第120話 みさきと手を繋いだ日
みさきと出会ってから朱音と再会するまでに様々なことがあった。
何かの節目を迎える度に、こんなにも忙しない日々と出会うことは二度と無いだろうと考えるのだが、この予想が的中したことは無い。
実際、あれからも目が回るような日々が続いていた。それは主に仕事に関することで、初めての仕事を成功させられたことによって、俺には次の仕事も与えられた。もちろん簡単な仕事ではなく、頭が痛くなるほど試行錯誤の繰り返しだった。
そんな日々の合間にみさきから癒やしを与えてもらって、気が付けば十二月。いろいろあったが、今年もなんとか無事に終えることが出来そうだ。
クリスマス。
今年は朝から雪が降っていて、きっと夜には辺り一面が真っ白になっているのだろうと予感させた。
今日は会社で打ち上げがある。内容としては忘年会的な行事なのだが、とある社員の「クリスマス予定あるから」という見栄の為に開催されることになった。
「えー、二十代も後半戦に突入しました。四捨五入したら僕達は三十路です。会社は順調、資産的には人生の勝ち組! だったら他の事は忘れよう! クリスマス? いやいや僕達クリスチャンじゃないから! 関係無いから! はいっ、打ち上げ開始!」
という優斗の投げやりな口上と共に、男四人による賑やかなクリスマスパーティのようなものが始まった。
流石に和崎家で開催するということはなく、少し遠出して店に入った。
焼き肉がメインで食べ放題の飲み放題。料金は二時間で四千円。全席禁煙である。
店内は非常に広く、三十人くらいの団体でも横一列に並べるような机が二十は置いてある。
天井も高くて、俺がジャンプしても届きそうに無い。しかし絵面としては地味で、電気の他には換気口のような物が点々として存在するだけだった。
俺達は優斗が予約したすみっこの席に座り、せっせと肉を焼いていた。
「彼女とか二次元で作る時代ですしー!」
パクリと肉を口に放り込む優斗。
「今は仮想現実が主流というか、三次元の女とか既に時代遅れですしー!」
パクリと別の肉を口に放り込む優斗。
「そもそも十歳以上に興味ねぇし! 街で手を繋いでるカップル見ても全ッ然悔しく無いもんね!!」
パクリと――
やれやれ、こういうのは彩斗だけだと思っていたが、どうやらロリコンも人並みに気にしていたようだ。
さておき、二十代後半か。
そういえば俺も恋愛というか、そういう事とは無縁だったな。いや別に、みさきがいるし? 娘がいるし? 全然どうでもいいし?
「チクショウ炭酸だ! 炭酸持ってこい!」
『あれ、お酒は飲まないの?』
血の涙を流しながら黙々と肉を食う彩斗の隣で、ゆったりと食事をしている拓斗が俺の方を見ていた。相変わらずこいつの本当の声は聞いたことが無いが、外に出ても、このキャピキャピした合成音声は健在だ。
「飲めないことは無いが、みさきと約束してるんだ。お前らは自由に飲んでくれ」
「「しゃあ!! ジョッキ持ってこい!!」」
拓斗の代わりに返事をしたのはバカ二人だった。
そんなこんなで食事が終わると、すっかり出来上がった二人に俺と拓斗がそれぞれ絡まれるという状況になっていた。
「うぅぅ……出会いが、出会いが欲しいぃぃぃ!」
『そうだね。素敵な出会いがあるといいね』
拓斗も何杯か酒を飲んでいたが、どうやら耐性があるらしい。彩斗に絡まれている姿を見て、この場合は耐性が無い方が幸せだったのだろうかと思いつつ、俺はひたすら喋り続けるロリコンに適度な相槌を打つ。
「分かるか天童龍誠、つまりは僕が正しいってことなんだよ」
「あー、そうだな」
「雑な返事だな天童龍誠。いいか良く聞けよ、この業界ではそういう細かい部分を疎かにする奴は破滅するんだ。小さなエラーを見逃し続けて、最終的に大きなエラーを引き起こすことになるんだよ分かったか!」
「おー、そうだな」
「ちゃんと聞けぇ!!」
叫んで机をペシペシ叩くロリコン。
やれやれ、酒を飲んでも飲まなくても鬱陶しいことは変わらないが、次の機会があったら止める事にしよう。
「よし分かった。次は天童龍誠が何か話してみろ」
「話か……」
「みさきちゃん関連の話は禁止だからな」
「なんだよ何も残らねぇじゃねぇかよ」
「頭ン中どんだけみさきちゃん三昧なんだよ! なんか他にも一個くらいあんだろ!?」
そんなこと言われても、実際みさき以外に話のネタなんて……あれ、俺ってみさきの話をしてない時って何を話してたっけ……?
「まだかー?」
どんだけせっかちなんだよこいつ、まだ十秒も経ってねぇだろ。
「マジで何も思いつかん。逆に何を喋ればいいんだ、こういう時って」
「はーはーやれやれこれだからコミュ障は。いいか天童龍誠、会話の基本は質問か自分語りだ。とにかく相手の情報を聞き出すことで共通の話題を見つけるか、ひたすら自分が話し続けることで気まずい空気を脱するんだよ」
なるほど、それでこいつは常に喋り続けてるのか。
俺の場合は黙ってた方が気楽なんだが……さておき、質問か。
「あっ、そういや、お前って何で俺のこと覚えてたんだ? 話したことあったか?」
今更だが、彼が俺のことをフルネームで覚えていた理由を聞いたことは無かった。同じ中学だったらしいけれど、話したことすら無いと思うのだが……。
「……はぁ、いいか天童龍誠。得てして人は自分がやったことは忘れるものだが、やられた方はずっと覚えてるものなんだよ。特に僕みたいなオタクは根に持つタイプなんだ覚えとけ」
ピシっと指を突きつけるロリコン。
マジか、そういうことだったのか。あれ、俺こいつに何したんだ……?
「マジで心当たりが無いけど悪かった、謝るよ」
「謝る気無いだろその言い方……そして、話は最後まで聞けよ天童龍誠」
「最後まで?」
「そうだ、僕は謝ってほしいなんて一言も言ってないぞ。むしろ……感謝してる」
感謝? そう思って目で続きを促すと、ロリコンは心底気だるそうな表情を見せた。
「もう十年も前の話か。あの頃はオタクの肩身が狭くて、でも僕はミミたんと一秒でも離れたくなかったから、学校まで連れて行ったんだよ」
ミミたんって何だ、フィギュアとかか?
「それが失敗だった……ミミたんは、あっという間にクズ共に見つかって誘拐されてしまったんだ。くぅ、思い出しただけで泣けてくる……」
誘拐って、盗られたってことだよな?
さておきマジで記憶に無い。俺に関係あるのか、このエピソード。
「でだ、ミミたんを取り返してくれたのが、お前だったんだよ」
「……俺が?」
「そうだ。あの時、お前はゲラゲラ騒いでたクズ共をワンパンで黙らせて、何も言わずに去っていった。僕はミミたんと感動の再会をすると同時に、この恩は一生忘れないと誓ったのさ」
再び、彼は俺に人差し指を向ける。
「いいか天童龍誠。これは僕の恩返しだ。だから給料を貰う度に複雑な表情をするのはもう止めろ」
そこで言葉を止めて、彼はコップを手にとって水を口に含んだ。
俺は……
「悪い、そろそろ帰る」
「なんだよ、みさきちゃんか?」
「ああ、あまり遅くなるとアレだからな」
「そうかよ。せいぜいイチャイチャしてこい……ヂグジョウ! グリズマズを幼女ど一緒に過ごじだいぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃ!!」
危険な言葉を大声で叫んだロリコンに苦笑いして、俺は席を立った。それから拓斗と彩斗にも挨拶をして、真っ直ぐ店の外へ出た。会計は先払いだから、もう済ませてある。
外に出て、ぽつりぽつりと降り続ける雪の中に入った。地面にはスッカリ雪が積もっていて、一歩進む度に独特な音が鳴る。その音は少しずつ早くなって、やがて止まった。
空を仰いで、軽く息を吐いた。
すると目の前に白い靄がかかって、不意に右目の近くに冷たい感触を覚えた。きっと雪が顔に当たったのだろう。それは体温で直ぐに溶けて、そのまま涙の様に頬を伝った。
おかしいと思った。
何か積み重ねがあったわけではない。ただ唐突に、ひとつの情報を与えられただけだ。それなのに、こんなにも心が揺さぶられている。
「……ほんと、なんだこれ。涙って、こんな簡単に出るものだったか?」
呟いて、目を腕で隠した。
純粋に嬉しかったんだ。何の意味も無いと思っていた時間が、忘れたいと思っていた過去が、しかし無駄なことばかりではなかったのだと分かった。意味が有ったのだと分かった。決して誇れるような時間ではなかったけれど、それでも、あの時間があったから今があるのだと実感した。
「……と、やべぇ、雪まみれになっちまう」
目元を強引に擦って、再び歩き始めた。
早く帰ろう。みさきが待ってる。
部屋の前に着いて、俺はいきなり驚いた。
なぜか小日向さんとみさきが部屋の前に座っていたのだ。
「……何してるんだ?」
近付いて問いかけると、みさきは俊敏な動きで立ち上がって俺の服を引っ張った。
「みさき? おいおい、どうした」
そのまま部屋の中に連れられて、布団の上に座らされた。暗くてシルエットしか見えないけれど、みさきは何やら忙しそうに動いている。やがてカチっという音と共にスタンドランプが光って、みさきの顔が映しだされた。その顔は、外に居たからか少し赤くなっていた。
「きいて」
言って、みさきは目線を下に向けた。それを追いかけて、最近はあまり弾いている姿を見なかった電子ピアノを発見する。もう一度みさきの方を見ると、なんだか緊張した様子で俺を見上げていた。
なるほど、そう思いながら頷くと、みさきは大きく息を吸った。
果たして、演奏が始まる。それは俺が直前に想像した可愛らしい演奏とは違い、まるでプロのピアニストが奏でているかのようだった。その旋律に一瞬で飲み込まれて、息をすることすら忘れてしまう。
やがて音が止まると、時も一緒に止まってしまったかのような静寂が訪れた。
それを打ち破るかのようにしてみさきが息を吸う。
その瞬間、みさきと目が合った。
みさきはにっこりと笑ったような気がした。
その口がゆっくりと開かれるのが、まるでコマ送りにされた映像のように見えた。そして開かれる口とは逆に、俺は唇を噛んで息を止めた。きっとみさきは何か言おうとしている。それが何かは全く想像出来ないが、それを聞いた時、俺はきっと平然としていることは出来ないだろうという確信に近い予感があった。
何倍にも引き伸ばされた一瞬が終わり、みさきの声が俺の耳に届く。
「りょーくん いつも ありがとう
りょーくん きょうは おめでとう」
それは言葉ではなく、歌だった。
「りょーくん いつも ありがとう
りょーくん いちばん だいすき」
先程までの激しい旋律とは打って変わって、軽快な音が部屋の中を飛び回る。
いつもの俺なら手拍子でも始めてしまいそうなくらい明るい曲なのに、今日の俺はどうしてか指先ひとつ動かすことが出来なかった。
「りょーくんがちかくで みさきのことみてる
みさきはそれだけで とってもうれしくなるよ
りょーくんはやさしくて いつもかっこいい
みさきはありがとう いつもおもってる」
みさきが小さな手を一生懸命に動かしながら、歌を歌っている。きっとみさきが自分で作った歌を一生懸命に歌っている。
「ごはんをたべる いつもいっしょに
うんどうもするよ いつもいっしょに
みさきはいつも がんばるよだって
りょーくんがわらってくれるから
あとなでなでしてほしいから」
すぅーと、みさきは大きく息を吸った。
「りょーくん いつも ありがとう
りょーくん きょうは おめでとう
こんな ことは いえないよ
だから うたを うたったよ
りょーくん ずっと ありがとう
りょーくん いちばん だいすき!」
歌が終わり、そのあと短い演奏を終えたみさきはゆっくりと立ち上がった。それから、俺の直ぐ近くまで歩いて、ピタリと止まった。俺は座ったままだけれど、みさきが年齢以上に低身長だからか、ちょうど目と目の高さが同じところにあった。
「たんじょうび、おめでと」
そしてみさきは、はきはきとした声で言った。
やはりさっきの演奏は俺の誕生日を祝う為のものだったのだろう。
みさきが俺の為に何かをしてくれた。
そう思っただけで涙が出そうになった。
「……だいすきっ」
それを堪えようと強張った表情の上に、そっと柔らかい何かが触れた。
「ありがと」
それについて考えるよりも早く、みさきが俺の胸に飛び込んできた。俺は嬉しくて、嬉しすぎて、頭が追いつかなかった。
今、何が起きた? 簡単だ、みさきが誕生日を祝ってくれた。俺の為に歌まで用意してくれた。その音、歌声、たった一度聞いただけなのに全部覚えている。頼まれたって忘れてやるものか。
あの歌には、みさきの素直な気持ちが詰め込まれていた。歌声には、言葉よりもずっと強い想いがあった。それがちっぽけな俺の中で幸せな音を鳴らしながら暴れまわっている。
みさきは言葉数が少ないタイプで、あまり自分の気持ちを口にすることは無かった。せいぜい、ご飯が食べたいとかそれくらいだ。だから、みさきが俺の事をどう思っているのか、正直なところ分からなかった。
みさきの気持ちが盛り上がってる時は、俺のことを好きだと言ってくれた。だから嫌われているとは思っていない。それでも、普通にしている時に何か言ってくれることは無かった。だから少しだけ不安でもあった。
それが全て杞憂だったのだと、みさきの歌が教えてくれた。
……無理だ、こんなの。
「……ごめん、みさき」
我慢なんて、出来るわけないだろ。
「りょーくん、泣き虫になっちゃったよ」
それからみさきと話をした。
短い言葉を交わして、約束をした。
そのあと、みさきは手提げバッグを持ち上げてドアの前まで走った。
「おふろ」
「……おう、そうだな」
その切り替えの早さに苦笑いしつつ、俺も立ち上がった。
みさきに続いてドアの外に出ると、そこには相変わらず真っ白な景色があって、それから何故か小さくなっている小日向さんが居た。
「……なにしてるんだ?」
「アヘッ、い、いえ、その、いい曲でした! はい!」
声をかけると、飛び立つハトみたいな反応で立ち上がった。
「そうか、聞こえてたか」
「はい、聞いちゃいました……」
どこかバツが悪そうな表情で指遊びをする小日向さん。俺は言葉を探して、ふとみさきの方に目をやる。
ちょうど手袋を装備しようとしていたみさきは俺の視線に気がつくと、きょとんとした表情をした。
「みさき、最高だった。ありがとな」
みさきの頭に手を乗せて、くしゃくしゃと撫でる。
「……ひひ」
みさきは嬉しそうな表情をして、小さな声で笑った。これからは何かある度にみさきの頭を撫でてやろうと思う。だって、みさきはこれが嬉しいと歌っていたのだから。
「さて、見ての通り大雪だが……みさき、肩車とかした方がいいか?」
問いかけると、みさきは「んー」と声を出して、やがて首を振った。
「そうか。まぁ、無理だったら直ぐに言えよ」
「……」
返事は無い。
その代わりに、みさきは俺の手を掴んだ。
「みさき?」
何がしたいのだろうと思って問いかけるけれど、やはり返事が無い。なんだろうと考えていると、小日向さんがくすくす笑う声が聞こえて、俺は不思議に思って目を向けた。
「みさきちゃん、手を繋ぎたいみたいですよ」
「手を……みさき、そうなのか?」
こくり。
「そうか」
考えてみれば、今まで手を繋いでいない方がおかしかったんだ。みさきの場合は勝手に何処かへ行ってしまう心配が無いというのもあるが、普通は小さい子供と親って手を繋いで歩くよな。
「よし、じゃあ今日は手を繋いで歩こう」
「んっ」
みさきは嬉しそうに頷いて、もう片方の手をあげた。
その手を小日向さんがつかむ。
そして俺達は、三人で銭湯に向かって歩き始めた。
雪はまだ降り続いていて、さっき俺が帰って来た時の足跡も少し小さくなっていた。なんとなくその上を歩きながら、雪道に苦戦するみさきの手を引く。
みさきは片方だけ手袋をしているけれど、俺と繋いでいる手には手袋をしていなかった。きっとタイミング的に着けられなかったのだろう。
だけどみさきは何も言わないし、俺もあえて指摘しなかった。だって、こっちの方があたたかいに決まっている。
みさきの手は小さくて、俺の指を一本つかむので精一杯だ。
俺は人差し指をギュッと握る手にそっと親指を添えている。
「それ、頑張れみさき」
「……んっ」
真っ白な雪道を、みさきと一緒に一歩ずつ進んでいく。その隣で、小日向さんも楽しそうにみさきを応援していた。
顔を上げると、街灯に照らされた雪がキラキラと光って見えた。それは真っ白な地面にふわりと着地して、俺達を待ち構える。
「みさき、まだ行けるか?」
「……いける」
いつものように頷いて、みさきはまた一歩進んだ。
その後ろに、小さな足跡が残る。
その隣には、少し大きな足跡が残っている。
この調子では、銭湯に着くまでにかなり時間がかかるだろう。だけど俺はそれでもいいと思った。
だって、
「いいぞみさき、よし次だ!」
「……ん!」
みさきと一歩ずつ進むのは、こんなにも楽しいのだから。
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