第160話 未来のこと(前)


 何かが体を揺らしている。

 温かい布団に包まれた微睡まどろみの中で感じる揺れはとても心地よくて、このままいつまでも眠っていたい気分になる。


 あと五分と呟きながら心地よい揺れに身を預けていると、鈴の音のような声が耳に届いた。


「りょーくん、あさ」


 悪いなみさき、もうちょっとだけ。


「がっこう」

「っ!?」


 その一言で俺は飛び起きた。

 勢い良く身体を起こした後、さっと時計に目を向けようとして、ふと感じた違和感で目線を下に向ける。


「……びっくり」


 恐らく上に乗って体を揺らしていたのだろう。

 見事に押し倒されたみさきの姿があった。


「うぉぉわりぃみさき! 怪我はねぇか!?」

「……ん」


 みさきはコロンと転がってベッドから降りると、俺の方を見て一言。


「りょーくん、ねぼすけさん」

「ごめんよみさき。ところで、ねぼすけさん何て言葉どこで覚えたんだ?」

「ゆいちゃん」

「そうか」


 あの子なら言いそうだ。

 そう思いながら時計に目を向ける。


 みさき、学校へ行く十五分前。


「うぉおギリギリじぇねぇか!? みさきっ、食べたい物を言え!」

「ごはん」

「分かった! 直ぐ用意するから顔洗って待ってろ!」

「んっ」


 みさきとぶつからない程度に慌てて部屋を飛び出す。

 その直後、あることに気が付いて、また慌てて部屋に戻った。


「ああいやみさきっ、顔を洗って待ってろってのは別に脅迫的な意味じゃなくてそのまんまの意味でだなっ」

「……ん?」

「すまん、なんでもない!」


 落ち着け落ち着け落ち着け!

 心の中で叫びながらキッチンへ向かう。


 ええっと、白米は炊飯器に……炊いてねぇ!?

 そりゃそうだ炊かなきゃ白米はねぇよ。


 とりあえず冷蔵庫には……卵と野菜と牛乳か。


 牛乳は好きだったよな。卵料理なら俺にも出来るが、殻が入るリスクを考えるとまだ……なら主食は野菜か? 


 いやしかし、みさきはご飯が食べたいと言っていた。野菜炒めを作るにも時間がねぇし、ここでもやしに火を通しただけの物を出そうものなら失望されてしまう。


 どうする?

 もやしを細かく刻んで米と言い張るか?

 いやダメだ、そんな時間は――



「すまねぇみさき、今日の朝食は野菜炒めだ」

「……ありがと。いただきます」


 な、なんて良い子なんだ。

 野菜炒めという名のもやし炒めを見て嫌な顔ひとつしないなんて……っ!


 っと、俺は俺でやることやらねぇと。


「りょーくん顔洗ってくるから、食べててくれ」

「……ん」


 食べるのに忙しそうな返事を聞いてから、俺は立ち上がった。

 とぼとぼ洗面台に向かって、手にためた冷たい水を顔に叩き付ける。


「……はぁ」


 溜息ひとつ。

 タオルを顔に押し当てて、少しの間そのままでいた。


 小日向さんが東京へ行った翌日、いきなりこの有り様だ。今迄どれだけ彼女に頼りきっていたのか良く分かる。


「しっかりしねぇと」


 呟きと共に気合を入れて、みさきの元へ戻る。

 みさきはリスみたいに頬を膨らませて、野菜炒めをむしゃむしゃ食べていた。


 その愛くるしい姿を見て、俺はすっかり脱力してしまう。


「みさき、早食いは良くないぞ」


 こくりと頷いて口の動きをゆっくりにしたみさき。

 むーしゃむーしゃと食べながら、しきりに時計を確認している。


「ごめんなみさき、りょーくん次は寝坊しないから」

「んー」


 と返事をした後、ちょっぴり顔を上に向けてゴクリと喉を鳴らした。


「ごちそうさま」


 丁寧に手を合わせて、ぴょんと椅子から飛び降りた。その後まっすぐ俺の方へ駆けてくる。


「みさき?」


 そのまま横を通り抜けたみさきは、浴室へ飛び込んだ。気になって追いかけると、コップを片手に歯を磨くみさきの姿が鏡に映っていた。


 ……やべぇ、俺よりしっかりしてやがる。


 きっと初めて始まったみさきとの完全な二人暮らし。俺は大人として、親としてきちんとみさきの世話をしようと考えていた。


 しかし、蓋を開けたらこの通り。


 ……このままじゃダメだ。


 自分より遥かにしっかりしたみさきを見て、俺は確かな危機感を覚えた。



 *



「どうした天童龍誠。今日はヤケに気合が入ってるじゃないか」

「まあな。俺に出来る程度の仕事があったらどんどん回してくれ」


 仕事場(ロリコンの部屋)

 どこを見ても妙に目の大きな女の子が微笑んでいる部屋は相変わらずで、しかし二年前と比べたらポスターやフィギュアの数が増えているように思える。


 だが俺も慣れたもので、今では天井に貼られたポスターのひとつがみさきに似ていることに気が付いて、まるでみさきに見守られているような安心感を覚える程度にはなっていた。


『お仕事なら沢山あるよ。メールを送るから好きなのを選んでね』

「ああ、助かる」


 キャピキャピした声は二年前と変わらない。この合成音声は自由に変更出来るから、拓斗は余程あの声に愛着があるのだろう。


 ……そういや本人の声は未だ聞いたことねぇな。


「あっは、なんだか最初の頃を思い出すね」

「最初?」

「君がここに来たばかりの頃だよ。あの頃はリア充死ねって思ってたけど、今では簡単な案件なら任せていいと思えるんだから、本当に頑張ったよね」


 褒められてるのか貶されてるのか分からなくなる言葉が混ざっていたような気がするけれど勘違いだろうか。


 それはそうと、なんだかんだでこの仕事も二年になるのか。


 合同会社SDS。

 最初は世界から無駄な物を駆逐するというロリコンに対して「何いってんだこいつ」と思ったが、今ではその意味もなんとなく分かる。


 拓斗から回されたメールリストには、ホームページに寄せられた案件……依頼が並んでいた。


 タイトルの多くは「事務作業の効率化」であり、報酬どれも十万円以上だ。そしてこの会社で働いた場合、半分は給料に上乗せされる。


 ひとつひとつの案件がとても重たいものなのかと問われれば、そんなことはない。下手をすれば一時間も掛からないような内容だってある。


 例えば、こんな事例がある。

 A社は顧客から商品名と個数を記した依頼書を渡される。事務員は依頼書を元に社内で保管する管理書と顧客へ渡す請求書を作成する。その際、事務員はパソコンを使って、それぞれ手作業で値段などの数字を入力しているそうだ。


 しかし、この案件にプログラムを用いた場合、最初の依頼書を元にボタンひとつで管理書と請求書を作成することが可能だ。しかも、そのプログラムは俺が作ったとしても一時間。ロリコンなら五分で完成させられる程度のものである。


 本当に簡単なことなのだが、プログラムを扱うことの出来ない人にとっては荒唐無稽な作業であり、十万円という高価な報酬が妥当な価格として成立している。むしろ、それによって改善する事務作業の時間を鑑みればプラスになってしまうのだ。


 なるほど、これを知っていれば世の中には無駄ばかりだと思える。


 という事情はどうでも良くて、俺にとって重要なのは報酬金だ。一時間程度の作業で五万は貰えるのだから、直ぐに金持ちになれそうな気がしてしまうけれど、そう簡単にはいかない。


 そもそも案件の数に限りがあり、我が社には化け物みたいな先輩が三人もいるのだ。


 現状では月に二件ほど小さな仕事を貰えている。だが給料には社会保障とかそういうものは含まれておらず、みさきの保険やら何やらに金を出し、トドメに生活費と税金を引いたら小遣い程度の金しか残らない。


 なんとか貯金は出来ているけれど、これからを考えると現状維持とはいかないわけで、どうにかして単価が百万円以上の案件を貰えるよう勉強していた。


 しかし今朝のことを考えると、それでは足りない。

 もっと頑張らなければならないのだ。


「よしっ、やってやる」


 気合を入れて仕事を始める。

 この日は昼休憩でもパソコン画面から目を逸らさず、外が少し暗くなるまで仕事を続けた。



 *



 帰り道、俺は小走りで部屋へ向かっていた。

 本当はもっと仕事をしたかったが、みさきのことを考えたら遅くなるのはまずい。


 パソコンなどの荷物はロリコンの部屋に置いてあるから、俺の持ち物は財布とケータイ、それから部屋の鍵くらい。こんな軽装だと、むしろ歩くより走った方が楽だ。そこに早く帰りたい気持ちも重なって、俺は徐々に速度を上げていった。


 みさきは何をしているだろうか。いつもみたいに漫画を読んでいるか、テレビを見ているか、それとも俺のことを待ってドアの前で待機しているのだろうか。


 みさきはとてもしっかりした子供だけれど、年相応に甘えたいという欲求も持っている。それは普段抑えられているようだが、たまに爆発して一日中離れなくなることがある。そんなみさきのことを考えると一秒でも早く帰りたいのだが、不意に視界に入った店を見て今朝のことを思い出した。


 ……何か買っていかねぇと。


 帰った所で飯は無い。米ならいくらか残っていたが、冷蔵庫の中身を考えたらここで買い物をするのが最善だろう。俺は一度財布の中を確認して、店に入った。


 さて何を買っていこう。

 どうせだから一ヶ月分くらいは買い込んでしまいたいが、これまた小日向さんに任せきりだったから何を買えばいいのか分からない。


 ……カレー、肉じゃが、味噌汁、オムレツ。


 小日向さんが作ってくれたメニューを思い出しながら、必要な食材を考える。


 とりあえず肉は必須だな。あとはジャガイモと適当な野菜、それからカレー粉。そうだ、米も買っておこう。ついでにインスタントでもいいから何か簡単で美味そうな物を……酢豚、タマネギを入れるだけで出来る? これなら俺でも作れそうだ。他には……炒飯が電子レンジで作れるだと? 買うしかない。それからそれから――


 と、直感に従って買い物を続け、レジを通った後に少し後悔した。


 ……これ、どうやって持って帰ればいいんだ?


 車があるならともかく、徒歩でこの量を運ぶのは流石にキツい。


 ……気合でどうにかするしかねぇな。


 両脇に米、両手に袋。

 一歩進む度に全身の筋肉が削られるような感覚を味わいながら、俺はみさきの元へ急いだ。


 のしのし歩くこと二十分。ようやくマンションが見えた頃には、二月の寒空の下だというのに、背中が汗でべっとりだった。


 運動不足を痛感しながらも、もう直ぐみさきに会えると思ったら途端に身体が軽くなる。

 まったく我ながら単純だと思ってしまうけれど、相手がみさきだから仕方ない。


 さてさて、すっかり暗くなっちまってるが、まさか寝てないよな? 寝てたとしても料理の匂いで起きてきそうだが。


 とりあえず今夜は最初だし、気合を入れてカレーでも作ってみよう。小日向さんの料理を手伝ったこともあって、作り方はなんとなく覚えている。基本的に食材を切って焼いて突っ込むだけだし、よっぽど失敗はしないだろう。


 ……みさき喜ぶかな。


 家に帰ってからのことを考えながら歩いていたら、あっという間にマンションの前に着いた。

 エレベータに乗って、部屋の前まで歩いて――



「……みさき?」



 ドアの前で座るみさきの姿を見付けた。


「外で待ってたのか?」


 声をかけると、みさきは急に立ち上がって俺に飛び付いた。どうやら今日は甘えたい日だったらしい。


「ごめんなみさき、遅くなった」

「……まってた」


 俺の脚に抱き着いたみさきから伝わる体温が妙に冷たく感じる。重たい荷物のせいで寒さを忘れていたが、今は二月の夜だ。当然気温は低くて、風も冷たい。


「ほらみさき、食べ物いっぱい買ってきたぞ」


 言いながら違和感を覚えた。何か、何かとんでもない失敗をしているような気がする。


「寒いだろ、早く部屋に入ろう」

「……ない」

「みさき?」

「……あかない」


 瞬間、時間が止まったような気がした。

 みさきの言葉の意味が一瞬だけ分からなくて、それを理解するよりも早く両手に抱えた荷物を投げ捨てて、みさきを抱きしめていた。


「りょーくん?」

 

 みさきが困惑したような声を出す。

 俺は何も言えなかった。


 部屋の前で待つみさきを見た時、今日は甘えたい日なのかと思った。だけど違う。みさきは部屋の前で待っていたんじゃない。部屋に入れなかったんだ。


 忘れていた。

 いつもは小日向さんがいるから良かったけれど、今日は部屋に誰もいないのだ。


 もちろんみさきは鍵を持っていない。

 渡す必要が無かったから、渡していなかった。


 だけど少し考えれば分かったはずだ。そもそも今朝ドアの鍵を掛けたのは俺だ。どうしてその時に気が付かなかった? みさきのことを一番に考えなきゃいけないはずの俺が、こんな簡単なことに……ダメだダメだダメだ最悪だ。これでみさきが風邪を引いたらどうする。どう責任を取ればいい。


「ごめん、みさき……ごめん!」


 謝ることしか出来ない。

 みさきを強く抱き締めていると、服の上からでも冷え切った体温が伝わってきた。


「りょーくん、あったかい」


 一方でみさきは、嬉しそうな声を出した。

 きっとみさきは怒ったり俺を責めたりはしない。

 だからこそ、俺自信が戒めなければならない。


 いったい何をすればいい。

 どうやって償えばいい。

 

「りょーくん」

「どうした?」

「ごはん、たべたい」

「分かった、直ぐ部屋に入ろう!」


 みさきから離れて、部屋の鍵を取り出す。

 それから直ぐにドアを開けて、荷物を中に入れようとしたところで初めて気が付いた。


「……卵、割れてる」


 ああクソっ、何から何まで!


「悪い、みさき。りょーくん掃除するから、中で待っててくれ」

「……ん」


 みさきは素直に頷いて、


「てつだう」

「いや、寒かっただろ。部屋で温かくしててくれ」

「……ん」


 みさきは暫く心配そうな顔で俺を見て、渋々といった具合に頷いた。


 何度か振り返りながらドアに近付いて、近くに置かれていたランドセルを持ち上げると、もう一度だけ俺の方を見てから部屋の中に入った。


 それを確認して、俺は自分の膝を思い切り叩いた。


 小日向さんは東京へ行った。

 きっともう戻ってこない。


 これからみさきの世話を出来るのは俺だけ。もっともっと頑張らなければならないのに、いきなり失敗ばかり。


 自分を責めるのは簡単だ。

 しかし無闇に自傷行為を繰り返しても後で後悔するだけ。ガキみたいに叫んで発散しようものなら、みさきに余計な心配をかけてしまう。


 果たして俺は歯をくいしばることしか出来ない。行き場を失った感情は、ただただ不快な感覚として胸の内で暴れ続けた。


 このままじゃダメだ。

 

 みさきのことを第一に。

 みさきを誰よりも幸せに出来るように。


「……落ち着け」


 呟いて、大きく深呼吸をした。


 俺はもう子供じゃない。

 子供を育てる大人になるんだ。


 感情的に考えてばかりでは、きっと同じことを繰り返す。もっと理性的に考えろ。冷静に、0か1で判断されるプログラムのように、物事をシンプルに判断しろ。そして行動しろ。


 無駄に悩むのが俺の悪い癖だ。


 もう二度と同じ失敗はしない。

 今回は注意力が足りなかった、それだけだ。


 きちんと失敗を自覚して、次へ繋ぐ。

 大丈夫、そうすればいいだけだ。

 

 大丈夫、大丈夫だ……。




 *




 最近りょーくんが元気ない。

 なんでだろう。そればかり考えて、学校でのみさきは上の空だった。

 

「みさき、なんかママみたい」

「……ん?」


 給食後にある短い休憩。

 低学年の児童にとっては昼寝の時間。


 同級生達が気持ち良さそうに眠る中、劣悪な環境で育ったみさきの目はぱっちりしていた。


 眠気を感じないというか、りょーくんがそばに居ないと眠れない。そうして静かな昼寝部屋で目を開けていると、最近の元気が無いりょーくんの姿を思い出してしまう。


 なんでだろう。そう思ってぼんやりしているみさきを見て、ゆいは眠たそうな目をしながら言った。


 どういうこと?

 首を傾けたみさきに向かって、半分寝ているゆいは続ける。


「なんかね、ママさいきんぼーっとしてるの。みさきとおなじ」

「おなじ?」

「うん。おしごとたいへんで、つかれてるのかな?」

「おしごと……」


 りょーくんも疲れてるのかな?


「だからね、あたしおてつだいはじめたの」

「おてつだい?」

「そう。おりょうりとか、おそうじとか……そしたらママ、ありがとうって」

「おー」


 興味津々のみさき。

 もっと聞かせて。


「……すぴー」


 しかし、ゆいは寝落ちしていた。

 みさきはちょっぴりムッとして、お手伝いについて考える。


 りょーくんいつも大変そう。

 だから、みさきがお手伝いしたら、喜んでくれるかもしれない。




 帰宅後。

 みさきは早速作戦を開始した。


 いろいろ考えて、ご飯なら作れそうだと思った。

 キッチンまで歩いて炊飯器を開くと、中は空っぽ。


 お米を入れるやつはどこだろう。

 キッチンの中をぐるぐるしても見つからない。


 あと見てないのはお皿を洗うところだけだ。

 でも、ちょっと高くてみさきには確認できない。


 みさきは少し考えて、りょーくんがどこかを踏んで高さを変えていたことを思い出した。


 みさきは踏めそうな物を手当たり次第に踏んでみる。すると三回目の挑戦で当たりを引いた。


 うぃーんという音がして、お皿を洗うところが近付いてくる。


「おー」


 みさきは目を輝かせて、試しに今踏んだ物を持ち上げてみた。

 またうぃーんという音がして、今度はお皿を洗うところが遠ざかる。


「おー!」


 うぃーん、うぃーん。

 近付いたり、遠ざかったり。


 みさきは満足するまで遊んだ後、限界まで低い位置に調整した。

 こうして内釜を発見したみさき。


 最後に椅子を持ってきて、内釜の入手に成功。

 その時点でちょっぴり満足したが、直ぐに本来の目的を思い出す。


 まずはお米を入れないと。

 どこにあるんだろう。


 確か……みつけた。

 でも、どうやればいいんだろう?


 みさきの前に現れたのは『計量米びつ』と呼ばれるものだ。レバーがひとつ付いていて、それを上げれば一定量の米がセットされ、レバーを下げるとセットされた米が下部に設置された器に落ちてくる。


 まずはレバーに目が行った。

 その横には矢印の絵があって、それぞれ上に「計る」下に「出る」と書かれている。


 下に押せば出るのかな?

 みさきはレバーを下に押してみた。


 しゅーという独特の音がして、びっくりしたみさきは反射的に身を引いた。


 少し離れた位置で装置を観察して、そっと近付く。

 人差し指を伸ばして、つんつん。


「……へーき?」


 大丈夫ですかと問いかけるけれど、当然返事は無い。

 とりあえず大丈夫ということにして、みさきはお米を探した。


 装置を見ると、下の方にそれっぽい取っ手がある。

 試しに引いてみると、その中には見事にお米が入っていた。


「おー」


 それを見て少しお腹が空いたみさき。

 ちょっとつまみ食いしてみよう。


 お米を一粒だけ手にとって、ちょっと噛んでみる。


「ぺっ」


 かたい、おいしくない。

 みさきは口に入れた米粒を手に吐き出して、ゴミ箱に捨てた。


 気を取り直して、お米を入れた内釜を炊飯器にセットする。

 あとは「開始」と書かれたボタンを押して……あれ?


 なにかおかしい。

 みさきは開始に指を伸ばした姿勢でかたまって、少しだけ考えた。


「……からから」


 水が入ってない!

 内釜を持ち上げて、よいしょと洗い場まで持ち上げる。


 蛇口を捻って水を入れ、内釜に溜まっていく水を見ながら、みさきは何かを思い出していた。


 確かりょーくんも同じことをしていた。

 その時は……なんか、しゃかしゃかしてた。


 何をしてたんだろう?

 そう思ったみさきの目に、なんだか白く濁った水が映る。


 直感的に汚いと感じたみさきは、りょーくんはお米を洗っていたのかもしれないと思った。

 早速手を洗って、お米をしゃかしゃかしてみる。


 それを五分ほど繰り返すと、白いのがなくなってきた。

 

「もういい?」


 お米に問いかけても、やっぱり返事は無い。

 みさきはもう良いということにして、内釜を持ち上げようとした。


「……おもたい」


 持ち上がらないので、内釜を傾けて中に入っている水を捨てる。

 その際、お米も一緒に流れそうになったので、みさきは慌てて内釜の角度を戻した。


 ……どうやって水を捨てよう。


 みさきは考えて、地道に手ですくって捨てることにした。


 水を捨てていると、途中で線が見えてきた。

 その隣には数字が書いてあって、なんだろうと首を傾ける。


 数字は低い所から順番に大きくなっている。

 みさきは再び考えた。


 お米さんは水を飲む。

 だから水がいる。


 お米さんがいっぱいいると、水もいっぱいいる?

 この数字は、お米を出すレバーをしゅーってした数?


 とりあえずそういうことにして、1と書かれた数字と水位が重なるまで、みさきは水を捨て続けた。


「……できた」


 普通よりも百倍くらい大変な作業をして、ようやく炊飯器にセットされた内釜。

 開始ボタンを押した後、みさきは大きな達成感を覚えて、その場でぴょんぴょんした。


 満足した後、炊飯器を見つめる。

 あと52分という表示があって、それをじーっと見ていると、数字が小さくなった。そして、数字が小さくなるにつれて炊飯器から出る湯気が多くなり、音も激しくなる。


 それが楽しくて、みさきはじーっと数字を見続けた。

 果たして数字が0になると、それっぽい音が鳴る。


 みさきはワクワクしながら炊飯器を開こうとして、


「……あつい」


 幼児の敏感な指先は、あっけなく熱に敗北した。

 みさきはヒリヒリする指を口に入れて、ヒリヒリが治まるのを待つ。


 その間に少し考えて、次は濡らしたタオルを間に挟むことにした。

 果たして炊飯器を開くことに成功したみさき。


 ぶわぁっと湯気が出た後に、瑞々しい白米が姿を表す。


「おー!」


 みさきは初めて炊飯器で作ったご飯に目を輝かせて、早速スプーンを手に取った。

 それをお米に突っ込んで、パクリと一口。


「……んんん」


 あつい。

 でもおいしい!


 みさきは大満足だった。

 その勢いでもう一口食べようとして、直前で思いとどまる。


 りょーくんと一緒に食べよう。

 

「……ひひ」


 きっと喜んでくれる。

 そう考えたら、みさきは笑みを堪えられなかった。


 早く帰ってこないかな。

 ワクワクして待ちきれないみさきはドアの前に座って、じーっと待ち続けた。




 それから何時間経っただろうか。

 うとうとしていたみさきの耳が聞き慣れた足音をとらえた。


 みさきは文字通り飛び起きて、ドアをじーっと見る。

 そしてドアが開いた瞬間、龍誠に飛び付いた。


「うぉっ、どうした?」

「……りょーくん!」


 ご飯作ったよ、褒めて。


 違う。 


 ご飯作ったよ、食べて。


 これも少し違う。


 お帰り、疲れてない?


 なんか違う。


 様々な言葉が同時に浮かんで、果たしてみさきは


「ごはん!」

「ははは、お腹空いたか。よしっ、ちょっと待ってろよ」


 違う! みさきは誤解を正そうとするけれど、上手く言葉が出てこない。


「こっち!」


 みさきは龍誠の手を掴んで、キッチンまで引っ張った。

 よっぽどお腹が空いているのかなと龍誠は思う。


 さてさて、まずは米を炊かねぇとな。

 そんな龍誠に向かって、みさきは大きな声で言った。


「みて!」


 同時に炊飯器のボタンを押して、蓋を開く。

 それを見て、龍誠は一瞬だけ思考が止まった。


「……これ、みさきが作ったのか?」

「んっ!」


 力強く頷いたみさき。


 さぁ褒めて! いっぱい褒めて!

 そんな目を龍誠に向ける。


 その気持ちだけは直ぐに伝わって、龍誠はみさきの頭をナデナデした。

 

「すごいな、みさき」


 気持ち良さそうに目を細めるみさき。

 だけど、直ぐ違和感を覚えた。


 りょーくん、あんまり嬉しそうじゃない。


「じゃあ今日は、みさきの作ったご飯を食べようか。りょーくんおかず作るけど、何が食べたい?」

「ごはん!」


 みさきの中では全部ご飯!


「ははは、そうか。それじゃあ……よし、肉じゃがを作ってみようか」

「おてつだい」

「いや、いいよ。みさきは座って待っててくれ」

「……ん」


 やっぱり、あんまり嬉しそうじゃない。

 りょーくんは、お手伝いしても、あまり喜ばない?


 みさきは少しだけガッカリして、いつものように座って待つことにした。




 みさきの作ったご飯を見て、龍誠はとにかく驚いた。

 誰も教えていないのに、一人で作ってしまったのだ。


 それから料理を始めようとして、作業場の位置がいつもより低いことに気が付いた。

 直ぐにみさきが自分に合わせて調整したのだと分かって、また驚いた。


 すると、一番初めに思い浮かんで、だけど忘れようとした言葉が自分の中で大きくなる。


 龍誠は、みさきの世話をしようと張り切っていた。

 立派な親になって、何も出来ない子供であるみさきの世話をしよう。

 みさきのことを必ず幸せにしよう。


 しかし現実はどうだ?


 みさきは誰よりもしっかりしている。

 分からないことも、自分で考えて、上手くやってしまう。


 だったら、龍誠は何のために存在している?


 みさきに出来なくて、龍誠に出来ること。

 それは、お金を稼いでくることくらいだ。


 龍誠に出来るのは、みさきにお金を与えることだけだ。

 そう思った時、ふと何かが引っかかった。


 なにか……違う。

 昔、同じようなことを思ったことがある。


 あれは確か……そう、そうだ。

 今の俺は、まるで同じだ。


 子供に金を与えることしか出来なかった存在――




 子育てに失敗した人自分の親と、そっくりだ。




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