第140話 またお祝いされた日(中)
結衣が言ったのは紛れもない事実だ。しかしそれは安易に人に話すような内容ではなくて、もちろん当事者である結衣はそれを理解している。そのうえで先程の言葉を選んだ理由は、きっと言うまでもない。
「もう、まさか話していないとは思いませんでしたよ。天童
四人用の机を囲んだ五人。
子供用の椅子にはゆいが座り、みさきは龍誠の上に座っている。
机の上には結衣が持ってきた牛丼が並んでいた。大好物を前にしたみさきは大喜びで箸を動かし、スプーンを持ったゆいもみさきに対抗するかのようにムシャムシャ食べている。
「ゆい、もう少しゆっくり食べましょう」
「はい!」
ゆいの口元にあるご飯粒をティッシュで拭き取る結衣。
その様子を檀と龍誠はそれぞれの理由で唖然としながら見ていた。
……なんか、あったのか?
と思う龍誠。
見たところ機嫌は良さそうだ。表情や話し方はいつも通り……というよりも、普段より少し柔らかいような気がする。当然、常に刺々しい態度だった相手が急に丸くなっているから違和感を覚えるのだが――
……そうか、小日向さんがいるからか。
と結論付けた。
龍誠の知る限り結衣は心優しい人間だ。龍誠に対して当たりが強いのは恐らく人形劇の際にあったことが原因で、言わば例外なのだろう。
実際、人形劇の時には社交的な姿を見ている。それなのに龍誠にだけ当たりが強いのは、きっと良く思われていないからだ。それでもこうして付き合いがあるのは、単にみさきとゆいが友達だからだろう。
小さな溜息ひとつ。
龍誠は口を開く。
「まあ、小日向さんになら隠す必要も無いとは思っていたが、なんか、機会が無くてな」
「機会、ですか。不思議ですね。一緒に住んでいるのに」
笑顔のまま言って、檀に目を向ける結衣。
「もしかして、あまり会話をしないのですか?」
「……ど、どうなんでしょ。ふひひ、よく分かんないです」
すっかり萎縮している檀。
みさきの母というのは、余りにも衝撃が大きかった。
檀はもうすっかり混乱している。だって意味が分からない。普通に考えたら一度離婚しているということだ。子供を一人ずつ引き取ったというのも理解出来るし、子供どうしが仲良しなのも違和感は無い。夫婦仲が壊れた後でも子供を気に掛けるというのも良くある話だ。しかし、ドアの前で向けられた視線からは明確な敵意が感じられた。
敵意なんて表現は大袈裟かもしれないけれど、少なくとも友好的な印象ではなかった。その理由を考えた時、思い当たることはひとつしかない。
……ま、まさか。よりを戻そうとしているのでせう?
そう考えれば全てに辻褄が合う。自意識過剰ということであれば最高なのだが、こういう予感は高確率で的中する。
結衣ほどの能力を持っている者は稀有だとしても、殺伐とした女子社会を生きていると敵意やそれに近い感覚には自然と敏感になる。
「小日向さん、でしたか? ……何か?」
「いえっ。こ、これ美味しいですね。ふひひ」
見事な震え声を披露する檀。
「ええ、それなりに良い肉を使いました」
檀を一目見た時からずっと笑顔を崩さない結衣。
そんな二人を見て龍誠は「仲が良さそうで何よりだ」と思うのだった。
実に呑気な龍誠だが、膝に乗っているみさきが牛丼を食べる度に「見てりょーくん! これ美味しい! 美味しいよ!」と言わんばかりの目線を送ってくるのが原因かもしれない。龍誠は今、幸せだった。
「あれ、良い肉って……これお前が作ったのか?」
「はい。如何ですか?」
来たっ、とばかりに頷く結衣。その仕草は檀からすれば逆に罠かもしれないと思うくらいに分かりやすいのだが、しかし龍誠には気付けない。
彼はハムスターのように口を動かすみさきを見て、にへらぁと笑う。
「大満足だ。ありがとう」
「そうですか」
でも貴方食べてないじゃないですか。と結衣は思う。
「どうぞ温かい間に召し上がってくださいね。そちらの、小日向さんも」
「は、はいっ。遠慮なくっ!」
慌てて箸を掴もうとしてお手玉した檀。
なんとか手に収まった箸を牛丼に突っ込み、勢い良く口に入れる。
「あっ、あふっ」
「落ち着いて小日向さん。大丈夫か」
「す、すみませ……」
涙目になって口元を手で抑える檀。
龍誠は悪いと思いながらも失笑する。
「ふふっ、慌てないでください」
結衣もまた、柔らかい笑みを浮かべた。
……なんなんですかこの状況〜っ!!
という檀の心の叫びは誰にも届かない。
「それじゃ、そろそろ俺も食べるか。みさき、ちょっとごめんな」
「……んっ」
鼻息荒く頷いたみさき。
小さな体をさらに小さくして、龍誠の為のスペースを作る。
そして箸を手に取る龍誠。その様子を結衣は緊張した面持ちで見つめていた。龍誠の隣に座る檀も、目だけを横に向けて反応を
「……うん。うまい」
龍誠が呟くと、真っ先にみさきが顔をあげて「でっしょ〜」と目で言った。龍誠も目で「そうだな」と返事をして、みさきの額を指先でトントンする。
その様子を見て結衣は机の下でグっと拳を握りしめた。
「そうですか。小日向さんはどうですか?」
「へっ、あぁ、美味しいです。ふひひ」
「そうですか」
曰く、まずは胃袋を掴め。
結衣は聖典を思い出しながら「ふふっ、順調ですね」と心の中で呟く。彼女は毎日のように料理を作っているが、自分を除けば娘達にしか食べさせたことがない。ゆいはいつも美味しいと言ってくれるけれど、やはり子供と大人では味覚が違う。だから龍誠が実際に食べて感想を言うまではそれなりの不安があった。
……順調。ここまでは順調です。
結衣は気持ち的に呼吸を整える。これはマラソンだ。そして結衣は残念ながらライバルに対して致命的な遅れを取っている。ここから追い付くためには強引な手を使うしかない。つまりハイリスクハイリターン。一手のミスが命取りとなる。もっとも龍誠の反応を見ているとリターンは少ないように思えるが……とにかく集中しなければならない。
「ゆっくり食べてくださいね」
努めて平静を装いながら言った。
目の前に、天童くんがいる。
会えるわけがないと思っていた。だから二人の姿が重なって見える度に首を振って否定した。見た目も話し方も違うし、絶対に別人物だと決めつけていた。だけど完全に否定することは出来なかった。それ程までに二人の色は似ていた。だから彼と知り合ってから一年以上の間、ずっと何かスッキリしない気持ちを感じていた。
そして一ヶ月前。
ファミレスで彼が友人らしき女性と話している姿を見て、その会話を聞いてしまった。
同じ学校で、同じ学年で、同じ名前。
もう否定することの方が難しい。
最初は混乱した。
そのあと一気に記憶が浮かび上がった。
徐々に薄れている過去の記憶と、鮮明に刻まれていく今の記憶。それぞれの記憶には一人の男性がいて、意識する度に二人の姿が重なっていった。それを止める手段など持ち合わせていなくて、やがて胸の奥に抑えこまれていた何かが叫び声をあげた。
天童くんのことが好きだ。
十年前からずっと好きだった。
もう会えないと諦めていた。
二度と恋をすることは無いと思っていた。
だけど気になる人が出来た。
何度も否定したけれど消えてくれなかった。
そして知った。
同じ人に、二度も恋をしていた。
気持ちを抑えることなんて、出来るわけがない。
「……それにしても、思ったより良い部屋ですね」
だけど今は理性で抑えこんで、あくまでも平静を装う。
「あのテレビも初めから置いてあったのですか?」
「ああ、なんかスゲェよな」
「ふふっ、そうですね」
特に意味の無い会話。
それだけで結衣の心臓が激しく胸を打ち鳴らす。
そしてその緊張感は、檀に伝わっていた。
……やっぱり、この人。
絶対によりを戻そうと考えている。
しかし、ひとつだけ気になることがある。
それは結衣ではなく、龍誠についてだ。
結衣が元カノどころか元嫁だと仮定すると、少しおかしい。その仮定が成り立つならば龍誠は少なくとも一回は結婚生活を経験していて、しかも二人の子供を作っている。
檀は同棲を申し込まれた時、それはそれは気持ちが盛り上がった。昨日も一昨日も、いつ夜這いに来るのかなと緊張して眠れなかったくらいだ。しかし現実には夜這いどころか下ネタのひとつも無い。
龍誠の年齢を考えよう。
クリスマスの日に会話の流れで聞いてみたら、25歳になったそうだ。
25歳で、子供が二人いる。
そんな間違いなく肉食系な男性が、同棲している相手に下ネタのひとつも振らないというのはエロ同人的にも現実的にも有り得ないと思う。
なら二人の関係は何なのか。
檀は妄想力を極限まで高める。
……そういえば、みさきちゃんがいない時期があったような……。
檀の脳裏に、特別養子縁組という単語が浮かび上がる。思えば、みさきちゃんとの関係をはっきり聞いたことは無かった。つまりは複雑な事情があるのではないだろうか。すると、みさきちゃんには本当の親がいないということも考えられる。
何らかの理由で天童さんが育てることになり、やがて戸籍という壁にぶつかる。そこで養子縁組を考えるが、あのアパートで生活していては審査が通らない。だから彼女に頼んだと考えれば辻褄が……
ないない! 流石にこれは妄想です!
逆にそうだとしたら二人の関係が余計に謎じゃないですか!! 戸籍だけでいいから母親になってくれなんて、漫画でも有り得ませんよ!!
「小日向さん? さっきからどうしたんだ?」
「へっ? あっ、いえっ、なんでもありますん!」
どっちですか、と結衣は思う。
と、その時
「わぁっ! あぁ……」
ゆいが牛丼をこぼした。
「うぉっ、大丈夫か!?」
龍誠に続いて、他の三人も各々声をかける。
「火傷はありませんか? まったく、ゆっくり食べなさいと言ったじゃないですか」
「……ごめんなさい」
隣に座っていた結衣が服に付いた牛丼を拭き取ろうとハンカチを取り出したけど、どう考えてもハンカチでは足りない。
「あっ、あへっ、あのっ、ティッシュ持ってきます!」
「お願いします」
しゅんとするゆいの周りで女性達が迅速に動く。その様子を見ながら、龍誠はあたふたしていた。だって立ち上がりたいけど今は膝にみさきがいる。
「みさき、ちょっと降りてくれるか?」
「……ん」
空気の読めるみさき。
龍誠が椅子を引くと、ぴょんと降りてゆいの所まで歩いた。
「……ん」
ドンマイ。そんな目でゆいを見るみさき。
「ティッシュ持ってきました!」
そこへ檀が現れ、ゆいの浄化作業に加わる。
龍誠も手伝おうとするが、左右を結衣と檀に塞がれていて手が出せない。
「使ったティッシュ捨てるよ。渡してくれ」
「はひっ、ありがとございます!」
そんなこんなで浄化作業が終わり、
「……」
色の変わった服と目の色を失ったゆいが残った。
「お、お風呂使います?」
檀が提案すると、結衣が頷く。
「すみません、お借りしてもいいですか?」
「はいっ、もちろんです。えと、着替えはどうしましょう……」
「みさきの服ならギリギリ着られると思います。貸して頂けますか?」
「はいっ、もちろん。あ、お風呂はあっちです」
大人同士で話し合いが終わり、
「ゆい、行きますよ」
結衣がゆいの手を引くと、ゆいは反対の手で檀の服を掴んだ。
「ゆい……?」
「……まゆちゃんと入る」
まゆちゃんて仲良いなと呑気な感想を浮かべる龍誠。一方で結衣は困ったような目をする。
「……ママ、おこる」
何気無い一言に場の空気が微妙なことになる。
いっそ困った表情をした結衣は、絵に描いたような苦笑いを見せた。
「……あの、それじゃ私、いいですよ?」
「……すみません」
今の結衣に檀の助け舟を断る理由は無い。
「……みさきも」
「……ん?」
みさきも一緒に入ることが決まった。
何とも重苦しい空気の中、三人が風呂場へ向かう。
そしてゆいが結衣の横を通り過ぎる瞬間。
ゆいは、結衣にだけ見える位置で一瞬だけ親指を立てた。
それを確認した結衣もこっそり親指を立てる。
……計画通りです。
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