第169話 SS:みさきと反抗期?
「ゆいが、反抗期を迎えてしまいました……」
「そんな馬鹿な……」
七月始め。
龍誠は自宅に訪れた結衣の一言で愕然とした。
結衣の膝に座ったみさきは、なになに? と龍誠に目を向ける。
「ど、どうせ大袈裟に言ってるだけだろ?」
龍誠には信じられない。
あれほど素直で良い子だったゆいに、これほど早く反抗期が訪れるなんて想像できない。
しかし結衣は苦い表情をして、こう続ける。
「昨日、ゆいは大声で言っていました……」
まなつにうんどうかいなんてあたまおかしい!
「そんな、バカな……」
龍誠には信じられない。
だが、神妙に頷いた結衣の態度が真実だと告げている。ついでにみさきも「いってたよ」と頷いている。
「ゆいちゃん、今はピアノのレッスンだったか?」
「はい、とても頑張っています」
結衣が部屋に訪れる時は決まってゆいと一緒だった。だから結衣が一人で来た時点で、何か用があるのだろうと龍誠は直感した。
しかし、まさかこんな話を聞かされるとは夢にも思わなかった。
「まぁ確かに、最近の夏は殺人的だよな」
「ええ。ですが、あんな言葉遣いは教えていません」
結衣は真っ青になって言う。
「もしもこの先、料理にトマトを出すなんて頭おかしい、なんてことを言われてしまったら、ショックで入院してしまいます。どうしましょう、もうトマトとは縁を切った方が良いのでしょうか?」
「そうだな、トマトはあまりにも罪深い……」
深刻そうな雰囲気。
思わずみさきの口も一の字になる。
ソファに並んだ三人は、各々の表情で俯いていた。
「……ゆいちゃん」
龍誠が慎重に声を出すと、二人は揃って目を向けた。
「運動は得意じゃないが、外で遊ぶのは楽しそうだった。それは俺が保証する。つまり、やっぱ暑さが悪いってことか……?」
「ええ、そうですね」
結衣は頷くと、足元に置いた鞄から何かを取り出した。
「それは?」
「たれぱんだです」
有名なパンダのキーホルダー。
「最近、帰宅すると冷房の効いた部屋で溶けているゆいを見ることが多くなりました。その愛くるしい姿が、このパンダと酷似していたので、思わず買ってしまったのです」
「そうか……」
ちょっと嬉しそうに言った結衣。
実はそんなに深刻でもないんじゃないかと思い始めた龍誠。
目の前に掲げられたキーホルダーを突いて遊ぶみさき。
つんつん。
つんつん。
くいっ(結衣がキーホルダーを持ち上げた音)
……(みさきがムッとしている)
「見てください。獲物を狙う獣のような目です」
「いやいや、ちょっとくらい遊ばせてやれよ」
「ダメです。ゆいぱんだをツンツンしても良いのは私だけです」
そう言って、みさきを警戒しながら鞄に片付ける。
みさきは口を一の字にしたまま、結衣から離れて龍誠の膝に移ることで遺憾の意を示した。
「今度買ってやる」
「……ん」
みさきは少し考えた後、納得した。
そのまま猫のように体を丸めて、目を閉じた。眠くなったようだ。
まだまだ体の小さなみさきだが、流石に龍誠の膝に収まるほどコンパクトにはなれない。
「見てください、私に足を向けています。反抗期ですね」
「そんなわけないだろ。普通に寝てるだけだ」
「冗談です。しかし、悪意が無かろうと人に足を向けて寝るのはマナー違反です。みさき、ダメですよ」
みさきの小さな足をつつく。
瞬間、鋭い感覚に襲われたみさきはビクリと足を動かした。
「わっ、蹴られました。反抗期です」
「おまえ実は反抗期って言いたいだけだろ……みさき、向きを変えようか」
みさきは少し不満そうにしてから、龍誠に向けて両手を伸ばした。だっこの要求である。
彼が息を吸うように要求を呑むと、みさきは穏やかに昼寝を始めた。
「すっかりベタベタするようになりましたね」
「ベタベタとか言うな、普通だろ。……普通だよな?」
不安になって言い直した龍誠。
結衣はくすくす笑う。
昼寝モードになったみさきは我関せず、静かに眠りへ向かっている。
暫くの間、二人はみさきを見守っていた。
小さな肩がゆっくりと上下して、やがて微かな寝息が聞こえるようになった。
「早いですね」
「そうだな。たまに羨ましいよ」
「子供が持つ特技のひとつですね。是非とも教えていただきたいものです」
「眠れてないのか?」
「不眠症というほどではありませんが、それなりに」
みさきが起きないよう、二人は小さな声で会話を続ける。
「そうなのか……もしかして、土日に働かなくなったのも、それが原因か?」
「いえ、単純に部下が育っただけです。体調は良好ですよ」
「そうか、良かった」
部下という言葉が気になったけれど、あえて触れないことにした。
彼の認識では、二十代の自分たちが部下という立場であるはずなのだが……まあ、結衣なら仕方ない。
やっぱスゲェよ、と龍誠は思う。
その一瞬の感動を結衣は見逃さない。
「働く時間は減りましたが、実情としてはサービス残業を無くしただけなので給料は変わりませんけどね」
いくらか煽るような口調で言う結衣。
「ところで、あなたの年収は如何ほどになりましたか?」
「……言いたくない」
「そうですか。あなたが甲斐性無しなのは知っていますが、せいぜいみさきを困らせないでくださいね」
「言われなくても分かってるよ」
嫌味な言い方だけれど、いまさら気になったりはしない。
悪戯をする子供のような視線を、彼は笑って受け流す。
そうなることが分かっているから、結衣も遠慮なく言葉を発することが出来る。
いつの間にか、二人は気の置けない関係になっていた。
「まあでも、どうしてもというのなら、戸崎銀行がリボ払いで融資しましょう」
「金利と担保が気になるところだな」
「とても良心的ですよ。月々の支払いは一万円から、年利が九割、担保はみさきです」
「その時が来ないことを願っておくよ」
特に意味の無い会話が、ゆっくりと続いていく。
やがて会話が途切れると、見計らったかのようなタイミングでみさきがくしゃみをした。
「冷房、切りましょうか?」
「逆に暑くならないか」
「そうですね。では、毛布か何かありますか?」
「あーそうか。なら、ちょっとみさきを頼む。取ってくるよ」
龍誠は立ち上がって、結衣にみさきを預けようとした。
しかし、みさきは意外な握力を発揮して離れない。
「困ったな……」
言葉とは裏腹に嬉しそうな龍誠。
結衣も和やかな気分で微笑んで、ソファから立ち上がる。
「そろそろ帰ります。甘えん坊なみさきと一緒に寝てあげてください」
「悪いな」
「いえいえ。むしろ子守歌でも聞かせて差し上げましょうか?」
「遠慮しておくよ。またな」
「はい、また来ます」
龍誠は結衣を見送って、みさきと布団に入った。
その時になってもみさきは龍誠から手を離さない。
仕方なく、彼はお腹の上に乗せて寝ることにした。
寝るといっても、そう簡単に眠れるものではない。
彼はみさきの背を軽く撫でながら、その寝顔を見つめていた。
「ほんと、気持ちよさそうに寝てるな」
穏やかな日々が続いている。
もちろん大変なことも多いけれど、どうにかなっている。
何より、忙しい時間の合間を縫って様子を見に来てくれている結衣には、いくら感謝しても足りない。
最近では暇を潰しに来ているだけなのではないかと思うこともあるけれど、それでも、龍誠にとってはありがたい。
そのうち、龍誠は目を閉じた。
すんなり眠りが訪れて――ほんの数分後に、龍誠は飛び起きた。
「みさきが、みさきがりょーくん大嫌いって……」
言うまでもなく、悪夢によって。
「良かった、夢か……あれ、みさきは?」
みさきの姿を探す龍誠。
そのうち、何かが自分にしがみついていることに気が付いた。
何かって、もちろんみさきである。
「……流石の学習能力だな」
今のように龍誠が飛び起きることは定期的にある。
そして、ほぼ毎日龍誠の上で寝ているみさきは、定期的に投げ飛ばされている。
そんなことを繰り返しているからか、みさきは寝ている間も確かな握力を発揮するようになったらしい。
みさきは今、何事も無かったかのようにして、龍誠にしがみついたまま寝ている。
龍誠は少しの間だけ固まって、ちょっとだけ考えて、果たして二度寝することにした。
「おやすみ」
「……ん」
それは寝言か、それとも別の理由か。
さておき、二人の日々は今日も穏やかに続いていた。
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