第139話 またお祝いされた日(前)


「おはようございます。偶然ですね」

「おはよう。ほんと最近よく会うな」

「不思議ですね。ところで、寿司と牛丼はどちらが好きですか?」

「何故その二つ」

「(にっこり笑って)どちらが好きですか?」

「(苦笑いして)牛丼、かな」

「分かりました。では今晩伺うので、そのつもりで」

「伺うって、どこに?」

「あなたの部屋です」

「なんで」

「引っ越し祝いです」

「(いくらか動揺して)……そうか」

「ゆいも楽しみにしています」

「(少し頬を緩めて)……そうか」

「では、後ほど」



 *



 天童龍誠には、人に好かれているかどうか判断する能力が無い。みさき相手にすら、あのクリスマスの日まで自分が好かれているか否か確信出来なかった。


 理由は様々あれど、最も大きいのは経験が足りないことだろう。


 幸いにも人と話す機会は多くあったからコミュニケーションには苦労していない。人と上手く付き合う能力はあるけれど、人と深く付き合う能力が欠如しているのだ。


 コミュニケーション能力に難がある健常者の多くは、相手が自分のことをどう思っているか考え、恐怖してしまっている。かろうじて人と付き合える人でも、相手が自分のことをどう思っているか意識して見栄を張り、嘘を吐く。


 案外、コミュニケーションが上手い人ほど他人に興味が無い。相手にどう思われようと気にならないし、相手のことは喋る機械くらいにしか思っていないから、臆せず話すことが出来る。


 そして、人は自分を基準に物事を考える生き物である。


 常に見栄を張り嘘を吐いている人は、相手も嘘を吐いていると考える。

 常に何も考えていない人は、相手も何も考えていないと考える。


 このように、多くの人は成人するまでに何らかの基準を持つようになる。

 しかし人は経験によって例外を作る。


 他人の言葉なんて信じていないけれど、あなたのことだけは信じている。

 他人に興味が無いけれど、君にだけは良く見られたい。

 ほとんどの人はこうだけれど、こうじゃない人もいる。


 龍誠にとって初めて例外と呼べる存在は、みさきだった。

 このことから分かる通り、いきなりプロポーズされてしまった龍誠の心境は――



 ……マジかよ。



 嬉しいとか何とか、そういう感情の前に理解が及ばなかった。

 彼には物事を考える能力はあるけれど、それを年齢相応と呼ぶのは難しくて、せいぜい中学生レベルでしかない。これが仮に中学生だったならば「大人になったら結婚しようね」という高確率で守られない口約束をする程度で終わるのだろうが、彼は大人になってしまっているのだ。


 果たして、ずっと上の空だった。


 あのあと龍誠は「直ぐには答えられない」という政治家のような返事をした。しかし朱音は引き下がらず「じゃあ次の休日どこかに行こう」と言った。龍誠は彼女に気圧されながら「……分かった」と頷き、重大な意味を持った口約束が交わされた。


 こうして彼には一週間近い猶予が与えられた。この間に気持ちを整理して、次に朱音と会う時はハッキリとした態度で……どうするのだろう。そもそもハッキリとした態度ってどんな態度なのだろう。


 確かに最近の彼は結婚について考えていた。しかしそれは気になった言葉の意味を調べるようなもので、誰かと結婚したいとかそういうわけではない。あくまで、それがどういうものなのかということを考えていた。その根っこは「みさきの為」であり、みさきの幸せを追求した過程で生じた疑問なのである。


 そこへ先日のプロポーズ。

 もう、ほんと、マジかよ……という心境である。


 もちろん朱音の事は嫌いではない。むしろ大好きだ。だけど、それはきっと結婚したいという意味の好きとは違う。


 ならば朱音と結婚するのは嫌なのかと問われれば、そんな気はしない。彼女のことはよく知っているし、きっと上手くやっていけるだろうと思える。


 逆に、こんな風に考えてしまうことが答えとなっているような気がした。悩みながら結婚したところで、きっと上手く行かない。それは自分が後悔するだけではなくて、自分以上に相手を傷付ける結果へ繋がる。


 そんな風に思いつつ、あの夜に見た朱音の顔を何度も思い出してしまっている。


 ……なんつうか……ドキドキしたな。


 彼の素直な感想だ。

 これまで自分のことを好きだと言ってくれたのはみさきだけだった。しかし、みさきが言う好きと朱音が言った好きでは意味合いが全く違う。それはもう、ドキドキした。


 ……もしかして、俺も朱音のこと好きなんじゃね?


 これを吊り橋効果と呼ぶ。


 ……いやいや、こんな軽い気持ちで結婚とか考えちゃダメだろ。


 と、こんな感じのことをグルグルと考え続けている龍誠は、それはそれは上の空だった。

 みさきが傍に居る時や誰かと話している時には別のことを考えようと努めていたけれど、ふとした言葉や出来事で朱音のことを連想して、ぼんやりとした気持ちになるということを繰り返していた。


 そして、二日後の夜。


「おじゃましまーす!!」

「ゆい、少し声が大きいですよ」


 みさきの友達と、その保護者が引っ越し祝いに訪れた。


 引っ越し祝い。

 それは嫌でも朱音のことを連想させるが、せっかく祝いに来てくれた人の前で上の空ではいられない。


「よっ、相変わらず元気だな」


 ドアを開けて二人を部屋に迎え入れた龍誠。


「フシャアアァァ――!」

「うおっ、なんだ!?」


 ゆいは目が合うと同時に猫のように鳴き、驚いて一歩下がった龍誠の隣をダダダっと駆け抜けた。

 龍誠は唖然としてゆいを見送った後、結衣に目を向けた。


「……どうした、何かあったのか」

「もう忘れましたか? あの子はテンションが上がるとああなります」


 大丈夫かそれ、と思う龍誠。


「ふふっ、とてもかわいらしいでしょう?」

「……ああ、そうだな」

「気持ちがこもっていませんやりなおし」


 いつも通りのやりとりに龍誠は脱力する。

 状況は朱音の時と同じだけれど、これは全くの別物だと確信したのだ。

 

「なにニヤニヤしているのですか」

「いや、悪い。なんでもない」


 くすくす笑う龍誠を睨む結衣。龍誠が思った通り、彼女がここに来た理由は朱音とは違う。部屋に入った瞬間に彼女達が抱いていた緊張感は、きっと比較にならない。


 結衣は背中に回した手で、持ってきた荷物を強く握る。


「……あの」


 結衣が何かを言いかけて――そのとき、朝から部屋にこもって漫画を描いていた檀が、軽く肩を回しながら出てきた。


「へ? ……あっ、どうも」


 結衣の姿に気が付いた檀はビクリとしてから会釈した。


「こんばんは、おじゃましています」


 会釈を返す結衣。

 礼儀正しい所作を見て、しかし檀は威圧感のような感覚を得た。


「ええと、その……お久しぶりです」

「はい。みさきの誕生日以来ですね」


 みさきという呼び方に、龍誠はちょっとした違和感を覚えた。彼女はみさきちゃんという呼び方をしていたはずだ。


 一方で檀も、その呼び方が持つ距離感に引っかかる。

 単純に、この女性はみさきちゃんと……天童さんとどういう関係なのだろうか。


 檀が結衣と会ったのは、みさきの誕生日で彼女の部屋へ訪れた一回だけだ。ゆいの方とはクリスマス前に何度か会っているが、保護者として彼女が同伴していたことは一度も無い。


「どうかしましたか?」


 檀の視線に気が付いて微笑みかける結衣。


「い、いえ、その……」


 檀は分かりやすく動揺した。

 単純に、美人に微笑まれて萎縮してしまったのだ。結衣は同性である檀がドキリとするくらいには容姿が良い。すると檀はますます彼女と龍誠の関係が気になってくる。


「と、とりあえず。こんな狭いところで立ち話もなんですし、とりあえず奥へ入って、どうぞ。ふへへ」

「はい、遠慮なく」


 空気を読んで龍誠が道を開けると、結衣は靴を脱いで部屋に上がった。

 そのまま三歩だけ歩いたところで、足を止める。


「そういえば、自己紹介がまだでしたね」


 檀は再びビクリとした。それは聞きたくて仕方の無かったことだけれど、同時に聞くにはまだ心の準備が出来ていないことでもある。


「天童くん・・から既に聞いているかもしれませんが、あらためて」


 檀の緊張や不安が結衣には手に取るように分かる。

 そのうえで、彼女は言う。


「戸崎結衣と申します。みさきの母です」

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