第27話 一歩進んだ日


 冬が終わる。

 空気は徐々に温かくなり、気が付けば吐く息が白くなることはなくなっていた。


 みさきは保育園に行っている。

 俺は特にすることが無くて、部屋で独り天井を見上げていた。


 ほんの少し前までなら、時間さえあれば何かしていた。しかし今は、何もする気が起きない。大きな達成感を味わった後だからか、どこか無気力だった。俺は、よく分からない感情に目を細めながら、とりあえず先のことを考える。


 いろいろあって、ロリコンに採用された。

 この字面だと語弊を生むかもしれないが、要は怪しい零細企業の内定を得たのである。


 詳しい話は銭湯で伝えられた。

 勤務時間の指定が無い代わりに、仕事の達成度で給与が前後する。仕事内容は、主にシステム開発。優秀な営業が泣けるほどに乱獲してくる仕事を、たった二人のエンジニアで回しているらしい。


 コストは、営業の交通費と電気代だけ。

 あとは全て利益になるから、ガッポガッポ儲かっているらしい。


 俺の待遇については、一年間という長い使用期間が設けられた。その間に使える人間にならなければ契約終了となるらしい。肝心の給料は、手取りで20万ジャストということになった。


 さて、20万という数字を聞けば嫌でも思い出すことがある。

 スッカリ忘れていたが、明日は生活保護の支給日だ。


 のっそりと身体を起こして、財布を拾い上げる。

 銀行に金を預ける習慣が無いからか、財布には諭吉がワンサカ残っている。


 ほんの一ヶ月ほど前までは、月末の財布には小銭しか残っていなかった。

 無駄に使わなければこんなものなのか、それとも張り切ってバイトしたせいか。


 ともあれ、今の俺は小金持ちである。

 みさきに何か買ってやろう。


 さて何がいいか。

 しばらく考えて、俺は首を横に振った。


 みさきを育てる為には金が要る。

 目的を遂げる為ならば、貰えるものは貰うのが正解だ。


 だが、俺は立派な親になると決めた。

 そんな人間が、明らかな不正受給を続けるってのは、おかしいだろ。


 決めた。


 俺は市役所を目指した。

 到着後、真っ直ぐ総合案内へ向かう。


「あの、生活保護について話したいんすけど」

「はい。では7番の窓口へ尾根が強います」


 ということで7番窓口へ。

 

「――受給停止ですか? ええと、運転免許証か何かお持ちでしょうか?」

「ない」

「……では、お名前をお聞かせください」


 苦笑いを浮かべる職員。

 おいおい大丈夫かよ、この程度の客に引いてたら、飲食店では働けないぜ?


 心の中でちっぽけなマウントを取りながら、名前を伝える。


「天童さんですね。少々……あれ、天童龍誠さん?」

「……なにか?」

「あ、いえ、失礼しました。えっと……少々お待ちくださいね」


 妙に意味深な態度で、職員は窓口を離れた。

 何だったのだろうと眉をしかめながら待っていると、やがて別の職員が現れた。


「こんにちは。ちょっと担当変わりますね」

「……うっす」


 わりと年配の職員。

 どこか緊張した様子で、見るからに表情が強張っている。


 俺は疑問に思いながらも、次の言葉を待った。


「本日は生活保護の停止を希望とのことですが……どのような理由で?」

「娘の為です」

「娘さん? でしたら、むしろお金が必要なのでは?」

「金には困ってません。だから、やめにきました」

「…………」


 年配の職員は、目を丸くして、ついでに口も丸くした。まるで珍しい生き物でも見つけたかのようだ。

 俺は珍獣じゃねぇぞ。心の中で威嚇していると、年配の職員は、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。


「では、色々と手続きがありますので……ああ、ちょうど明日は休日ですね。娘さんと一緒に、もう一度ここに来られますか?」

「問題ないっす」

「ありがとうございます。午後六時くらいがいいかな? ご都合はよろしいですか?」

「午後六時に、ここに来ればいいんすか?」

「はい、市役所までお越しください」


 ……土曜の午後?

 市役所、空いてたか?


「分かりました」


 まぁ、職員が言うなら従うしかねぇか。



 *



 翌朝。

 俺は、みさきを連れて近所の公園に居た。


 べつに遊んでいるわけではない。ただの日課である。


「いいかみさき、いつも言ってるが歯磨きは重要だぞ」

「……ん」


 ピンク色の歯ブラシで、ゴシゴシ小さな手を動かすみさき。

 例のボロアパートには水道が通っていない。だから、トイレも洗顔も何もかも近所の公園を使っているのである。


「そうだみさき。今夜、お出掛けするぞ」

「……ふふほへ?」

「悪いな、磨いた後でもっかい話すな」

「……ん」


 くちゅくちゅ、ぺっ!


「終わったら飯だ。今日は少し奮発するぞ。何がいい?」

「ぎゅうどん」

「まあ、それしか知らねぇもんな……寿司とかどうだ? 回るぞ」

「まわる?」


 みさきは頭の中で動き回る食べ物を思い浮かべて、


「……むずかしい」

「まあ行けば分かる。楽しみにしてやがれ」

「……ん」


 ちょっぴり表情をキラキラさせるみさき。

 相変わらず微妙な変化だが、慣れると感情表現が豊かなみさきだ。かわいい。


「寿司は知ってるのか?」


 首を横に振るみさき。


「玉子くらいは分かるよな?」

「……ん」

「エビはどうだ?」

「……せっそくどうぶつ?」


 いかん、俺が分からん。


「おお、よく知ってるなみさき。偉いぞ」


 褒めてごまかす。

 得意そうな顔になるみさき。


 つうか、セッソクドウブツてどっから出て来た? なんかの本か?


 エビの実物しらなくて、学術的な呼称を知ってる五歳ってなんだ。みさきだ。天才だ。


「みさきは、きっとスゲェヤツになるな」

「……ん?」


 よく分からなかった様子のみさき。

 きょとんと首を傾けた様子を見ながら、俺は密かに重圧を感じていた。


 みさきと出会ってからの俺は出来過ぎだ。

 とんとん拍子に物事が進んで仕事まで手に入れた。


 今は、ひとまず目標を失った状態だ。

 これから先は、クビを切られねぇよう必死に働くしかないのだが……これで良いのだろうかという漫然とした不安がある。


 立派な親とは、なんなのだろう。

 例えばそれは、経済力だ。子供と一緒に公園で歯を磨くような親ではない。


 普通の家に住んで、普通に働いて、子供は何も心配することがなくて、例えばそれは――


「あっ、天童さん。おはようございます」

「ああ、おはよう」


 突然現れたジャージ姿のエロ漫画家さん。

 彼女もまた、この公園を利用している。


「みさきちゃんもおはよう」

「……おは」

「ふひひ、今日も水が冷たいね」

「……ん」


 立派な親とは、この人……ではないな。

 この人は違う。なんか違う気がする。


「えっと、どうかしました?」

「なんでもない」


 両手を広げて、戯けて見せる。

 まさか内心で「なんか違う」扱いをされているとは夢にも思わないエロ漫画家さんは、寝起きな様子で顔を洗い始めた。


 みさきがサッと後退する。

 飛び散る水を避けたのだろう。


 エロ漫画家さんの洗顔は大人しいが、みさきの身長では被害を避けるのは難しい。


「……帰るか」


 みさきに声をかける。

 みさきはコクリと頷いた。


「先に戻る」

「はい。また夜ですね」


 エロ漫画家さんに挨拶をして、帰宅する。

 みさきは俺の少し後ろをてくてく歩いた。


 いつもの距離感。

 みさきと初めて外出した日と変わらない。


 ときどき心配で振り返ると、どうしたの、という表情で顔を上げる。みさきは迷子とは無縁の賢い子供だ。


 しかし油断はしないように、その小さな足音に耳を傾ける。最底辺の生活を続けたことによる怪我の巧妙というか、俺は小さな音に敏感だった。


 みさきは、小さな足を必死に動かして、後ろを歩いている。俺は無理をさせないようにペースを落とすけれど、大き過ぎる歩幅の差を埋めるのは難しい。


 手を繋げばいい。

 普通の親子ならば、きっと手を繋ぐ。


 俺は、みさきに手を伸ばしたことがない。

 みさきも俺の手を握ろうとはしない。


 普通、これくらいの子供は大人に甘えるものだ。だがみさきは、一度も俺に甘えたことがない。そりゃ警戒してる相手に甘えたりしねぇだろうが……俺が、大人として情けないからってのもあるかもしれない。


 なにせ、隙あらば自虐を始める男だ。

 小さい。本当に小さい人間だと思う。


 ……身体だけは、デケェのにな。


 帰宅後。

 俺はいつものように算数ドリルを開いたみさきを見守っていた。小さな本は、いつの間にか三年生が使うモノになっていた。


 みさきは前に進んでいる。

 その歩みは、俺よりも遥かに早い。



 *



 市役所に着いた。

 無駄に豪華な外観。手入れの行き届いた盆栽、池と噴水。


 市民の税金を大胆に使う施設は――


「閉まってるじゃねぇかよ」


 やはり、閉っていた。

 振り返って噴水の上にある時計を見ると、時刻は5時50分ほど。


 俺は十分前行動をした。

 俺は悪くない。市役所が悪い。


 先日、疑問に思ったことがコレだ。

 この市役所が土曜日の午後に開いている様子なんて見たことが無い。


 それでも職員の言葉を信じて足を運んだのだが……

 あのオッサン、まさか今日が土曜日だって忘れてたんじゃねぇだろうな?


「……ん?」


 どうしたの? と首を傾けるみさき。


「わりぃな、少し付き合ってくれ」

「……ん」


 みさきは頷いて、くいと俺の服を引っ張った。


「どうした?」


 みさきは反対の手をあげて、どこかを指さした。

 俺は面白い物でもあったのかと目を向ける。


 そこには、一人の女性が立っていた。


「…………」


 高そうなスーツを着た女性。

 少し濃い化粧は、皺を隠す為のモノだろうか。


 年齢は、きっと俺より一回り上だ。

 ちょうど、みさきと俺くらいの差がある。


 彼女は、スーツケースを片手にピンと背筋を伸ばしている。

 よく見ると肩が上下に動いていて、直前まで運動でもしていたかのような様子だった。


「……うそだろ?」


 彼女は硬い表情で俺を見ている。

 その姿に見覚えがある。俺は、あの人を知っている。


「りょーくん?」


 みさきが心配そうな声で言った。

 どうやら今の俺は、心配されるような顔をしているらしい。


 俺は、黙って彼女の目を見ていた。

 彼女もまた、何も言わずに俺を見ていた。


 風が草木を揺らす。

 この場所に訪れた瞬間から、揺らし続けている。


 車が地面を鳴らす。

 この場所に訪れた瞬間から、鳴らし続けている。


 そして、心臓の音が耳を叩く。

 微かな音でさえも、今の俺を動揺させるには十分だった。


「……みさき、行くぞ」


 彼女から目を逸らして、みさきの手を引く。

 みさきはビクリと手を震わせて、転びそうな足取りで歩いた。というか、引っ張られた。


 俺は、彼女を知っている。

 彼女がここに居る理由は、考えたら直ぐに分かった。


 ……ふざけろ。


 だけど、受け入れられない。

 どうしても受け入れられない。


 そんな滅茶苦茶な話は、ありえない。

 だから俺は、みさきを連れて彼女の横を通り過ぎようとした。


「待ちなさい」


 それは、蚊の鳴くような声だった。

 だけど不思議と耳に残る声には、俺の足を止める程度の力があった。いや、逆かもしれない。今の俺には、この程度の声を無視するだけの気力さえ、無いのかもしれない。


「……待って、ください」


 振り返る。

 もう一度、目が合う。


 長い沈黙の後、先に口を開いたのは彼女だった。


「ごめんなさい」


 それは、懐かしい声だった。

 小学校を卒業してから、初めて聞いた母親の声だった。


「……なんでだよ」


 きっと俺にしか伝わらない問いかけが、ポツリと零れる。

 感情がグチャグチャだった。頭の中で無数の考えが浮かんでは消えて、処理しきれない。酔いさえ覚えて、吐きそうだった。


「後悔してるんだろ……?」


 彼女は、俺を捨てた。

 俺は棺桶みたいな家から抜け出して、好き勝手に生きた。


 あるとき、便利な男に出会った。そいつの勧めで生活保護を申請して、受理された。


 それらしい審査は行われなかった。

 毎月欠かさず決まった額が振り込まれているのに、不正受給を疑われたことはもちろん調査員と話をしたことすらなかった。


 生活保護の額は変動している。しかし俺に振り込まれる金額は、決まって20万円だった。何年も変わらず、同じ額だった。


 なぜ?

 その答えが、目の前にある。


「……ふざけろ」


 吐き捨てるように言った言葉は、誰に向けたものでもない。


 取り乱している。動揺している。それをハッキリと理解できる程度に落ち着いている。


「あんたは、何がしたいんだ?」


 俺の呼吸は静かだった。怒りによる燃えるような熱も、感じなかった。


「……私が、ここに居る理由が、分かるのですね」


 彼女は、声を震わせていた。

 瞳に涙を浮かべて勝手に感極まっていた。


 それが許せない。

 身勝手な態度を前に身体中が発熱する。


 その感情が爆発することはなかった。

 俺は言葉を失って、唖然と立ち竦むことしか出来なかった。


「……ごめんなさい」


 再び、彼女は謝罪の言葉を口にした。


「うるせぇよ」


 俺は、それを拒絶する。


「それだけか?」


 言葉が上手く出てこない。


「俺に謝る為に、こんな面倒なことをしたのか?」


 自分が何を言いたいのか分からない。

 理解しようとする自分を拒む自分がいる。


「わざわざ人を雇って仕事を与えたり、生活保護って名目で金を渡したり……なんだよ、なんだよそれ!」


 これは子供の戯言だ。

 俺は彼女を恨んではいない。もう十年以上も前のことだ。不出来なガキを捨てる自由が、彼女にはあった。それだけのことだ。


 天童家は、その筋では有名な資産家の名前だった。金持ち。勝ち組。一般人が憧れるような、立派な存在だ。


 立派な親とは、なんなのだろう。

 自問した時、頭に浮かんだのは、本当に不本意だが、俺の親だった。


 天童家には力がある。その気になれば、何だって出来るだろう。その力があれば、子供に何もかも与えられるだろう。


 まさに、理想の存在だ。

 俺が考える理想の大人だ。


 それなのに――


「こんなのが、テメェの子育てなのかよ?」


 俺みたいな底辺からすれば、雲のような存在が、目の前に居る。


 みさきを育て、立派な親になると決意した俺の前に、大人たちの頂点に君臨する存在が目の前に居る。


 みっともなく涙を流して、ガキを納得させることすら出来ない大人が、目の前に居る。


「……ごめんなさい」


 彼女は、ただ謝罪の言葉を口にした。

 違う。そんな言葉は必要ない。俺は――


 唇を噛んで、思考を止める。

 結果、生まれたのは重たい沈黙だった。


 相変わらず風が吹いている。

 相変わらず車が鳴いている。


 草木が揺れて、地面が騒いで鬱陶しい。

 暴れてしまいたい。叫んで、暴れて、何もかもメチャクチャにしたい。


 しかし体は指ひとつ動かない。

 中途半端に大人びた精神のせいで、激情が行き場を失って漂っている。


 俺は、何も言えなかった。

 彼女もまた、涙を流すばかりだった。



「……だいじょうぶ?」



 最初に動いたのは、みさきだった。

 大人たちが何も出来ない中、まだ五歳の小さな女の子が、最初に動いた。


「……へいき?」


 みさきは、涙を見て心配そうに言った。

 その姿を見て、みさきという女の子の強さを思い知らされる。同時に、自分の情けなさを痛感させられた。


 何かしなければ、そう思った直後だった。


「……わた、しは」


 彼女は嗚咽混じりに言う。


「……産むべきでは、なかった。育児、能力が、不足していることは……分かっていた」

「待て、待てよ」


 続く言葉を反射的に阻害する。

 それを聞いてはいけないような気がした。


 それを聞いたら、俺の数年間が、俺を形作っていたものが、根本から崩れ去るような気がした。


「……最低です」

「やめろ」


 決して忘れない。

 それは、彼女から最後に聞いた言葉。


 ――最低ね、本当に。

 ――やっぱり、産まなければよかった。


 決別の言葉。

 主語が省略された傲慢な言葉。


「……私は、ほんとうに」

「やめろよ!」


 俺の中で自動的に保管されていた主語が入れ替わる。彼女の口から発せられた言葉の意味が反転する。


「有り得ないだろ、あるわけないだろ」


 俺は否定する。


「育てる力が無いから捨てた? 無責任に産んでしまってごめんなさいだと?」


 絶対に受け入れられない。


「こそこそ金を与えて、それがテメェの精一杯かよ。おかしいだろ。なんでも出来る大人が、この程度な訳ねぇだろ!?」


 俺は喚いた。


「事件のあと、随分あっさり諦めたよな」


 言葉の奥底には願望がある。

 それは、こうして欲しかったという過去の自分の願いでもあり、こうあって欲しいという現在の自分の願いでもある。


「あれから何年経った? あんたが俺を諦めてないとしたら、やり直すチャンスが、どれだけあった?」


 声が震える。

 制御できない感情が視界を霞ませる。


「どうして、いまさら……」


 俺は腹に力を込めて、言葉を絞り出した。


「……理由、ですか」


 彼女は、あっさりと返事をした。

 必死な俺とは対照的に余裕があった。


 彼女は顔を上げる。

 その目は、とても優しい目だった。


 ゾクリと背筋が震える。彼女が次に発する言葉を直感して、心が騒いだ。


 俺は母親を知らない。

 俺は親を知らない。


 子育てとは、金を与えることだ。俺が親から受けたものは、機械のように冷たいものだけだった。


 それは決して、今目の前にあるようなものではない。こんなにも胸が温かくなるようなものではない。

 

 やめてくれ。

 俺が足掻いたのは、テメェを見返す為だ。


 テメェの都合でガキを捨てるクズに向かって、最高に幸せだよ、ざまあみろ。そんな風に言ってやるためだ。


「……なんだよ、理由って」


 問わずにはいられなかった。

 子供の問いを受けて、母親は微笑んだ。


「どんな親でも、我が子が愛おしいのです」


 ふざけるな。切り捨てるのは簡単だ。

 だが、同時に思うこともある。


 この最低の母親は、一体どんな思いで、俺の前に現れたのだろう。


 子育てに失敗して、最低最悪の選択をした彼女は、これまで、どんな思いで生きていたのだろう。


 その感情が、理解できてしまった。

 納得は出来ない。出来るわけがない。子供みたいに騒いで、ふざけるなと叫んで、暴れ回りたい。


「……そうか」


 だけど、出来なかった。

 ほんの少しでも共感してしまった俺には、もう何も言えない。


 俺は、みさきを育てると決めた。

 それ以来、いつも不安を抱えていた。


 なにか間違えていないか。

 不自由な思いをさせていないか。

 みさきは何か我慢していないか。

 もっと出来ることはないのか。

 少しは目標に近付けているのか。

 いつみさきと手を繋げるのか。

 どうして甘えてくれないのか。

 自分には何が足りないのか。

 何が足りているのか。

 今の会話はどうだったか。

 今の判断はどうだったか。

 今日はどうだった?

 明日は何をする?


 立派な親になんて、なれるのだろうか。


 不安だらけだった。

 立ち止まったら、足掻くことをやめたら、頭がおかしくなりそうだった。


 人生ゲームを作っている時に痛感した。

 ほんの少し手が止まっただけで、何もかもがダメになるように思えた。


「……あんたも、同じだったんだな」


 短期バイトをしたとき聞いた言葉がある。


 ガキを叱らなきゃなんねぇのも、大人の責任だ。それが分からないヤツは子育てなんかやめちまえ。


 彼女は、自分を責め続けていたのだろう。

 その感情が、理解出来てしまう。だから俺は、もう何も言えなかった。


「…………受け取ってください」


 彼女はスーツケースを差し出した。


「これで、もう不自由はないでしょう」


 中身は聞かずとも分かった。きっと目が飛び出るような大金が入っているのだろう。


「……いらねぇよ」


 俺は拒絶した。

 きっと彼女は、この瞬間を待ち望んでいたのだろう。いつか俺が前を向いて、自立した時に、支援するつもりでいたのだろう。


「あなたには、これを受け取る正当な権利があります」


 だから彼女は譲らなかった。


「あなたが使わないのなら、その子の為に使いなさい。それから、まずは住む場所を変えなさい。あんな環境では、いつか病気になりますよ」


 俺は受け取らない。

 彼女は、


「龍誠、受け取りなさい」


 初めて、俺の名前を呼んだ。母親として、きっと最初で最後の命令をした。


「いらねぇよ!!!!!」


 だから俺は、叫んだ。

 喉が千切れるくらいに、形振り構わず全身全霊で叫んだ。


 足元でみさきがビクリと震えた。

 声は建物に跳ね返って反響した。


 彼女の感情は理解できる。

 俺と同じなのだ。親になり、子供のことを考えて、不安になって、何も出来なかった。


 理解は出来る。

 だけど、納得なんか出来ない。


 俺は、まだそこまで大人じゃない。


「……いらねぇよ」


 もっと言いたいことがある。

 だけど、ひとつ言葉しか声にならない。


「受け取りなさい」


 彼女は一歩も引かなかった。凛とした表情でスーツケースを差し出し微動だにしない。


 ……何してんだよ、俺は。


 俯いた先で、みさきが泣きそうな顔をして俺を見上げていた。それを見てハッとする。


 ダメだ、ダメだろ、こんなんじゃ。

 ガキを不安にさせる親なんて、ダメだろ。


「…………」


 俺は、黙ってスーツケースを受け取った。

 そのまま、彼女に向かって差し出した。


「何をしているのですか」

「……返すんだよ」

「それは、あなたのものです」

「そうだよ。だから、俺が使うんだよ」


 これは、精一杯の強がりだ。

 右手にはスーツケースの重みがある。一体いくら入ってんだと考えると全身が震える。


 これまで、無意味に時間を浪費していた。

 漫然と日々を過ごして、身体ばかり大きくなった。自分勝手に生きていると言いながら、臆病な本性を押し隠していた。


 足掻いた。何もしないでいると不安に押し潰されそうだったから、手当たり次第に行動した。


 タバコをやめた。酒もやめた。

 パチンコにだって一度も行っていない。


 自堕落に時間を浪費することはやめた。

 前に進む為に、スタートラインの後ろで、じたばた足踏みをしていた。


「これを返さなきゃ、俺は前に進めない」


 みさきを育てる。

 みさきを幸せにする。

 その為に、立派な親になる。


 だから、大人になろう。

 ガキみたいな事は、終わりにしよう。


「受け取ってください。ここまで育ててくれて、ありがとうございました」


 頭を下げる。

 返事は、いつまでも聞こえなかった。


 代わりに、鼻を啜る音が聞こえた。

 小さな音が、ずっとずっと聞こえていた。


 やがて彼女はスーツケースを受け取った。

 引き換えに、一枚の紙を俺に握らせた。


「何かあれば、連絡しなさい」


 それは彼女の名刺だった。

 そして、別れの言葉だった。


 足音が聞こえる。

 それはゆっくりと、何度も振り返るような足取りで、遠ざかっていく。


 俺は頭を下げたまま、足音を見送った。


 ……ああクソ、ダメだ、動けねぇや。

 

 完全に音が聞こえなくなったあと、顔を上げる。見上げた空は、すっかり暗くなっていた。


 微かに光る星をぼんやり見上げていると、何かが俺のズボンを引っ張った。


 何かって、みさき以外に居ない。


 ……ほんと、ダメな親だな、俺。


 目を向けることは出来なかった。いま下を向いたら、零れてしまいそうだったから。


「……」


 だいじょうぶ?

 そう聞こえたような気がした。


 やっぱり、みさきは……そんな考えをかき消したのは、鼻をすする音だった。


「みさき?」


 目を向けると、みさきが口を一の字にして、子供らしい大きな目を潤ませていた。


「どうした?」

「…………」


 とても辛そうな表情で、何度も鼻をすすりながら、震える唇で、


「……おかあさん、きにしてる?」


 そう言って、一筋の涙を零した。


「……みさき、こと、きにしてる?」


 俺は悔しかった。

 何も分かっていなかった。

 

 強くて優しい女の子?

 違う。目の前に居るのは、ただの子供だ。


 ……かっこ悪すぎるだろ、天童龍誠!


「みさき……泣くな」


 絞り出したのは、無責任な言葉。


「……りょーくんも、ないてる」


 流石のみさきは、痛いところに渾身のストレートを打ち込んできた。俺はガックリと膝を折って、みさきに目前の高さを合わせる。


「みさきは、それは言っちゃダメだ」

「……なんで」


 親として、何を言うべきか。

 頭に浮かんだのは、ふざけた言葉だった。


「こういうときは、こうするんだよ」


 俺は両手を広げた。

 それをみさきに近付ける。しかし途中で何かの壁にぶつかったみたいに動かなくなる。


 俺は唇を噛んで、壁を打ち抜いた。


「……忘れるなよ」

「……んっ」


 ゆっくりと、小さな体を抱きしめた。

 今にも消えてしまいそうなみさきを離さないように、強く強く抱きしめる。


 直ぐに震えが伝わって来た。

 みさきは、ついに声を上げて泣いた。


 子供らしく、大声で泣き喚いた。


「……みさき、聞いてくれ。俺、頑張るよ。今よりもっと、誰よりも……だから、今日が最後だ。みさきも、俺も、もう二度と泣かない。いいな? 約束だ」

「…………んっ」


 何度も考えることがある。

 みさきを育てると決めた日から、俺は何が変われたのだろうか。少しはマシになれているのだろうか。


 答えは簡単だ。

 俺は、何も変わっていない。


 あの場所から一歩も動けていない。

 今もまだ、最底辺のクズのままだ。


 なら立ち上がろう。

 そして歩き出そう。


 無駄に体だけ大きくなった分、俺の歩幅は大きいんだ。その分だけ体が重たくなって走る事は出来ないけど、それでも、今のみさきよりは早く歩ける。ならせめて彼女が走り出すまで、俺は前を歩こう。


 みさきの泣き声を聞きながら、誓った。

 二度と後戻りしないよう強く心に刻んだ。


 俺は前に進むと決意した。

 そして今日、最初の一歩を踏み出した。



 *



 見慣れたボロアパート。

 相変わらず服が散らかる部屋には、見慣れない姿がひとつ。


 泣き疲れて眠ったみさき。

 自分と同じくらい大きな枕を抱いて、静かに眠っている愛娘の姿がある。


 俺は背伸びをして、長い息を吐いた。

 それからみさきの方を見ると、偶然にも出しっぱなしだったノートが目に映る。


 なんとなく手に取って、ふと思いついた。


「……日記でも書こうか」


 それを毎日続けて、みさきをどれだけ喜ばせられたか確認するんだ。


 この日記にタイトルを付けるなら――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る