第7話 みさきが勉強を始めた日
立派な親になる。
漫然とした目標を掲げてから数日。
まずタバコをやめた。
次に酒までやめて、バイトだが真面目に働き始めた。
革新的な成果だ。出来過ぎだ。
人間やると決めたら案外どうにかなるというか、これまでの人生が如何に無意味だったか思い知る。
常にヤニが漂うボロい部屋には、今ではファブリーブの強烈な香りが漂っている。パチンコからトイレくらいにはランクアップしたんじゃねぇか? どっちも吐きダメに変わりねぇけどな。
散らかり具合は変わってねぇ。相変わらず脱いだ服が散乱していて……まあ、こいつはそのうち片付けよう。
んで、俺が考えてるのは次の一手だ。
20万の生活保護と日給1万の肉体労働。手取り額だけ考えれば、これで十分にやっていける。
だけど俺は、仕事を探していた。
無駄に分厚い求人情報誌。パラパラ捲り続けて、その度に心が重くなりやがる。
……なんだこれ、正社員募集で時給900円? バイト以下じゃねぇか誰が応募するんだよ。
ああ、ダメだ。
まともな場所で働ける気がしねぇ。
溜息ひとつ。雑誌を投げ捨てる。
それから天井を見上げていると、不意にパラパラした音が聞こえた。見ると、俺が投げ捨てた本をみさきが読んでいた。
感慨深い。
少し前まで窓際が定位置だったみさきは、俺がタバコを辞めてからウロウロするようになった。
「どした、気になるか?」
気分良く声をかける。
みさきはコクリと頷いた。
「ガキが読むような本じゃねぇぞ。つうか、みさきは文字読めんのか?」
「……ひらがな、だけ」
新事実。
俺のみさきは平仮名が読める!
「本とか好きなのか?」
「……ももたろ、すき」
「しゃあ待ってろ! 今すぐ買ってきてやる!」
吾輩は本屋に居る。名前は天童龍誠。
ふぅ、なかなか見つからなくて苦労したぜ。
本屋とか生まれて初めて入るが、本棚がいっぱいあるし、多分ここで間違いないだろう。しかし銭湯の時にも思ったが、最近は本屋も進化してるんだな。本以外にも漫画のキャラみたいな玩具とか、カードゲームとか、いろいろ売ってやがる。入り口も『animate』とかいう青いオシャレな感じの看板だったし……ここまで工夫しなきゃ生き残れねぇんだな、最近の本屋って。
まぁ、それはさておき……桃太郎、どこだ?
モモキュンソードとかいう漫画があったが、明らかに子供向けじゃねぇっつうか、ぱっと立ち読みした感じ男性向けっつうか、なんかパチンコで見たことあるような気がするっつうか……これが一番桃太郎に近いってどういうことだよ!? そもそも子供向けの絵本コーナーがねぇじゃねぇか!
店員か? 店員に聞けばいいのか?
「おいアンタ、見かけねぇ顔だな」
また声かけられたぞ。ぱっと見た感じ私服のおっさんだが、店員か?
「何か用かよ」
「そういうわけじゃねぇんだが、珍しくてよ。さっきから見てたが、何を探してやがるんだ?」
「桃太郎だよ」
「……くっ、ははははは」
なんだ、こいつ。何笑ってやがるケンカ売ってんのか?
「わりぃわりぃ、そう殺気立つな。いやなに、あんまり面白かったんで、ついな」
やっぱケンカ売ってんだな? そうなんだな?
「ここに桃太郎なんて売ってねぇよ」
「……バカ言うんじゃねぇよ。こんなに本があるじゃねぇか」
「本は本でもここにあるのは
なに言ってんだこいつ、頭おかしいんじゃねぇのか?
「ところで、テメェどうして平日の昼間っから桃太郎なんて探してやがんだ? 仕事は?」
「テメェこそ、平日の昼間っから何してんだよ」
「自営業を営んでいてな、8時までは暇なんだよ」
夜の店ってヤツか。なんだかキナ臭いオッサンだぜ。
「まぁ、俺もそんなところだ」
「ほぅ、なんて店なんだい?」
「わりぃな、見栄を張った。実は無職だ」
「くっ、ははははは……こいつはいい。アンタ、最高だ」
俺は知っている。
嘘を重ねた先には、絶望だけが待っていると。
「なぁアンタ、もし働く気があるならウチに来ねぇか?」
「あぁ? 誰が夜の仕事なんてするかよ」
「なぁに、ただの定食屋だよ」
「居酒屋の間違いだろ。俺は煙草にも近付かねぇと誓ったんだ」
「ほぅ、なら安心しな。うちは全席禁煙だ」
……それは、悪くないかもな。いやしかし……。
「なんなら、桃太郎が売ってる店まで連れてってやるぞ?」
「詳しく話を聞こうじゃねぇか」
果たして、俺は桃太郎を含む数冊の絵本とオッサンに勧められた少女漫画、それから漢字ドリルとノート、筆記用具、辞書を持って帰宅した。
「みさき喜べ、いろいろ買ってきてやったぞ」
部屋の隅で枕を抱えて虚空を見つめていたみさきは、俺が手に持った本を見ると目を輝かせた。
……ふっ、あの顔を見られるだけで、買ってきたかいがあったってもんだぜ。
「……よめない」
「漢字ドリルって書いてあるんだよ。これで漢字の勉強をしやがれ」
「……べんきょう?」
「なんだ、知らねぇのか?」
こくり。
「マジかよ。ええっとだな、知らねぇことを新しく覚える。この場合なら、みさきが漢字を覚えることを勉強って言うんだよ」
「……いま、べんきょうした?」
「ああ、そうだな。勉強って言葉を勉強したな」
「……ん」
おお、なんだか嬉しそうだぞ?
よっしゃ見てろ、やる気を出させるのは得意分野だぜ。
「みさき、俺思うんだよ。漢字読める人って、かっこいいなって……」
「……かっこいい?」
「ああ、超かっこいい」
「……ぎゅって、したくなる?」
「ああ、ぎゅってしたくなる」
「……ん」
勢いで返事したが、どういう意味だ?
まぁ、やる気は出たっぽいから、いいか。
この日、みさきが勉強を始めた。
ノートの使い方も知らないみさきだったが、教えると直ぐに覚えた。
熱心な姿でノートに書き込みをするみさきを見ながら、俺はまた、昔のことを思い出した。
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