第173話 恋人になった日(2)
まずは服を買うことにした。
「ちょっと待ってください。適切な服装というのは予定に合わせて変わってくるはずです。予定はいつ決めましたか? そもそも着替えたとして、元の服はどうするのですか。いきなり余計な荷物が生まれることを私は良しとしません。手は開けておくべき――」
とにかく、服を買うことにした。
*
いつも利用しているモールの一角。
結衣は文句を言い続けていたけれど、なんだかんだで服屋に辿り着いた。
「いい加減に機嫌を直したらどうだ」
「……べつに、機嫌を損ねてなどいませんが」
溜息ひとつ。いきなり失敗してしまったらしい。
空気は最悪だが、おかげで緊張が解けた。
さておき、この店を選んだのには理由がある。
とりあえず仕事感の無い服を着てほしいとは思ったものの、俺には知識が無い。
みさきの服なら週に一着くらいのペースで経験値を得ているのだが、成人女性が着る服など知らん。だが俺には最強の知恵袋……もとい、センスのある知り合いがいる。
思えば彼女には世話になった。
みさきに布団をプレゼントした時から始まり、それからも、なぜか重大な買い物をする度に遭遇した。
実は複数人いるんじゃないかと思ったこともあるが、どうやらアルバイトとして場所を転々としているらしい。そして最近は、この服屋で働いている。つい先週もみさきの新しい服を買ったところだ。
みさきの成長は著しい。
買っても買っても、次々と新しい服が必要になる。
何より、みさきに着られる為の服が次々と生み出されるのが悪い。おかげで給料が上がっているわりに貯金額が増えないけれど、これは必要経費だ。
「……あの」
俺の袖を引いた結衣。
振り返ると、とても恐ろしい目をしていた。
「いま、私以外の女性の事を考えていませんでしたか?」
「いや、みさきの服を買ったことを思い出しただけで……」
「本当にそれだけ? みさきに誓えますか?」
なんだこの迫力。
他って……まさか直前に思い出した店員のことか?
「割と世話になってる店員が居るんだよ。結衣の服を選ぶのも、手を貸してくれねぇかなと」
「どーん!!」
「「っ!?」」
突然の襲撃に俺達は飛び退いた。
直前に困惑していたこともあってか、俺はパニックになりかける。それをギリギリで回避しながら、襲撃者を睨み付けた。
そこには、腹を抱えて笑う知人の姿があった。
「あははっ、にーさん咄嗟にかばってる。かっくぃ~、嫁さんっすか?」
現れたのは件の店員である。
彼女に指摘され、俺は無意識に結衣の前へ出ていたことに気が付いた。
「たまたまこの方向に驚いただけだ」
「またまたぁ、後ろの嫁さん超絶可愛い顔してますよぉ?」
嘘だ騙されねぇぞ。
絶対怒ってる。見たら後悔するに決まってる。
「で、今日はどうしたんすか? デートにスーツで来ちゃったシャイな嫁さんに服を買いに来たんすか?」
「お前マジか、なんで分かった」
「え、マジなんすか?」
「適当に言っただけかよ……」
相変わらずの店員だ。
さておき、ここで結衣の質問に「やばい店員がいることを思い出して警戒していた」と答え直せば、あの懐疑的な目を止めてくれるはずだ。あの目を向けられ続けるのは精神的にキツい。
では、早速。
「というわけで、ちょっとヤバイ奴がいることを思い出して……」
振り向いて、そこで気が付いた。
本当に、本当に結衣が可愛い顔をしていた。
可愛いという表現は、二十六歳である彼女には不適切かもしれない。しかし他の言葉なんて出てこなかった。
「まだ嫁じゃない!」
結衣は駄々をこねる子供のような態度で言った。
それを見て店員が「あらあら」なんて表情をしているのが死ぬほど気恥ずかしい。
ともあれ、きっと俺は忘れられない。
今の結衣は、みさきの次くらいに可愛かった。
*
「あーうんうん、全身ユニクロの兄さんと黒スーツでズボンな姉さんなんて、どう見ても親子ッスね。カップル? えーうそマジィって感じ。分かる分かるぅ」
うるせぇなこいつ。
今迄は少し口数が多いくらいに思ってたけど今日は殺意が芽生えるレベルでうるさい。
「スーツにしても、せめてブレザーとスカートにするとか……まいっか。とりま姉さんもユニクロのペアクロでどっすか?」
腹立つけれど一理ある。
なるほど、ペアルックか……。
「まぁでもぉ、姉さん的には兄さんに選んで欲しいっすよね。んじゃ私はお邪魔っぽいんで消えまーす。何かあったら呼んでくださーい」
一方的に話し続けた後、店員は次の被害者……他の客のところへ向かった。
「……騒がしい店員でしたね」
「そうだな」
呟く声に笑って答える。
「どうする、着てみたい服とかあるか?」
「……私は、別に」
そう言いつつも結衣はチラチラと周囲の服を見ていた。
ここには店員の趣味なのか様々なブランドの服が売られていて、子供用からシニア向けまで男女を問わず揃っている。
ただでさえ知識が無いのに、この膨大な選択肢から一着だけ決めろと言われても頭が痛い。
だから他人の力を借りようと考えた。
しかし直前に釘を刺されてしまった。
姉さん的には兄さんに選んで欲しいっすよね。
その一言に結衣の目が泳いだのを俺は見逃さなかった。
これは勝手な想像だけれど、結衣はスーツを選んだのではなく、他に選択肢が無かったのだろう。
そういう前提で、しかも、これから着る服を俺が選ぶという流れに、結衣は一言も口を挟んでいない。
……知識が無いとか言ってらんねぇよな。
大丈夫、俺にも切り札がある。
ここは一旦、結衣のことをみさきだと考えよう。
そうだな。
もっと背が伸びたみさきが着るのなら……
「この白いワンピースとかどうだ?」
「あなた今みさきのことを考えながら選びませんでしたか?」
「ゼンゼン、ソンナコト、アルワケ……」
なぜバレた。
俺は背筋に冷たいものを感じる。
「まあいいです。ひとまず試着しましょう」
「いいのか?」
「……これがあなたの好みなのでしょう」
早口に言って、結衣は俺から服を奪い取った。
それから、すたすた試着室へ向かう。
俺は服を奪い取られた姿勢のまま呆然とした。
しかし、徐々に口角が釣りあがっていくことだけは分かって、思わず口元を手で隠した。
おかしい。これは何かの間違いだ。
何年も一緒に居て、気の置けない関係になって、毎日のようにトゲのある言葉を投げかけてくる相手なのに……今は表情が抑えられないくらいに可愛く思える。
それから俺は真顔に戻るべく自分と戦い続けた。しかし決着よりも早く、結衣の入った試着室が突如として開かれる。
一目見て、俺は息を飲んだ。
似合っていた。
この服は、みさきをイメージして選んだものだ。だから贔屓目に見ても子供っぽい印象を受ける。しかしそれは、結衣の持つ色気のようなものと見事に調和していた。
おそらくジャケットを脱いで上から着ているだけで、首元にカッターシャツの襟が見える。もちろんスカートの下では礼服のような黒いズボンが丸見えだった。
本当に簡易的な試着だけれど、まるで幼い花嫁が小さなドレスを纏っているかのような印象を受けた。
「何か言ったらどうですか?」
少し不機嫌そうに結衣が言った。
「悪い。想像以上に似合ってたから……」
「そ、そうですか? 子供っぽくありませんか?」
結衣は俯いて、体を左右に捻って見せた。
俺は、
「そっすね。確かに白はちょっと子供っぽいかもしんないっすね」
どこから湧きやがったこの店員。
「もうワンサイズ上の方がいいっすね。あと姉さんならワンピはグレーにして、特にスカートはもうちょい暗い色で……脚は黒ストにしちゃいましょう! とりま一式用意したんで、試着サポりますね」
文句を言う間も無く、店員は両手に服を持って試着室へ突撃した。
俺は暫く呆然と立ち尽くして、やがて溜息と共に脱力した。本当にふざけた店員だが、彼女の仕事ぶりは信頼している。きっと悪いことにはならないだろう。
ところで、俺は比較的動体視力が良い方だ。
いくつか持ち込まれた服、そのうちのひとつが三万円くらいだったような……
とりあえず、あれだ。
桁をひとつ見間違えていたことを信じよう。
*
「ほら姉さん、早く脱いで」
「試着なのだから、上から重ねれば良いのでは?」
「うわー、ないない。それ服に喧嘩うってますよ姉さん」
「そういうものなのですか?」
「そっすね」
「分かりました。では着替えるので、あとは一人で問題ありません」
「いやいや、手伝う手伝う」
「不要です」
「任せてくださいプロなんで」
試着室内。
ひたすら拒絶する結衣と、一歩も引かない店員。
「そこまでのサービスは求めていません」
「あの兄さん常連なんで、これくらい余裕っすよ」
「常連?」
「あれ、週一で娘さんの服を買いに来てますけど……あ、これ言っちゃいけないやつ?」
店員の軽口に結衣は頭を抱えた。
まず接客態度が社会人としてありえない。しかも顧客の個人情報を軽々と晒すなど、謹慎級の大失態だ。
「とりま着替えましょう。兄さん待ってますよ」
呆れ果て、結衣の目が仕事モードに変わる。
その直前――
「任せてください。ガチで可愛くするんで」
店員が何の考えもなしに言った軽口に、結衣は怒気を失った。
それから鏡に映る自分を一瞥して、吐息のような声で言う。
「……可愛く、なりますか?」
「もちろんっすよ。素材が完璧ですから」
「……子供っぽくは、ありませんか?」
「姉さん、女の子は皺くちゃになったって可愛いんすよ。可愛いは作れるんです」
結衣は少し悩んで。
「では、お願い致します」
「かしこまっ」
果たして着替えが終わり、
「パないっす。姉さんマジぱないっす」
「……よく分かりません」
そう言いながら、結衣は鏡に映る自分の姿をまじまじと見る。
「服装が変わっただけなのに、まるで別人のように思えます」
「服はあくまで引き立て役で、主役は姉さんっすよ。ひゅぅ、かわいい!」
「その幼稚な言い回し、どうにかなりませんか?」
「無理ッスね。ささ、早く彼に見せましょう。惚れ直すこと間違いなし!」
嬉しそうに試着室のカーテンを開けようとする店員。
しかし直前で結衣が手を掴んで止めた。
「もう少し、待ってください」
「大丈夫っすよ。プロが保証します」
「そうでしょうか。その、首から胸にかけて、なんというか、涼しいように感じます。やはり襟があった方が良いのでは?」
問題の場所に手を当てて、結衣は真剣な眼差しを店員に向ける。
店員もまた、真剣な表情で質問に答えた。
「姉さん。その胸、いえ、おっぱいが見えるわけでもない微妙な露出。なんの為にあると思いますか?」
「……コスト削減?」
「あはは、面白いっすね。そこはネックレスを乗せる場所ッスよ。きっと兄さんがプレゼントしてくれるんじゃないっすかね? 君に似合う物、見つけたよ。みたいな!」
「……ネックレス、プレゼント」
結衣の表情が無意識に綻ぶ。
「じゃ、行きますか?」
「待ってください」
まだあるんすか。と店員は楽しそうに呆れる。
「仮に服を購入することになった場合、郵送は可能でしょうか」
「そのまま着ていけばいいじゃないっすか」
「残った方の服です。手は、開けておきたいので」
左の手首を掴んで、結衣は伏し目がちに言った。
店員は少しだけ言葉の意味を考えて、やがて察する。
「郵送、余裕っすよ。あとで住所と名前教えてください!」
「分かりました。ありがとうございます」
頷いて、結衣は初めてカーテンに目を向ける。
それをゴーサインと受け取った店員は、勢い良くカーテンを開いた。
薄暗かった試着室に眩い光が入り込み、結衣から視力を奪った。それが回復するにつれて、外で待っていた龍誠の姿が浮かび上がる。
見慣れた長い脚。
妙に体格の良い上半身。
そして結衣が少し見上げた先で――彼は、口元に手を当てていた。
「な、何かおかしいですか?」
「いや、俺は、まあ、その、なんというか……」
結衣は緊張で表情を強張らせる。
龍誠は口元に当てた手を少しずつ下げて、そっぽを向きながら言った。
「……初めて、みさきより良いと思った」
それは彼にとって最上級の誉め言葉。
「……そう、ですか」
もちろん、結衣にはその意味が伝わった。
「……」
「……」
互いに互いの顔が見られない。
しかし、結衣は目を逸らした先で腹立たしい顔をした女店員を見つけてしまった。
「……ムフフ」
途端に結衣は現実へ引き戻される。
「お会計を!!」
その大声で、今度は龍誠が現実に引き戻された。
「いやっ、俺が払うよ」
「問題ありません!」
気恥ずかしさから二人の声が裏返る。
「……」
「……」
これ以上無いくらいに赤面する。
その耐え難い感情を必死に押し殺して、龍誠は言った。
「少し遅いが、誕生日プレゼントってことで、どうだ?」
「そういうことなら、貰ってあげなくもないです」
一見すると素直で、だけど驚くほど不器用な会話。
ただ思ったことを伝えるだけのことに、二人は必死なのだった。
一方で、それを傍から見る人物は、ひたすら笑っていた。
*
(レジにて)
¥69.800(税込み)
「ちょっとだけ、おまけしちゃった☆」
「上にか? 上に色を付けたってことか?」
「またまたぁ」
「ふざけんな。ざっと値札を見た感じだとギリ五万を超えるくらいだったろ」
「サービス料金ってことで☆」
「……マジで言ってんのか?」
「お兄さん、さっき何か言ってましたよね」
「何の話だ」
「誕生日プレゼントだぜ。みたいなかっこいいこと、言ってましたよねぇ?」
「……」
「姉さん、すごく嬉しそうな表情してたなー」
「……いいだろう。俺の負けだ」
「あざっしたー☆」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます