最終章 孤独を越えて

第172話 恋人になった日(1)


 朝だ、朝になった。


 白い天井、温かい布団。

 微かに聞こえる寝息、俺の上で寝ているみさき。


 何もかもいつも通りの気持ちの良い朝。

 だけど今日は、少しだけ違うことがある。


 何って、それは――


 考えた瞬間、みさきが「んー」と声を出した。

 目を覚ましたのかと思って布団を捲ると、気持ちよさそうに眠っている姿を確認できた。寝言だったらしい。


 口元がむにゃむにゃ動いているから、何か食べている? とにかく、かわいい。


 みさきは存在そのものが可愛いけれど、特に、この愛くるしい寝顔はたまらない。

 丸い輪郭、柔らかそうな頬、小さな口と桃色の唇……。


 そこで俺は、ふと昨日のことを思い出した。


「……柔らかかった」


 天童龍誠26歳。

 女性と唇を重ねたのは、初めての経験だった。


 よく女みたいな顔だと揶揄されるが、中身は完全に男だ。男である以上は、当然そういった欲求がある。


 しかしながら、絶望的に経験が無い。

 小学生の頃はもちろん、中学時代も恋愛とは無縁だった。


 もちろん、そういった本を手に取ったことはあるというか、小日向さんに何度か読まされた。しかしながら、風俗を利用したこともなければ、異性と恋仲になったことも無かった。そもそもそんな機会は皆無だったのだ。


 こんな面のせいで男から迫られ死闘を繰り広げたことはあっても、異性と桃色な関係になったことは無かった。


 去年朱音とデートをした時だって、体が触れ合うようなことは決してなかった。


 よって俺は心から舞い上がり……というよりも、困惑していた。


「……あれは、つまり、どういうことだ?」


 気が付いたら唇を重ねていた。

 頭が真っ白で、吸い寄せられるようにして体が動いていた。


 あのあと結衣は自分の部屋にこもってしまい、話をすることは出来なかった。だから俺は悶々とした感情を抱えながら、そのうち目を覚ましたみさきと一緒に帰宅した。


「……無理やりってことは無いよな」


 結衣の反応を思い出しながら呟く。

 キスをしたのは、結衣の方からだったはずだ。


 よく分からんが、なんか不思議な感じになって、なんか動けなくなって、なんか、ああなっていた。


「……待て待て、落ち着け」


 落ち着けない。

 気になって仕方ない。


「……電話、してみるか?」


 いやいや朝だぞ。

 ケータイを開いて――ほら、まだ六時じゃねぇか。


 どっちにしろ、また直ぐ会うだろうしその時に――うおっ!? 電話かかってきた!?


「誰だよ……って、あいつしかいないよな」


 何度か深呼吸を繰り返して、電話に出る。


「……」

「……」


 互いに無言だった。

 ただ、結衣の息を吸う音だけが微かに聞こえる。


 これは……呼吸を整えているのだろうか。


「……き」


 き、聞こえたのはその一言だけだ。

 その声だけでも、かなり動揺しているのが分かる。


 もちろん俺だって動揺している。

 なにを言えばいいのか全く分からない。


 頭の中が真っ白だ。


「……」

「……」


 再び沈黙が続く。

 俺は耐えられなくなって、思い切って自分から言うことにした。


「昨日のこと、でいいのか?」

「……」


 沈黙。

 直後、大きく息を吸う音が聞こえ、俺は反射的にケータイを耳から遠ざけた。


「キスくらいで! 調子に乗らないでください!」


 果たして、この一言をきっかけに、俺達はデートすることになった。



 *



 待ち合わせたのは、最寄りの駅だ。

 都会と田舎の中間というか、何かと中途半端な街にある駅。改札を通った先は直ぐにホームで、反対側へ行く為には端にある階段を上がって歩道橋のような通路を利用する。


 正月明けの昼前。

 ホームにはぽつりぽつりと人が居た。


 その中で俺は、改札を通って直ぐの柱に背を預け、人を待っていた。

 人って、もちろん結衣のことである。


 キスくらいで調子に乗らないでください。

 全く予想していなかった言葉に、俺は何も言い返せなかった。


 代わりに結衣は早口に喋り続け、気が付けば二人でどこかへ行くことになっていた。


 その間、みさきはゆいちゃんと二人でお留守番。

 みさきは一緒に来たがったけれど、流石というか、マセているゆいちゃんが事情を察して、空気を読んだ。


 さて、俺はみさきをゆいちゃんのところへ送ったわけで、ならば、そこから結衣と二人で出掛ければ良いだろうと、誰もが思うだろう。


 しかし、女の子には準備が必要なのだそうだ。

 いやお前もう女の子って歳じゃねぇだろ。決して口には出さない言葉を心の中で呟いた。


 結衣が指定した時間まで、残り十分。

 人を待つのが苦手ということは無いけれど、なんだか手持ち無沙汰だ。


 落ち着かない。

 なぜだ、おかしい。


 これまでにも結衣と二人で出掛けたことはあった。

 その時って、どうしてたんだっけ。


 確か普通に会って、普通に話して、普通に買い物して、たまに飯を食べて……という感じだったはずだ。


 普通ってなんだよ。


 普通に会う? なんだそれ具体的に思い出せ。

 話って何だよ何を話せばいい。


 買い物? 別に買いたい物とかねぇよ。


 飯? 何を食べればいい。

 いつも通りファミレスでいいのか? いやいや、こういう時って普通はいい感じのレストランとか使うんじゃねぇのか? 待て待ていい感じのレストランって何だよ。こんな田舎だか都会だか分からん中途半端な場所に立派なレストランなんてねぇよ。


 ああクソ!

 なんだこれ!?


 マジで落ち着けよ。

 結衣だぞ? ほぼ毎日会ってる相手だぞ?


 それなのに、それなのに……。

 ちくしょう早く来いよ。準備って何してるんだ?


 準備……化粧とか?

 もしかしたら髪型とか服装も変えてくるかもしれない。


 どんな服を着てくるのだろう。

 あいつの服装なんて、スーツ以外には何度かパジャマ姿を見たくらいだ。まさかパジャマやスーツで来ることも無いだろうし……やばい、全く想像できない。


 髪型は……そもそも普段どういう髪型してたっけ。

 なんか、こう、清潔感のある感じで……


 そもそも結衣って、どんな感じだったっけ?

 

 外見はかなり良かった気がする。

 女としては背が高くて、そのくせ姿勢も良いから、どこかの雑誌でモデルをやっていると言われても違和感が無い。


 ゆいちゃんみたいに無邪気に笑うタイプではないけれど、目を伏せて優しく微笑む姿は妙に可愛げがあるというか、何度か息を飲んだ記憶がある。


 そんな相手が、俺の為に準備を……

 ダメだ、このままじゃ馬鹿になる。


 落ち着け天童龍誠。

 こういう時はみさきを数えよう。


 みさきが一人、みさきが二人……天国かよ。


 なんてことを考えていたら、あっという間に時間が過ぎた。

 果たして、彼女は時間ぴったりに現れる。


「……」

「……」


 目が合った後、結衣は何も言わずに俺の隣まで歩き、そこで足を止めた。


 その横顔を見ながら、俺は思う。

 なぜ、スーツなのだろう。


「何か言いたそうですね」


 結衣は言う。


「大方、私の服装についてでしょう」


 俺は頷く。

 それを確認して、結衣は続けた。


「私はいつも全力で仕事をしています。つまりそういうことです」

「……なるほど」


 つまりどういうことなのだろう。


「何か文句があるのなら、どうぞご自由にっ」

「いや文句っていうか……仕事のついでみたいな感じがして、もやもやする」


 正直に告げると、結衣は俺の前に立って、こう言った。


「この一件だけです」

「一件?」

「今日の予定は、他に無いと言っています」


 だから、と結衣は息を吸う。


「だから今日は、せいぜい私を独占してください」


 そう言って、結衣はそっぽを向いた。

 その無愛想な態度に何故か顔が熱くなる。


「……分かった。そうさせてもらうよ」


 俺もまた、彼女と目を合わせることが出来なかった。

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