第4話 銭湯に行った日
目的地に到着したのは、八時を少し過ぎた頃だった。営業時間は十時までだから、まだまだ余裕がある。
唯一の懸念は、みさきが睡魔に負けないかって点だったんだが、見た感じケロっとしている。ガキのクセに夜更かしは平気らしい。昼寝でもしてんのか?
さておき、馬鹿みてぇに人が多い。
どうやらピーク帯に突入したらしい。
列に並んでチケットを購入し、みさきと逸れないよう注意しながら脱衣所へ向かった。もちろん男湯だが、まあ五歳のガキなら問題ねぇだろ。
開いていたロッカーに荷物を突っ込んで、せっせと服を脱ぐ――くいっ。
ズボンを引っ張られたので目を向けると、みさきがバンザイしていた。
「どした、テメェじゃ脱げねぇのか?」
こくこく。
「たく、あんま動くなよ」
ほんと、なんにも出来ないガキだな。
まあ、何も教えられてねぇってことか。
いや、歯磨きは知ってたな……ああ? 何が基準なんだ? 歯は磨けて服は脱げねぇっておかしいだろ。それとも、これくらいのガキは服が脱げなくて当たり前なのか?
「……まだ?」
「おう、わりぃわりぃ」
みさきの服を引っ張ると、キツイ臭いが鼻を刺激した。新しい服を買ったのは正解らしい。
ガキの頃、聞いたことがある。
鼻は慣れるものだ。でも忘れっぽくて、風呂に入っただけでリセットされちまう。
知識としては覚えていたが、まさか、これほど変わるとは思わなかったぜ。みさきが部屋に入った時に嫌そうな顔してたのも納得だ。
「よし、行くか」
「……」
「どうした、なぜ俺の股間を凝視している」
「……なに?」
これなに? ってことだろうか?
「おちんちんだよ」
「……おちんちん?」
「(知らない人1)おい、あいつ娘におちんちんって言わせてるぞ」
「(知らない人2)マジかよ、レベルたけぇな」
やばい、死にたい。
「……れべる?」
「後で教えてやる。とにかく風呂行くぞ、風呂」
こくこく。
みさきは俺の息子をガン見しながら頷いた。
「とりあえず、見るのやめろ」
「……ん?」
「いいかみさき、いい女はおちんちんを見たら恥ずかしそうに目を逸らすんだよ。分かったか?」
「……んん?」
「はい、恥ずかしそうに目を逸らす。せーの」
「……んー?」
と眉を寄せて真剣な表情でみさき。
「……おてほん」
「それは、流石に……」
「……おてほんっ」
強く言って、ぷくっと頬を膨らませた。
……おい、さっき俺にレベル高いとか言ったバカ見てるか? レベル上がったぞ。
「上等だ、見せてやるよ」
敵が強ければ強い程、乗り越えた時に得られる経験値は大きい。
ふっ、俺はあえてレベルを上げたのさ。
より大きな経験値を得る為にな!
「よし、じゃあ、行くぞ」
「……ん」
覚悟を決めた俺は素早く屈んで、みさきの股間を見た。
穢れを知らない白い肌に包まれた無垢な蕾は――あ、やべ、なんか普通に恥ずかしくなってきた。
「……ん」
お? なんか伝わった?
みさきはコクリと頷いた後、また俺の息子を凝視する。それから口を一の字にして、俯きながら少し頬を染め、ゆっくりと顔を逸らした。
「……どう?」
と得意気な表情でみさき。
え、さっきの俺こんな感じだったの?
「……合格だ」
俺は何か大切な物と引き換えに、グッと拳を握りしめて喜ぶみさきの姿を見た。
……割に合わねぇ。
そんなこんなで浴場へ。
銭湯といえばデカイ風呂がひとつって印象だったが、最近はそれだと客が取れないのか、なんかいろいろある。サウナーとか、水風呂とか、なんちゃらの湯とか。ちょっと豪華な温泉みたいな充実っぷりだ。
沢山の湯を前に、うずうず体を揺らし始めたみさきの手を引いて、シャワーのある場所へ向かった。
「……おふろ」
「体を洗うのが先だ。覚えとけ」
「……ん」
素直に頷いたみさきを椅子っぽい物に座らせて、慎重に蛇口を捻る。
さっき来た時すげぇ熱くて後悔したからな。みさきを火傷させたら大変だ。
そう思いながら自分の手で温度を調整して、ふと気が付く。
「みさき、これくらいでいいか?」
「……あつい」
「これくらいか?」
「……ん」
やっぱりだ、俺とみさきじゃ感覚が違った。
……ふっ、こういう気遣いが出来る俺、ほんと有能だぜ。
「じゃあシャンプーするから髪濡らすぞ」
「……ん――んんっ」
「ど、どうした!?」
髪にお湯をかけた途端、みさきが両手を上げて抵抗した。
「……あつい」
「いやでも、さっき手で確認して平気って……ハッ」
馬鹿野郎! 手と頭じゃ感覚がチゲェじゃねぇか!
「すまねぇみさき……まずは肩、次は首、それからようやく頭だよな……そんなの、常識だよな」
ぼんやりとだけど、まだ親が風呂に付き合ってくれていた頃、そんな感じの気遣いがあったような気がする……くそっ、俺はなんて無能なんだ。
仕切り直し。
順を追ってみさきの短い髪を濡らしたあと、シャンプーを両手に装備した。それをみさきの髪に当て……ど、どうすればいいんだ?
やばい、他人の、しかもガキの髪なんて洗ったことねぇよ。自分の時と同じ感じでいいのか? いやでも、痛がったらどうする? ……よし、ここは優しく、ソフトタッチで行こう。
「……っ」
「どうした、痛かったか!?」
「……くすぐったい」
「そうか、もう少し強くするな」
「……ん」
なんだよこの緊張感、こんなの組を抜ける時にボスとやりあって以来だ。
……みさき、こいつやっぱ、ただ者じゃねぇ。
「目をあけるなよ」
「……ん」
針の穴を通すような緊張感の中、なんとかみさきの髪を泡で包むことに成功した。
「……なまえ」
「あ? パパでいいよ、パパで」
「……なまえっ」
「なんだよ、パパでいいじゃんかよ」
「……やだ」
「たく……龍誠だ、かっこいいだろ?」
「……ようせい?」
「龍誠だ。りょ、う、せ、い」
「……りょーくん?」
「好きに呼べ」
「……りょーくん」
「おう」
「……りょーくん、おてて、おっきい」
「大人だからな」
「……おおきく、なる?」
「ああ、大人になったら大きくなる」
「……りょーくん、くらい?」
「いやいや、ここまで大きくはならねぇだろ」
あ、あれ? なんか拗ねた?
「……シャンプー、へた」
なんか怒った!?
「別にいいじゃねぇか。小さい方が可愛いだろ」
「……かわいい?」
「おう」
「……ん」
よし、機嫌なおった。
「それじゃ、髪流すぞ」
「……ゆっくり」
な、なんだ、どういう意味だ?
ゆっくりも何も、ジャーってシャワーかけるだけじゃねぇのか?
「おぅ、任せとけ」
やっべ言っちまった。
どうする?
どうすればいい?
「……まだ?」
ゆっくりって言ったじゃねぇかよ!?
いいぜ分かった。さっさとシャワーぶっかけてやるよ!
「……んんっ」
「わりぃ、熱かったか!?」
「……へた」
「すまん!」
ちくしょう! 全然わからねぇ!
そんなこんなで悪戦苦闘して、ようやく湯船に辿り着いた時の達成感は半端なかった。そこそこ熱い湯に肩まで沈んで、ふぅぅぅと息を吐く。なかなか気持ちい。
「……さげて」
「あ? 何を?」
「……ひざ」
「膝? こうか?」
「……ん」
少し膝を下げると、ぷにっとした柔らかい感覚に襲われた。
「……かたい」
何してんだこいつ……って、座りたいのか。そうだな、こいつの座高で座ったら息出来ねぇもんな。
「あっちの湯なら大丈夫なんじゃねぇか?」
「……ここ」
ここでいいのか。つっても、膝の上じゃ……まぁ、水の中だし平気なのか?
……分からん。本人がいいなら、それでいいか。
「……かべ」
「壁?」
また良く分からん暗号だ。どういう意味なんだ?
「……せなか、て」
んん? 壁、背中、手……あ、こうか?
「……ん」
みさきの小さな背中に手を当てると、これまた軽い抵抗が加わった。体を倒したかったらしい。
「……」
たく、気持ちよさそうに目を細めやがって……。
よし、これからは毎日連れてくことにしよう。
俺も風呂に入らねぇとみさきに臭いって言われちまうしな。
「……」
「……」
まったりとした時間が流れた。うっかり気を抜いたら寝ちまいそうだが、そうするとみさきを湯船に沈めることになるので気は抜けない。さりとて、眠気はやって来る。
……この感じ、いつ以来だっけ?
右手一本で支えられる小さな女の子をぼんやりと見ながら、ふと思った。
和やかというか、時の流れがゆっくりというか、よく分かんねぇけど悪くない気分だ。ここ数年、こんな感じでぼーっとしてる時間は多かったが……これは、全然違う。なんでだろうな。
よく分からないまま、俺達は閉館時間に追われて湯船から出た。
脱ぐのがダメなら着るのもダメらしく、バンザイするみさきに新しい服を着せた。
次に古い服の扱いに迷って、とりあえず服屋で貰った袋に入れることにした。多分、こいつは洗えばまだ使える。
そうして準備が完了し、外を目指したのだが、途中でみさきが足を止めた。
「どうした?」
みさきの目を追うと、そこにはゴミ箱があって、俺が捨てた服が残っていた。
「……りょーくん?」
「ああ、俺が捨てたヤツだな」
「……なんで?」
「なんでって、もう使えないだろ、あれ」
「……つかえない?」
「ああ、もういらないものだ」
「……いらない、すてる?」
流れに任せて返事をしようとして、言葉につまった。
いらなくなったから捨てる。それはみさきが持つ最大の地雷だ。
だが、ここでアレを拾ってどうする?
この先、何かある度に物を残すのか?
みさきの表情を見ると、くりくりした瞳を潤ませ、不安そうな表情で俺の返事を待っていた。その目には、期待の色があるような気がする。きっと俺があの服を拾うことを期待しているのだろう。きっと、そうすればみさきは喜ぶ。
……そんなの、意味ねぇだろ。
「ああそうだ。いらなくなったものは捨てろ」
裏切られた。
そんな表情をして、みさきは俯いた。
「俺達の手は二本しかねぇんだ。あれもこれも抱えてたら転んじまうよ」
みさきの頭に手を乗せて、乱暴に撫でる。
それから膝を追って、目線を合わせて、下手な笑顔を作った。
「だから、一番大事なもんだけ、心にしまっとけ」
「……いちばん?」
「ああ。感謝の気持ちだけは、絶対に忘れんな」
「……かんしゃ?」
「ありがとうってことだよ」
少し難しかっただろうか? それとも、単純に説得力が無かったからだろうか?
みさきは、よく分からないといった表情をしている。
……しゃーねー。
俺はゴミ箱の前まで歩き、クッセェ服に向かって、頭を下げた。
「ありがとうございました」
……こっぱずかしい。
なんだこれ、なにしてんだ俺。
「……ありがと」
声のした方を見ると、俺の隣で、みさきも同じように頭を下げていた。
それを見て驚いていると、みさきはゆっくり顔を上げて、微笑んだ。
それは、口元を少し緩めるだけの笑顔とは違う。目を細めて、本当に嬉しそうな顔をしていた。
だから俺は、あらためて思った――
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