第141話 またお祝いされた日(後)


 完璧だった。

 自らの恋路に娘を利用するのは抵抗があったけれど、彼と二人きりという状況を自然に作り出す為にはこれしかなかった。


 ただひとつだけ誤算があったとするならば――


「……」

「……」


 言葉が出てこない。

 それどころか、まともに目を合わせることも出来ない。


 ……なんなんですか、これ。


 身体が熱い。口の中はカラカラで、呼吸の仕方も分からない。心臓の音は異常に大きくて、相手にも聞こえてしまっているのではないかと気が気でない。


 言葉は用意してきた。

 与えられた時間を最大限に活かして、考え得る限りの会話をシミュレートした。

 それでも、今この状態は全く想定していなかった。


 普通に生きていれば、今の精神状態を緊張していると判断することが出来るだろう。しかし結衣にはそれが分からない。数々の修羅場を平然と通り抜けてきた彼女の辞書に、緊張という文字は残っていないのだ。だから頭が真っ白になって、ついつい逃げる口実を探してしまう。


 ……よ、よく考えてみればそんなに好きでもないかもしれません。例えばそう、彼の為に死ねと言われたら死ねますか? 無理ですよそんなの。一歩譲ってもゆいの為に集めた貯金を叩きつけるくらいしか出来ませんよ……あれ?


「ゆいちゃんもさ、悪気は無かったって。絶対」

「……そんなの、当然です」

「でもほら、これからはもう少し優しく叱ってやったらどうだ?」

「……そう、ですね」


 龍誠の言葉に結衣は気分が沈んだ。

 今の言葉は予測していたし、その返答も用意してあった。しかし彼の口から直接そう言われたことに、どうしてか痛みを感じた。だってそれは、先程のゆいの発言は彼にとって違和感が無いのだと証明している。


 ……私、ゆいが怯えるくらい厳しく叱ったりしませんよ。するわけないじゃないですか。


「まあ、そんなに気にするなって」

「……べつに、何も気にしていませんが?」

「そうか」


 あっさりとした声で言って、彼は風呂場の方を一瞥した。

 その仕草に結衣は少しムッとする。


 ……私の事は眼中に無いんですかそうですか、他の人が気になりますか。


「そうだ、渡す物が残っていました」

「渡す物?」

「はい、プレゼントです」

「ありがとう。みさきに渡せばいいか?」

「いえ、貴方へのプレゼントです」

「俺に?」


 本当に意外そうな反応を見て結衣はさらにムッとする。


「友達に引越し祝いのプレゼントを渡すことがそんなにおかしいですか?」

「いや、悪い……ありがとう」


 素直な謝罪と感謝の言葉を聞いて、結衣は全身に電流が走ったように感じた。


 ……ちょっと微笑まれただけなのに。


 子供のように飛び跳ねたい衝動に駆られている。それは非常に強力なもので、少し気を緩めたら爆発してしまいそうな程だ。


「少し待っていてください」


 結衣はとても良い気分で足元の袋からプレゼントを取り出す。


「どうぞ、それなりに高級なワインです」


 ……なんですかその困ったような色。


「ワインはお嫌いですか?」

「いや、飲めなくはないんだが……みさきがいるからな。前に一度失敗してるんだ」

「最低ですね。ですが安心してください、ワインは香りを楽しむものです」

「香り?」

「はい。試してみますか?」

「そういうことなら。どうやればいいんだ?」


 会話の流れに結衣は心の中でニヤリとする。

 多少ノイズも混じったが、概ね予想通りの展開だ。


 これなら計画を執行することが出来る。

 聖典にはこう記されていた。


 どうしても相手との会話に緊張してしまうなら、お酒を使うのも良いかもしれません。


 結衣は純粋に、どうして緊張を解す為に酒を用いるのか疑問を抱いた。読み進めると、酒のせいで性格が変わるのは一般的なことで、酒のせいにしてしまえば普段は言わないようなことを言っても受け入れられるとのことだ。


 にわかには信じ難いけれど、これは使えると思った。

 客観的に見て、彼とは恋がどうこうという話をする間柄ではない。

 よって酒の力を使うのは有効な手段のひとつだろう。


 しかし問題がひとつあった。

 結衣は飲酒を悪としているのだ。


 酒は百薬の長という言葉があり、医学的にも飲まないより少しは飲んだ方が良いと言われるくらい健康に良いとされている。しかし実際には毒であり、健康に良いというのは毒を取り込んだことで耐性が出来て、酒より弱い毒に勝てるようになるだけのことだ。本当に健康を考えるならば、そもそも毒物を取り込まない方が良いに決まっている。結衣の健康は将来生まれてくる子供に大きな影響を及ぼすのだから。


 そこで結衣はワインに目を付けた。香りだけなら結衣にも許容できる。そして世の中には雰囲気だけで酔っ払う人もいるのだから、上手く演技すれば香りだけでも十分な説得力があるだろう。


「まずはグラスに少量のワインを注ぎます。こんなこともあろうかと、いろいろ用意してあるので、少し待ってください」

「分かった」


 結衣は机にグラスを並べ、道具を使ってボトルを開ける。

 そして、それぞれのグラスに少量のワインを注ぎ、片方を龍誠に差し出した。


「ありがとう」

「後はグラスを回して、鼻を近づけましょう。それを繰り返すだけです」

「そうか。なんだか本みたいな説明だな」


 ……本から得た知識ですからね。


「……うん。なんか、不思議な匂いだな」

「……そうですね」


 くるくる。すんすん。


「これは何て名前のワインなんだ?」

「シャトー・ラフィットロートシルトと呼ばれているそうです」

「なんか強そうだな」

「そうですね」


 くるくる。すんすん。

 香りについては何も言うまい。というか、これから酔ってしまったという設定で彼との距離を強引に詰めることを考えると、香りについて考える余裕なんて無い。


「うん、慣れてくるといい感じの匂いだな」

「……そう、ですね」


 ……酔ったという、えん、ぎ、を――


「これなら、みさきも喜ぶかもな。いや、ちょっとキツイか?」


 楽しそうに笑う龍誠。


「……あれ、どうかしたか?」


 何やら結衣の様子が違うことに気付いて声をかけた。

 しかし返事は無く、結衣はグラスに鼻を近付けたまま俯いている。


「大丈夫か……?」


 心配そうな声。

 結衣はグラスを机に置いて、ゆっくりと顔をあげた。

 それを見て、龍誠は一瞬で全てを察する。


「おまえ、まさか」


 頬が少し赤い。

 目はとろんとしていて、口元はムッとして一の字になっている。


 その表情は普段の結衣とは違って子供っぽいもので、龍誠は唖然とする。


「香りだけで、酔ったのか?」

「……」


 黙ったまま首を横に振った結衣。


「マジか……」


 龍誠は苦笑いと共に、また風呂場を一瞥した。

 それはゆいのことを気にしての行動だったのだが、結衣は別の解釈をした。


「そんなに、みさきちゃんのことが、気になりますかぁ?」


 うわ完全に酔ってるよ。と思う龍誠。


「いや、今はゆいちゃんについて……」

「(目を輝かせて)私ですかぁ?」

「娘の方な」


 分かりやすく不機嫌になる結衣。


「私、怒っています」

「……どうして?」


 結衣は立ち上がり、ふらふらとした足取りで龍誠に近付く。


「おい、大丈夫か?」

「なにがですかぁ?」

「何がってふらふらじゃねぇか。転ぶぞ」

「平気ですよ」


 と本人は言っているが、龍誠は不安で仕方ない。

 椅子を引いて腰を上げて、いつでも動けるよう準備する。

 果たして結衣はバランスを崩し、龍誠は彼女の肩を支えた。


「ほら、だから言っただろ」

「……」


 潤んだ瞳で龍誠を見る結衣。


「天童くん。私は、怒っています」

「そうか……悪いな」

「雑に謝っても許しません」


 まさか香りだけで酔うなんて思いもしなかった龍誠。困惑しながらも、とりあえず話を合わせる。その心理が結衣には手に取るように分かって、自然と様々な感情が生まれる。そして――今の結衣には、それを抑える理性が欠けている。


「私は、こんなにうれしくて、ドキドキしているのに、天童くんは、いつもどおり」

「そう、なのか……?」

「いつもどおり、みさきちゃん、みさきちゃん……」

「そうだな」


 確かにプレゼントまで用意してくれた相手の前でみさきのことばかり考えていたのは悪かったかもしれないと龍誠は反省する。


「……ふんだ、いまさら気付いても遅いです」


 コツンと、結衣は龍誠の胸に額を押し当てた。

 龍誠は相変わらず困ったような表情をしながらも、結衣の体重を支える。


 ……酔いが醒めたら酒は飲むなと伝えよう。


 一方で結衣は、それはそれはふわふわしていた。

 なんだかんだと否定しても、結衣の心は完全に決まっている。無理矢理にでも否定していたのは、そうしなければ気持ちが抑えられなくなってしまう予感がしたからだ。


「……ふふっ、今頃、みさきちゃんはゆいと仲良く遊んでいるでしょうね」

「ああ、そうだな」

「羨ましいですか?」

「ああ、まあ、そうだな」

「子供相手に嫉妬ですかぁ? 独占欲強すぎですよ。ちょっと気持ち悪いです」


 えいえい、と龍誠を指でつつく結衣。

 龍誠はもはや苦笑いしか出来ない。


「男の嫉妬は気持ち悪いんですよぉ。知らなかったんですかぁ?」

「そうなのか?」

「……間違えました」

「そうなのか」


 結衣は顔をあげて、


「男の嫉妬はみっともない!」

「おう、そうか……」

「そうだぁ!」


 結衣は大きな声を出すと、満足した様子で龍誠の胸に頬を擦り付ける。


「ところで、女の人が嫉妬すると、どうなると思いますかぁ?」

「さあ、どうなるんだ?」

「そうはですねぇ……」


 結衣は龍誠の肩を掴み、思い切り押す。その力は彼にとって片手で支えられる程度の物だったが、彼は素直に押されることにした。そのまま壁際まで後退して、彼は挟まれる形になった。


「おかしく、なっちゃうんですよぉ」


 ここまでされて、ようやく龍誠に別の感情が芽生えた。

 彼女は酔っ払っているのだと思って適当に相槌を打っていたが、先程から続いている支離滅裂な発言に、しかし統一性があるような気がする。それは例えば嫉妬という言葉だったり、その意味を裏付けるような妙に熱っぽい視線だったり。


 ……いやまさか、そんな。


「天童くん……」


 再び、結衣は潤んだ瞳で龍誠のことを見つめる。

 龍誠は目を逸らすことが出来ない。


 様々な予感が龍誠の頭の中でグルグルと回る。

 そんなまさか、いやでも。

 しかし結衣は待つこと無く、言葉を紡ぐ。


「……思い、出せませんか?」

「思い出す……?」


 反射的に言葉を返すと、結衣は明らかに不機嫌になった。


「酷いです。私は、こんなに……十年以上、一度だって……」


 徐々に小さくなる声。

 それが龍誠にはとても重要なことのように思えて、彼は聞き逃すまいと集中した。


「……そんな、天童くん、には……うみゃい棒、あげない……から」

「うみゃい棒って……おまっ、まさか」


 その瞬間、結衣の身体から力が抜ける。

 龍誠は混乱しながらも彼女の身体を支えて、そのまま床にへたり込んだ。


「……眠ったのか」


 龍誠は穏やかな寝息を聞きながら、何とか頭の中を整理しようと試みる。

 いや、整理するも何も答えはひとつしかない。


「……そうか、そうだったのか」


 その衝撃はあまりにも大きくて、龍誠は暫くその場から動くことが出来なかった。

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