第3話  禁煙した日

 朝だ。朝になった。

 ちょっと張り切ったせいか体が重い。


 この5年間見続けた天井をぼんやり見ながら、今迄の事を思い出す。


 突然現れたクソビッチに押し付けられたガキ――みさきを育てると決めた俺は、あいつを病院に預けた後で日雇いの肉体労働をして、1人の諭吉と2人の野口を受け取った。それを持って病院へ戻り、虐待がどうとか騒がしい医者に諭吉を叩き付けて、みさきを引き取った。ここで仕入れた無駄知識だが、保険証が無い場合の料金は医者が決めるそうだ。諭吉1人で済んで良かったと考えるべきか、ぼったくられたと考えるべきか……まぁ、とにかくガキを引き取った。


 帰り道、見事に1日で完治したみさきは俺の後をとことこ歩いていた。


 みさきはガキのクセに落ち着いていて、俺から話を振らなきゃ一言も喋らない。まぁ、喋っても単語がひとつかふたつ返ってくる程度なんだけどな。


 帰宅中、俺はコンビニに寄っておにぎりと水を買った。それをみさきに渡して、部屋で留守番しろと命じたあと、俺は連日の肉体労働に勤しんだ。


 家に帰ると意識を失うようにして眠った。

 これまで肉体労働なんて大した負担では無かったはずだが、少しだけ張り切り過ぎたらしい。


 そして翌日。

 体を起こして窓際に目を向ける。


 みさきは起きていた。

 いつも通り窓際に座っている。あの場所が気に入ったらしい。


「おはよう」

「……おは」


 ……なんか、何も変わってねぇ。

 そりゃ、1日で劇的な変化があるなんて思っちゃいないが、もっとこう、懐いてくれてもいいんじゃねぇの? てっきり「パパ大好きぃ!」って抱き着いてくるかと思ってたが手も繋いでねェよチクショウ。こいつ、親とは違って守備力高いのな。


 まぁ、気長にやろうか。


 というわけで朝の一服。

 ふぅぅ、今日も煙草が美味い。


「……げふっ」

「あん? どうした、また風邪か?」


 口を一の字にして首を振る。


「なら寒いか?」


 違うらしい。


「じゃあ何だ……って、コレか?」


 手に持ったタバコを揺らすと、みさきはこくりと頷いた。


 タバコは20歳になってからとか言うし、ガキにとってはきついのかもしれない。


「わぁったよ、外で吸ってくる」


 たく、なんで自分の部屋だってのに遠慮しなきゃいけ……いやいや、それが子育てだろうが。これくらいやってやるよ。


「……うぅ、外さみぃ」


 火だ、今すぐ火が必要だ。心の中で呟きながら、喫煙こきゅうを繰り返した。


 数分後。俺はタバコを地面に捨てて、しっかり火を消したあと、近くにあるゴミ捨て場から缶を拾って中に入れた。それから、冷たくなった手を擦りながら部屋に戻る。


「おう、これで満足か?」


 みさきは目を閉じると、すんと鼻を揺らした。

 直後、口を一の字にする。


「……くさい」

「なっ!?」


 衝撃だった。

 そりゃ、年々喫煙者の居場所は縮小しているし、無理なヤツは本当に無理なんだろうなって認識くらいはあった。だが俺は、そんなの知るかってスタンスで煙草を愛し続けていた。白い目で見られようと、逆に睨み返すだけだった。


 なのに、なんだこれは。

 みさきに「くさい」と言われたことによるダメージが、あまりにも大きい。


 一流のボクサーによる右ストレートを受けても動じなかった俺は、みっともなく床に膝をついた。


「やるじゃねぇか、テメェ将来有望だぜ」


 たった一言で俺をダウンさせるなんて、一部の連中が知ったら卒倒するぜ?


 ……おいおい、待て。

 俺はいま、なにを考えてやがる?


 ありえないだろ。こんなガキの言葉ひとつで、そんなこと――ふざけろ。


「上等だ、禁煙してやろうじゃねぇか!」




 と、大声で叫んだ4時間後。


「くっ、なぜだ……右手が、勝手に……」


 禁煙すると決意した直後、俺は持っていたタバコとライターをゴミ捨て場に全力投棄した。

 それから今日の仕事場へ向かい、そこそこ真面目に働いて、そして迎えた昼休み。

 俺は、自動販売機の前で苦しんでいた。


「クソっ、なんだこの力は……抑えるだけで、精一杯だ……っ!」

 

 落ち着け、抑える必要なんて無い。

 だって今の俺にタバコを買う金は無いのだから、ここで自販機のボタンを押したって何も起こらない。どうしたってタバコを得ることは出来ない。


「だがっ! ここで負けることはっ、俺のプライドが許さねぇ! うぉぉおぉぉお! 右腕ぇ! 静まれ! 静まりやがれぇぇぇぇ!」


 トンと、何かが肩を叩いた。


「あん?」


 振り返ると、監督役のおっさんが何とも言えない目で俺を見ていた。


「休憩、終わってるよ?」

「……ふっ、はははは」

「ど、どうしたんだい?」

「勝った……俺は、鋼の意思で誘惑を打ち払い、およそ1時間に渡る防衛戦に勝利した」

「1時間も、今みたいなことをしていたのかい?」

「ああ、辛い闘いだった……」

「そうか、頑張れよ」

「あざっす」

 

 俺はおっさんに礼を言って、仕事に戻ろうとして、失敗する。


「……何をしているんだい?」

「……分からねぇ。身体が、言うことを聞かないんだ」


 クソっ、なんだこれ。

 自販機から離れることが出来ない。

 まるでプロの柔道家に捕まった時みたいに、ピクリとも動くことが出来ない。

 それに、なんだかどんどん苦しくなっていきやがる……。


「大丈夫かい?」

「……らく、しょう」


 息が、出来ない……煙草さんそを……ニコチンさんそをくれ。誰でもいいから、酸素を……。


「なぁ君、そこまでして禁煙する必要は無いんじゃないかい?」

「……なんだと?」


 無理をしている? 俺が?

 たかが禁煙で?


 ……いやいや、煙草を侮っちゃいけねぇ。

 煙草1個買うのに、だいたい500円。

 みさきの笑顔、300円。

 値段的には煙草の方が高価、価値があるってことだ。


 はは、なんだよ、煙草スゲェじゃねぇか。あんなガキなんかよりも優先度は上――


「馬鹿野郎!」


 自販機に頭突きすると、一瞬だけ視界が赤く染まった。


「や、やめなさい」

「止めるなオッチャン! 俺は、俺を殴らねぇと気が済まねぇ!」


 ふざけんな、まだ三日も経ってねぇぞ!?

 テメェはみさきを育てるって決めたんだろ?

 どんな試練だって乗り越えるって決めたんだろ?

 だったら、煙草なんかに負けるんじゃねぇよ!


「ほら、これ分けてやるから、吸っていいから」

「マジかよ!? あざ――いらねぇ! いらねぇよ! 俺を誘惑するんじゃねぇ!」

「いやいや、こっちは早く仕事してもらわないと困るんだよ。ほら、さっさと一服して、仕事に戻って」

「楽勝だ! 煙草なんて吸わなくても仕事は出来る!」


 今度こそ、俺は鋼の意思を持って仕事場に戻った。

 そして仕事を始めた直後、気付く。


 ……これは、煙草のにおい。


 そうだよ、自分が吸わなくても副流煙があるじゃねぇか。

 他人が吸ってるのを吸えばいいんだ! なんだよ天才かよ!


 ……ふぅ、生き返るぜ。


 


 そんなこんなで、俺は1日煙草を吸わなかった。

 帰宅し、ドアを開け、爽やかな笑顔でみさきを見る。


「どうだ、もう臭くないだろ?」

「……くさい」

「なっ!?」


 ば、バカなっ!


「そんなはずはねぇ! ほら、もっと良く嗅いでみろよ!」

「……」

「……やめろよ、そんな、そんな嫌そうな顔しながら逃げるなよ!」


 たまらなくなって、俺は部屋から飛び出た。

 

「なんでだ!? 俺は吸ってねぇ! 吸ってねぇのに!」


 …………あ、副流煙だ。


「馬鹿野郎っ……吸うか吸わないかじゃなくて、においが問題なんだろうが……」


 だが、解せない。

 そんなに臭うのか?


 すんすん。自分の服を引っ張って嗅いでみる。


 ……全然分からん。

 いや待て、まさか……そうか、そういうことだったのか。

 昔、自分のにおいは分からないと聞いたことがある。つまり、体中に染みついちまってるってことだ。


「……俺は、無力だ」


 道路の真ん中で、俺はみっともなく四つ這いになった。手に伝わるごつごつしたアスファルトの感覚が、まるで俺を拒絶しているかのようだった。

 くさい、そう聞こえたような気がした。


「あのぉ、どうしたんですか?」

「……俺、すっかり汚れちまっていたらしい」


 なんとなく返事したけど誰だ?

 顔を上げると、眼鏡をした黒髪の――あ、こいつ隣に住んでる地味女……って、ん?


「ええと、なんか睨まれてます? もしかして怒ってます? あ、わ、私なんかが声かけちゃまずかったですよね、はい、すみません」

「あんた、綺麗な肌してるな」

「あへ!?」

「なぁ、教えてくれないか」

「な、ななな、何を?」

「身体に染みついちまった汚れを落とす方法を」

「おおおお、お断りしまっ……え? 落とす? 穢すのではなく?」

「なんの話だ?」

「い、いえっ、さーせん。その、私、えと、とんだ勘違いを……そうですよね、そんな、私なんて、全然魅力ないですしね、ナルシスト乙って感じですよね。ふへへ」

「あ? よく分からねぇが、俺は綺麗だと思うぞ」

「……………………」


 なんかスゲェ勢いで後退された。気に障るようなこと言ったっけか?


「それで、あんたは何か知らねぇのか?」

「……ふ、普通に、お風呂に入ればいいのでは?」

「お風呂、だと?」

「ご、ごめんなさいっ、こんなこと真っ先に思い付きますよね!」

「あんた……もしかして天才なんじゃねぇの?」


 そうだよ、風呂に入ればいいんだよ。盲点だったぜ。


「名前は?」

「小日向、檀です」


 こひなた、まゆみ。

 覚えた。たぶん3日は忘れない。


「ありがとよ、今度なにかお礼させてくれ。じゃあな」


 


 というわけで訪れた銭湯。

 念入りに体を洗って、石鹸ひとつ使い切って、シャンプーも空にして、近くに居たおっさんに頼んで背中もごしごし洗ってもらった。


 ……完璧だ。これでもう、大丈夫なはずだ。


 確かな手応えを感じながら風呂から出て、服に手をかけたとき――事件が起こった。


「くっさ! なんだこの服くっさ!」


 しまった忘れてた!

 いくら体を綺麗にしても服が臭いままじゃダメじゃねぇかよ!

 クソっ、俺はなんてバカなんだ!?


 というわけで適当な店で安い服を買い(上下一式下着込みで2980円)、もう一度銭湯で身を清めてから着替えた。もと着ていた服は銭湯のゴミ箱に突っ込んでおいた。

 

 すんすん……よし、臭くない。


 これなら大丈夫だろ! 待ってろみさき!


「――くっさ! この部屋くっさ!」


 なんだこれ、ありえねぇ! 

 煙草とか、他にもいろいろ……はっ、そうか、みさきがこの部屋に入る直前、すっげぇ嫌そうな顔をしていたのはこれだったのか。なら、ずっと窓際に居るのもアレか? 少しでも新鮮な空気を吸うために?


「みさきぃ! 今すぐ部屋を出やがれ!」


 チクショウなんてこった!?

 俺はずっとみさきを拷問しちまってたのか!

 この悪臭はテロだ! 最低だ!


「すまん! こんなクセェとは知らなかった! 本当にすまん!」


 土下座。

 全力で、土下座。

 圧倒的……っ! 土下座……っ! 


 後悔と共に額で地面を抉っていると、やがて小さな手が俺の頭を撫でた。


「みさき?」

「……いい」

「許してくれるのか?」


 コクリと頷いて、すんすん鼻を鳴らす。


「……せっけん?」

「ああ、洗ってきた」

「……ずるい」

「なっ……そうか、そうだよな。お前だって風呂に入りたかったよな」


 こくりと頷いた。


「よし分かった、今すぐ行こう……と、その前に、この部屋どうにかしないとな」

「……ん」

「どうしようか……」


 と腕を組むと、


「……どうしようか」


 みさきも同じように腕を組んで首を傾けた。


 なんだよ……ちょっと可愛いじゃねぇか。




 それから俺は隣人――小日向檀のアドバイスでファ○リーズを購入し、部屋中を浄化した。

 もちろん脱ぎ捨ててあった服は全て処分した。


 その後、みさきを連れて服屋へ行き、とりあえず一式(4820円)購入した。

 この時点で残った金は野口が2人と小銭が少し。


 ……銭湯に入るくらいなら十分だが、みさきをピカピカにした後、また働かないとな。


 そんなことを考えながら、とことこ後ろを歩くみさきに合わせて、夜空の下をゆっくり歩く。


「……はぶらし?」

「あ? あぁ、そうか、そうだな。歯も磨かねぇとな」


 返事をした後コンビ二に立ち寄って、会計中にふと気付く。


 ……みさきが挨拶以外で声をかけてきたのって、初めてじゃねぇか?


 まぁ、あれだ。

 悪くない。

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