

 直前まで彼女のことを考えていたからか、俺は少しだけ電話に出るのを躊躇った。


 ……いやいや、電話に出るだけだろ。


『おはようございます』

「おはよう。今日はどうした?」

『なんですか、その嫌そうな態度』

「ああ悪い、多分寝起きだからそう聞こえるだけだ」


『寝起き? もう八時ですよ』

「マジか。みさきがまだ寝てるから、てっきり七時くらいかと」

『まったく、しっかりしてください』


 いつも通りやりとりだ。

 昨日の事を考えると、どこかほっとしたような、がっかりしたような。


 ……がっかり? 何に?


『さて、早速ですが要件を言わせて頂きます』


 電話の向こうから呼吸を整える音が聞こえて、


『……もう一度、手を繋ぎたいです』


 俺は一瞬だけ頭が真っ白になって、


「そ、そうか」

『……はい、そうです』


 ちょっと待て。

 おかしい、お前そんな感じだったっけ?


『何か予定がありますか?』

「特に、無い」


 俺もおかしい。

 こんなカタコトで話すタイプじゃなかったはずだ。


『では……今から、会えますか?』

「今からは、難しい」

『……そう、ですか』

「だから、みさきを起こして飯を食べて、その後に、またかけなおす」


 何だこれ。

 まるで違う二人が勝手に会話をしているような気分だ。


『分かりました。待っています』

「ああ。それじゃ、また」


 短い会話の後、あっさりと電話が切れる。

 俺はケータイを片手に、みさきが寝返りを打つまでの間、放心していた。


「……りょーくん?」

「おはよう。起きたのか」

「……ん」


 うーんと背伸びをするみさき。

 大きな欠伸をひとつして、大きな目でゆっくり瞬きをする。


「おなかすいた」


 その一言で、また新しい今日が始まった。

 まったく新しい、今日が始まろうとしていた。

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