第8話 昔のこと(2)

 これは俺にとって最も古い記憶だ。


 2歳か3歳の頃の話。

 みさきよりも幼かった頃の話。


 俺は母親と共に生活していた。

 母親は、俺に食事を与え、風呂やトイレの世話をながら、最低限の知識を与えた。


 人を困らせてはいけない。

 挨拶は大切。悪いことをしたら謝る。


 この記憶を思い出したのは、ふと疑問に思ったからだ。親とは、なんなのだろうと。


 当時、俺が知っている大人は母親と教師くらいのものだった。


 母親は俺に衣食住を与え、常識を教えた。

 教師は、俺に学問を教えた。


 なにが違うのだろうか。

 客観的に思うのは、俺の為に金を使っているか否か、それだけだ。


 なら、子供の為に金を出すのが親なのか?

 ……よく分からない。


 立派な親を目指すと決意したものの、俺には、親という存在が、よく分からない。


 物心ついた頃には習い事が始まり、親と顔を合わせる機会は極端に減った。月に一度だけ食事の席で会うか会わないか、それくらいだ。


 それが俺にとって普通だった。

 しかしそれは、あいつと話すようになって疑問を孕んだ。そしてそれは、公立の中学校に通うことで、確信に変わった。


 暴力事件を起こした俺は、いわゆるエリート街道から叩き出され、公立の中学校に入学した。そこには、同じ人間なのかと疑わしくなるような連中が居た。

 

 授業中に騒ぐ。

 人の話を聞かない。

 理性を持たない獣のように本能に従っている。


 もちろん、まともな連中も居た。

 そういう人達は、あいつに似ていた。


 俺は、あいつを特別な存在だと思っていた。

 それは間違いであることに気付かされた。


 おかしいのは、俺だった。


 時折、会話に家族の話題が出る。それは家柄がどうとかいう話ではなくて、一緒に何かをしたとか、門限がどうとか、そういう話だった。


 一度、質問したことがある。


 親とは毎日話をしているのか。

 まぁ、挨拶程度なら。


 なるほど、彼らは毎日親と会っているらしい。

 それが当たり前らしい。


 中学2年の時、作文を書かされた。

 テーマは、あなたの家族について。


 俺は何も書けなかった。


 何かあるだろ、と教師は言う。

 何かって何ですか、と俺は問う。


 どんな話をしたとか、どんな家族構成だとか……と教師の口からスラスラと言葉が出る。


 なるほど、そういうことを書けばいいのか。

 俺は教師に教えられた通り、作文を完成させた。


 天童家は、父と母、そして自分の三人家族です。

 家族と最後に会話したのは、暴力事件を起こした後です。どうしてこんなことをしたの? 母は言いました。分からない。返事をしました。母はしつこく問いかけてくるのですが、本当に分からなかったので、他には何も言えませんでした。やがて母はとても疲れた顔で溜息を吐いて、こう言いました。最低ね、本当に。やっぱり、産まなければよかった。それっきり、顔も見ていません。


 それを読んだ教師が何を思ったかは知らないが、以後、彼が俺の家族について触れることはなかった。


 この作文を完成させて以来、俺は家族について話が出来るようになった。親から「生まなければ良かった」と言われて以来、一度も話をしていない。これは魔法の言葉で、以後は誰も俺に家族の話をしなくなる。


 いや、怒った奴が一人だけいたな。

 最低、許せない、勝手すぎる、そんなことを言っていた。


 俺は適当に返事をしたような気がする。

 べつに、自由だろ。子供を産むのも、産まなければよかったと思うのも、本人の自由だ。


 不平等だとは思う。

 大人は自由だけど、子供は不自由だからだ。


 大人から教えられなければ、子供は箸の使い方すら覚えられない。なにも知らないまま、周囲との差を思い知らされるしかない。

 

 幸いにも、俺は勉強の仕方だけは教わっていた。

 分からないことがあるのならば、知ればいい。その方法だけは、まるで最初から捨てることが決めてあったみたいに、身に付いている。

 

 さてさて。

 そんなわけで、俺は親が分からない。

 一般常識として、立派な親という知識はあるけれど、それが何かは分からない。例えるなら、見たことの無い物質について描写された文章を見た時のような感覚だ。


 立派な親になって、みさきを幸せにする。

 だが俺は、立派な親も、幸せも、知らない。


 知らない物を、どうやって実現しようか。


 みさきを見ながら、考えていた。

 ときおり眉を寄せて、手を動かして、ノートを睨み付けて、笑ったり、ガッカリしたり――


「なぁ、みさき」

「……ん?」

「楽しいか?」

「……ん」


 楽しいなんて言葉を使ったのは、いつ以来だろう。


 ……らしくねぇ。


 まったく、やめだ。

 こんなの俺らしくねぇ。

 なにバカみたいなことで悩んでるんだよ。


 俺は、俺の生きたいように生きる。

 決めたじゃねぇか。何の柵も無い。俺は自由だ。


 自由?

 そうだ、とりあえず、こういうのはどうだろう。


 親には、産まなければよかったって言う自由がある。なら子供にも、生まれてきてよかったって言う自由があるはずだ。


 そうだな、これがいい。

 立派な親とか、そういう意味不明なのは保留だ。

 

 みさきに生まれてきてよかったって思わせる。


 よし、これなら分かりやすい。

 あいつが喜ぶことを、これでもかってくらいやればいいんだ。


 ……その為には、もっと金がいるよな。


 ああクソ、なんだこれ。

 目標があるのって、こんなにワクワクするのな。こんなことなら、もっと早くから何かしてればよかったぜ。


「みさき」

「……ん?」

「……いや、なんでもない」


 ありがとう、その一言は少しばかり恥ずかしくて言えなかった。不思議そうに首を傾けるみさきを見て、俺は小さく肩を揺らした。

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