第55話 SS:ゆいと結衣と夏祭り
戸崎結衣のスケジュール帳に空白は無い。
社会人であればスケジュール帳を作るのは珍しく無いだろうが、一口にスケジュール帳といっても様々な形がある。予定の有無を書いただけの物、時間などのメモが書かれた物……どちらにせよ、小さなカレンダーを想像する人が多いのではないだろうか。しかし戸崎結衣の場合、それはカレンダーではなく時刻表のような物である。一冊につき三ヶ月分、十五分間隔で密に予定が書きこまれている。
きっと他の人が見れば必ず無謀と評価する予定を、しかし戸崎結衣は百パーセント以上確実に消化して、それと同時に数ヶ月先の予定が埋まっていく。プライベートな時間はほぼ存在せず、今年は娘の運動会にすら顔を出せなかった。
そんな結衣だが、毎年二日だけは確実に開けている日がある。
それは娘の誕生日と、近所で開かれる夏祭りの初日だ。
夏祭りは三日間に渡って開かれ、毎日終わり際に花火が上がる。
花火は初日よりも二日目、二日目よりも最終日の方が派手になる。人の多さもまた、最終日に近付くほど多くなる。
ゆいが三歳だった頃、一緒に訪れた夏祭りで一緒に花火を見た。
当時それほど娘と仲良く無かった結衣は、なんとか距離を縮めようと計画を立て、ちょうど近くに行われる夏祭りに目を付けた。その中でも最も人が少ない初日を狙って、二人で参加したのだ。
人が少ないといっても、それは祭り全体での話。人口密度を考えれば、どの日に行っても同じかもしれない。そう気付いたのは夏祭りに集まった無数の人の姿を見た時で、結衣は仕事でも流したことの無い冷や汗を流した。
その日、彼女は娘の小さな手をしっかり握って、それはもう子供のように遊んだ。ゆいが今のようになったのは、きっとこれがきっかけだと結衣は確信している。だから去年も二人で夏祭りに参加したし、もちろん今年も参加する。
「おーまっつり~♪ りんごあめ~は、おくちはいらない~」
良く分からない歌を歌うゆい。彼女が着ている浴衣は一年前に買った物だ。当時は袖から手が出なかったゆいだが、今年はちょっぴり指先が出ている。そんな些細な変化に頬を緩められるのは、きっと母親に与えられた特権に違いない。
桃色の生地の上に咲く花畑の周りで兎がぴょんぴょん動いているように見えるのは、ゆいが実際にスキップしているからか、はたまた結衣の心が躍っているからか。
午後八時。自宅から徒歩で会場へ向かう二人の間には、既に幸せな空気が流れていた。
「ママ! ことしは、あたしのほうがきんぎょとるよ!」
「いえいえ、今年も負けませんよ」
去年の対戦成績は1:0で結衣の勝ちである。
その前は0:1でゆいの勝ちだった。
「そうだ! みさきもいるかな!?」
「どうでしょう。会えるといいですね」
もしも会えたなら親も一緒に居るはずだ。その時はゆいのことで少しばかりお礼を言おうと結衣は思った。
「あ! みさきがいたらりょーくんもいるよ!」
「ゆい、後ろ歩きは危ないですよ」
ごめんなさい、と言って結衣の腕にくっつくゆい。
「ママ! チャンスだよ!」
無垢な表情で言うゆい。結衣は困った末に、曖昧な笑みで返した。
「りょーくん、なかなかイケメンだよ!」
こういう言葉は何処で覚えるのだろうと思いつつ、
「ゆい、そういう話は大人になってからにしましょう」
「こころはおとなです!」
やれやれと結衣は思う。ここ最近、やけに娘が結婚を勧めてくる。
「ゆいは、そんなにパパが欲しいのですか?」
「べつに!」
ガクっと結衣は肩を落とした。自然な流れで、しかしそれなりに緊張しながら問いかけた言葉への返事が、べつに!
「けっこんはしあわせって、ほんにかいてあった!」
ゆいは右手を高々と頭上に掲げて、
「レッツリアじゅう!」
と、おそらく意味を理解していないであろう言葉を叫んだ。
結衣はどうしようもなく愛おしくなって、ゆいの頭を撫でた。
えへへと笑うゆい。
「ゆい、結婚は人生の墓場と言われているんですよ」
「えー!? うめられちゃうの!?」
「はい、うめられちゃいます。それに……」
「……それに?」
私は、ゆいがいれば他には何もいりません。
「いえ、なんでもありません。ほら、そろそろですよ」
結衣が飲み込んだ言葉は、きっとこの先もずっと消えなくて、口の外に出ることも無い。ただ、こういうことを考える度に、彼女は娘の為に働いているのだと再確認する。
明日からも頑張ろう。
だから今日は、思い切りゆいと遊ぼう。
「さ、まずは何処に行きますか?」
「ちかいとこから、じゅんばんに!」
「はい、分かりました」
ゆいは迷子にならないように、さっきよりも強く結衣の腕にくっついた。
結衣は娘を見失わないように、反対の手で小さな手を握った。
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