第9話 短期バイトを始めた日
「りょーくん、みて」
「おう、どうした?」
次の日の朝。
目を覚ますやいなや漢字ドリルとノートを開いて勉強を始めたみさき。それを見守ること数十分、みさきが俺にノートを差し出した。
虫、草、天、空、気、夕――小学1年生で習ったような記憶があるような無いような気がする漢字が、可愛らしい字で並んでいた。
「……どう?」
なんというか、味のある字というか、今すぐ矯正した方がいいような気がするんだが……。
「みさき、おまえ天才だな。俺がみさきくらいの頃は漢字なんて書けなかったぞ」
褒めてやると、みさきは満足気な表情で鼻を鳴らした。
「……かっこいい?」
「ああ、スッゲェかっこいい」
「…………」
「ん? どうかしたか?」
なんだか見られていたから問い返すと、ぷいっと顔を逸らされた。
……なんでだ? なんで怒ったんだ?
あたふたする俺を置いて、みさきは再びノートに鉛筆を走らせる。俺は芸術的な文字見ながら、わざとらしい口調で言った。
「ん~、やっぱお手本の字が一番かっこいいなぁ」
「……」
お、気にしてる気にしてる。
「お手本の字を真似してると上手くなるって聞いたことがあるような……」
こっそり呟いた後、みさきの方をチラっと見る。
漢字ドリルにある字を鉛筆でなぞっていた。
こいつ、ほんと素直で可愛いな。
「……ん?」
おおヤベェヤベェ。なに笑ってんだよコラって目で見てやがる。いいや違うな、みさきはこんな乱暴な事を考えねぇ。きっともっと可愛らしく「……み、みんなよ」とか思っているに違いない。
うっひゃ可愛い! 俺気持ち悪い!
「……んん?」
「すまねぇみさき、ちょっと頭冷やしてくる」
頭を冷やした。
「はぁ、はぁ……ただいま」
「……おかえり」
ほんの1キロくらい全力疾走して部屋に戻ると、みさきは数分前と同じように漢字ドリルを鉛筆でなぞっていた。熱心なことだ。
お、手が止まった。流石に休憩か。
「……おなかすいた」
おっと、そういや朝飯まだ食ってねぇな。
「何が食べたい?」
「……おにく」
「おっし、じゃあ牛丼だな」
「……ん。ぎゅーどん、すき」
そんなわけで牛丼屋に行き、いつものようにミニと並を頼んだ。
個人的には大盛を食べたいのだが、どうせみさきが残した分で大盛くらいになる。なら大盛を頼んでみさきに分けた方が安いのではないかという意見もあるかもしれないが、それはみさきが嫌がるのでNGだ。
密かに負けず嫌いなみさきは、ミニを残さず食べてみたいらしい。果たして、今日は4割くらいを食べてから敗北した。
「……」
悔しそうに頬を膨らませるみさき。
「まぁ、最初は1割くらいしか食えてなかったし、頑張ったんじゃないか?」
「……ん」
納得いかないという表情で頷いた後、スッと小さな手で牛丼を俺に差し出した。
俺は丼を受け取って食事を再開する。
みさきは不思議そうな表情で俺を見ていた。
「どうした?」
「りょーくん、くいしんぼう」
「野郎はこれくらい食うもんなんだよ」
「やろー?」
「男の子って意味だ」
「りょーくん、ものしり」
朝と昼の間で、しかも平日。
店内には俺とみさきの2人しかいなかった。
実に快適な空間で、俺は相槌を打つ。
少しずつだけど、みさきは口数が増えてきた。
「かんじも、かける」
「もちろんだ」
一度覚えた事というのは意外と忘れないもので、今でも中学2年までに覚えた漢字なら問題無く書けると思う。そう考えると、みさきが中学3年以上の漢字を覚え出したら、ちょっとピンチだな。ま、先の話か。
「……か」
「か?」
「……むせた」
「なんだそれ」
思わず笑うと、みさきは恥ずかしそうに俯いた。
一度こうなると、もう俺から声をかけるまでは喋らないのだが……今日は、このままにしておこう。
それはそうと、ここの牛丼ってこんなに美味かったか? これなら大盛り2杯だって余裕で食えそうだ。食わないけど。
そんなこんなで食事を終え、家に帰って漢字の勉強をするみさきを見守り、少し早めに銭湯へ行って、帰宅して――午後7時になった。
「……うしっ、行くか」
俺が立ち上がると、みさきが「行かないで」という目で俺を見る。嘘だ。ただ目で追っただけだ。
「ちょっくら働いてくるよ」
「……ん」
みさきに見送られ家を出る。
俺はポケットから一枚の紙切れを取り出して、歩き出した。行き先は、昨日会ったおっさんの営む定食屋――KOYだ。
KOなんてつけるくらいだから、きっとイカつい店なのだろう。そう思いながら夜道を歩く。
結局、そこで短期間のバイトをすることにした。
何をするにしても、まずは初級からだ。飲食店のバイトなんてガキでも出来る温いことだけどな……。
とりあえず。
日雇いのフリーターから、短期のアルバイター。
十分だ。
地道に、こつこつ進もう。
わりと近所にある繁華街。
多くの飲食店が立ち並び、ちょうどピークの時間帯だからか、どの店も繁盛していた。
その中に、まるで他の人には見えていないかのような寂しい店がひとつ。どうやら、あれが俺の目的地のようだ。
KOYというくたびれた看板の下には準備中という札がある。構わず入り口に手をかけると、鍵はかかっていなかった。
「おう、待ってたぜ」
扉を開けた途端、店の奥から声が聞こえた。俺は返事をしないまま狭い通路を何歩か歩いて、少し開けた場所に出た。
定食屋というからテーブル席が並んでいるのかと思っていたが、そこにはカウンターが席があるだけ。
そして、とにかく狭い。二人以上が同時にしたら必ずぶつかると確信できるほどに狭い。そのくせカウンターの奥にある厨房は立派で、飯だけは期待できそうな雰囲気が漂っていた。
「どうすればいい?」
単刀直入に問いかける。
おっさんは白いエプロンを揺らして振り返った。
「まぁ座れや。とりあえず面接だ」
……は、面接されんの? 聞いてねぇよ?
適当な席に座ると、おっさんは作業を止めて、その強面で睨むようにして俺を見た。そのまま鼻と鼻が触れ合う程の距離まで顔を寄せドスの利いた声で言う。
「テメェ、なんで無職だったんだ?」
「働く気が無かったからだ」
「どうして俺の話に乗りやがった?」
「みさきの為だ」
「みさきって誰だ」
「娘だ」
「合格だ」
……。
「終わりか?」
「俺が合格って決めたらそれで合格なんだよ」
おっさんは振り返って作業を再開する。
「30分後に開店だ。今すぐ仕事を覚えやがれ」
「上等だ。俺は何をすればいい?」
「俺が作った飯を客に出す。客が帰ったら皿を片付ける。客が食ってる間は話に付き合う。以上だ」
「……皿洗いとかは、しなくてもいいのか?」
「数も少ねぇし俺がやるよ。とりあえず、テメェの仕事はそれだけだ。いいな?」
「おぅ、やってやる」
果たして30分後、KOYは開店した。
さらに30分後、俺はおっさんに声をかけた。
「店長」
「なんだ」
「客来ねぇな」
「そういうもんだ」
「……そうか」
おかしい。
「店長」
「今度は何だ」
「俺の時給、もう一回言ってもらえるか?」
「1000円だ」
「……そうか」
嘘だろ何もしてねぇぞ?
既に500円分働いたことになっちまったぞ?
……ダメだ、これじゃ何の練習にもならねぇ。
「店長」
「なんだ、しつけぇぞ」
「肩でも揉んでやろうか」
「少しは大人しくしてやがれ、クソガキ」
……待つのも仕事ってことか?
上等だ、なら何時間でも黙って待っててやるよ!
「ちーっす! お久しぶりでーっす!」
覚悟した直後、一人のテンション高い客が来店した。スーツの上にコートを羽織っている姿から察するに、仕事帰りらしい。
「いらっしゃいませぇ~、いやぁお久しぶりですぅ。ささ、此方に座ってくださいな」
……誰だ、あいつ。
店長に似てるっていうか本人だが……なんだあのオッサン、すっげぇ気持ち悪い。
「あれ、この人だれ?」
「新人ですぅ。よろしくしてやってください」
「おなしゃす!」
おっさん、もとい店長に睨まれ頭を下げた。
そのまま床を見ながら、おっさんの奇行について考える。
……あれが接客ってことなのか? となると、おっさんは俺に手本を見せてくれているのだろうか?
「へぇ……可愛い顔してるね」
おい店長、いきなり地雷原に突っ込んできたぞこの客。とりあえず一発殴ればいいのか?
「……は、ははは、よく言われまーす」
まぁ、無難に愛想笑いだろうな。
それくらいの常識はある。なめんじゃねぇぞ。
「君、何してる人? あ、おっちゃん、いつもので」
「はぁい☆」
おっちゃんは謎の返事をすると、直ぐそこにある冷蔵庫から食材を取り出し、これまた直ぐそこにある道具や機械を使って調理を始めた。
さて。
何してる人って、何だその質問。
ここでバイトしてる人だろうが。
「……アルバイト、ですかね」
やばい、早くも声が震えてきた。
「へぇ、学生さん?」
「まぁ、そんなところっす」
「どこの大学行ってんの?」
「……地元の、名前も出せないようなとこっすよ」
ふっ、即席にしちゃ無難な回答だな。もちろん嘘だが、わざわざ情報をくれてやる理由も無い。
「そっかぁ……俺ね、あそこ行ってんの。T大学だよT大学、分かる?」
で、こいつは絶対これ即席じゃねぇな。
100回くらい言ってそうな貫禄あるぜ。
果たして――学歴自慢を延々と聞かされた。
「じゃーねー、まった来るよ~」
「「ありがとうございました~」」
……なんだ、この疲労感。
時間は……まだ30分だと? たった500円で、この疲労感だと?
舐めてた……接客って、こんなにつらいのか。
「おいおい、もうくたばったのか?」
「……うるせぇよ」
閉店時間は午前5時だったか?
「余裕だ、やってやるよ」
「ふん、根性だけは認めてやるよ」
と、不敵に笑うおっさん。
このおっさんが、
いらっしゃいませぇ~
いやぁお久しぶりですぅ
ささ、此方に座ってくださいな
はぁい☆
って言わなきゃならねぇんだから、接客ってのはとんでもなく大変な仕事だ。これがおっさんの、いや、店長の実力ってことか。なんてことだ、勝てる気がしない。いや勝ちたいとも思わないが……それが社会人に必要なスキルっていうのなら、やってやるよ。
……クソっ、ただ飯を運ぶだけの温い仕事だと侮っていた過去の俺を殴りたい。
「お~う、来てやったぜぇ~」
早速次の客だ。そして早速、俺ではなくこの汚いオッサンを殴りたい。
なにこいつ禁煙って書かれた張り紙の上にタバコ乗せてんだよ文字読めねぇのかよ。つうか、吸ってもいい場所ですら死ぬほど我慢してる俺の前で……本当にいい度胸だぜ。だけど、これは仕事だ。手より先に口を出せ。
「おいオッサン、禁煙だぞ」
言った直後、オッサンの口より先に手が動いた。
あまりに唐突な出来事に、俺はしばらく頭が真っ白になった。
冷静になるにつれ、頭に血が昇っていくのが分かった。震え始めた拳。怒りを向けるべき場所は、目の前にある。
「一発は一発だぞ……」
……俺、間違ってないよな?
そうだろクソ店長。その手、離せよ。
「二度と来ねぇよこんな店!!」
店長を睨み付けていたら、怒鳴り声と一緒にタバコが飛んできた。
俺を殴った汚いオッサンは、見るからにブチ切れた様子で店から出ていった。
「……どうして止めた」
「アレはテメェが悪い。だから止めた」
今こいつ何て言った?
「あんた頭おかしいだろ。どう考えたら俺が悪い事になるんだよ」
「あいつは机にブツを置いただけだ。何も悪いことはしてねぇ」
「ならそう言えばいいだけの話だろ! 殴る理由にはなんねぇよ!」
「あのなぁ、グレたガキが冤罪に敏感な事くれぇ分かんだろ」
「被害妄想だろうが!?」
「ああそうだよ。だからどうした?」
呆れたような様子で、彼は言う。
「テメェはガキを育てる親になるんだろ? ガキと同じ土俵でぴーぴー騒いでどうんすんだよ」
「ガキを叱るのは大人の責任だ」
「ガキを叱らなきゃなんねぇのも、大人の責任だ。それが分からないヤツは子育てなんかやめちまえ」
「…………クソがっ」
俺は握り締めた拳で、近くにあった机に八つ当たりした。殴った拳が熱を持つけれど、そんなの気にならないほど体中が熱かった。
「納得いかねぇって反応だな」
「……当たり前だろうが」
店長は俺に聞かせるような溜息をついて、オッサンが投げ捨てたタバコを拾ってゴミ箱に捨てた。その背中を睨みながら、俺は唇を噛む。
「……あんた、どうして俺を雇ったんだ?」
「さぁな。多分どっかで見たようなガキだったから、気になっちまったんだよ」
その言葉には、重みが感じられた。
俺はバカだが、ある程度の教養は持っている。察するに、誰かというのは店長自身の言葉なのだろう。
自分がした失敗を、俺が繰り返している。
だから店長は、俺のことを無視できないのだろう。
「……悪かった。客を一人のがした」
「どうした。ヤケに物分かりがいいじゃねぇか」
納得は出来ない。
だけど理解は出来た。
もしもの話だが、俺が何も言わなければ、あの汚いオッサンは気持ちよく飯を食って、タバコも吸わず帰ったかもしれない。それを台無しにしたのは俺がガキだったから……こんな無茶な理屈、納得出来るワケが無い。だけど、理解は出来る。
「……ふざけんな、やってらんねぇよ」
「なる、辞めるか?」
地獄耳かよ。
「誰も辞めるなんて言ってねぇだろ」
「そうか……とりあえず一週間だ。一週間は続けやがれ。それと、テメェが雇われてるって立場を忘れるんじゃねぇぞ」
言葉遣いに気を付けろってか?
「分かりましたよ、店長さん」
空っぽな返事をして、俺は店長から入り口に目を逸らした。
いろいろ思うところは有るが、あれこれ考えるのは苦手だ。だから、シンプルに考えよう。
みさきの為に、ここで一週間だけ仕事を続ける。
一週間だ。一週間は何があっても続けてみせる。
よし、覚悟は決めた。
どんな客でもかかって来い!
丁寧に接客してやろうじゃねぇか!
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