第2話 育てると決めた日
朝だ。朝になった。
あのガキを預けられてから24時間くらい経った。
「……なに考えてんだあのクソビッチ」
体を起こし、天井からガキに目を移して頭を抱えた。窓際に座っていたガキは眠そうな目で俺を見返す。
……まさか、マジだったのか?
中学で少し遊んだだけの相手にガキ押し付けて、言ったのは「あげる」とかいうフザけた言葉だけ?
ありえねぇだろ……クソっ、イライラする。あと腹減った。昨日から何も食ってねぇぞマジで。
「おいガキ、食いたいもんとかあるか?」
「……」
無視とかいい度胸してるなこのガキ、バッチリ目が合ってんじぇねかよ……って、まさかアレか?
「みさき、食いたいもんとかあるか?」
「……ごはん」
正解だよチクチョウ。名前で呼ばなきゃ反応しないとか本当に面倒だなこいつ。で、ごはんってなんだ? 白米でいいのか?
まぁいい、どうせコンビニだし適当に……ちょっと待て、金あったっけか? ……財布には千円札が1枚と小銭が少しで、金が振り込まれるまで6日。
「みさき、テメェ牛丼は食えるか?」
「……ぎゅうどん?」
マジで知らなそうな雰囲気で首を傾けた。
「おまえ今何歳だ?」
「……ごさい」
うそだろ5歳で牛丼を知らない?
「米と肉だよ。食えるか?」
「……おにく、すき」
食えるのか。てか、初めて笑ったな。300円で買える笑顔とか安すぎて笑えるぜ。
さておき、労働確定だ。
クソが。このガキさえいなけりゃ6日くらい余裕だってのに……あのクソビッチ次に会ったら覚えてろよ。
迅速果断。部屋を出ると、クソガキはふぅっと息を吐いた。それがタバコの煙みたいに空を昇るから、俺も一服しようとポケットに手を伸ばす。
「クソっ、あと5本かよ」
1日1本とか拷問かよ。
あのクソビッチ、マジで覚えてろよ。
不満たっぷりで牛丼屋まで歩き、1杯290円のミニと350円の並、ついでに子供用の椅子を注文した。数分後、届けられた椅子の上に座ったクソガキは、手元にある割り箸を無視して牛丼を見つめている。
「なにしてんだ、早く食え」
「……」
コクリと頷いて割り箸を握り締め、そのまま牛丼に突き刺した。
「箸の使い方しらねぇのか?」
「……ん」
「マジかよ……」
舌打ち混じりに店員を呼んで、子供用のスプーンをもらった。それをガキに渡して、まさかスプーンの使い方も知らないってことは無いだろうなと少しばかり緊張しながら見守る。果たして、スプーンの使い方は知っていたらしい。
「……あつい」
牛丼を乗せたスプーンを口に入れた直後、吐き出すようにして口から出した。バカだなーと思いながら見守っていると、ガキは再びスプーンを口に入れた。
ぎゅっと目を瞑ったガキは、一の字にした口からゆっくりとスプーンを取り出す。
「……おいしい」
嬉しそうに言って、二口目を口に運ぶ。
変わったガキだなと思いながら、俺も牛丼に手を付けた。特に美味しいとは思えない。
ガキは少し食ったら満腹になったらしく「……いっぱい」と一言。もちろん残りは俺が処理した。合わせて550円分くらいの牛丼を食った俺は、ガキを部屋に戻した後、公衆電話で知り合いに電話して日雇いのバイトを取り付けた。
午後3時、指定の場所で引っ越しトラックに拾われた俺は、顔見知りの運転手から制服を受け取って、荷物用のスペースで移動中に着替えを済ませた。それからクソビッチへの怒りを力に変えて仕事を続け、何個目かの荷物を運ぶ途中ふと考え込んだ。
……マジで迎えに来なかったらどうする?
直後、後ろからどつかれ思考を中断する。
わりぃ、ぼーっとしてた。そう言おうとして、しかし大きな音に口を閉じる。
「すみません!」
あーあ、なんかナヨナヨした新人が居ると思ったら、案の定落としやがったよ。しかもダンボールの中身が割れ物とかご愁傷様……って、俺のせいか? いや俺は悪くない。前を見てなかったこいつが悪い。
「まぁアレだ。ちゃんと謝っとけよ」
「すみません! すみません!」
「俺じゃなくて家主にだな……」
片手で荷物を抱え、もう片方の手で頭を掻いていると家主らしき怒鳴り声が響いた。
「ふざけんなよ、何してくれてんだよ!」
うっわ、めんどくさそうなガキだよ……いや、俺と同じ二十代前半か? ま、精神年齢の問題だ。俺も自分の持ち物壊されたら怒るだろうが、怒鳴ったりはしない。そもそも荷物なんて持ってないけど。とりあえず、このナヨナヨした男はご愁傷様。
「どうしてくれんだよ、おい、なんとか言えや!」
ガキは男の胸倉を掴んで言った。マジ切れしてるが、そんなに大切なもんが入っていたのだろうか?
怒る気持ちは分かるし、実際悪いのは此方側だから気の済むまで喚かせようと思ったが、男が手を振り上げたので俺は渋々止めに入った。少しくらいは俺のせいでもあるからな。
「まぁまぁ、本社が弁償しますんで、この辺で」
「そういう問題じゃねぇだろバカ!」
俺が掴んだ腕をブンブン振って、ガキが騒ぐ。
「騒いだって割れちゃったもんは戻って来ねぇだろ。諦めろクソガキ」
「おま、ほんとふざけんのか? なんだその態度は、こっちは客だぞコラ」
「バイトに客とか言われても知らねぇよ。とにかく諦めろ。ちゃんと弁償すんだから、それでいいだろ」
やれやれ、そんな気持ちで説得するとガキは黙り込んだ。
そして返事の代わりに拳が飛んできた。
ノーガードで受けたせいか口の中に血の味が広がる。
「一発は一発だぞ……」
俺の蹴りによってガキの身体が数メートル先の壁まで跳び、同時に俺の首が飛ぶことが確定した。
「……はぁ、こりゃ二度と引っ越しバイトは出来ねぇだろうな」
うんざりしながら、手に持ったままの荷物を床に落とす。鈍い音がした。
それから横でガクガク震えていた男に目を向けると、彼はビクリと肩を震わせた。
「俺のせいってことでいいから、適当に話しとけ。じゃあな、次は気を付けろよ」
捨て台詞を残して、監督役がトイレ休憩から戻って来る前に、俺は悠々と逃げ出した。
……クソっ、ただ働きかよ。
途中で電柱に八つ当たりしたことを後悔しながら数キロ歩いて部屋に戻ると、窓際にちょこんと座っていたガキと真っ先に目が合った。
……まだ迎えに来てねぇのか。
ドアを開けたまま、外を見る。
すっかり日は落ちていて、あれから二度目の夜を迎えたことを意味している。
大きく溜息を吐いて部屋に入ると、ガキが小さい声で言った。
「……おか」
そこで切るな、おかえりって言おうとしたのかお母さんって言おうとしたのか分かんねぇだろうが。
「ほらよ、晩飯だ」
もちろん金は無い。ガキに渡したのはゴミ箱から漁ったペットボトルを軽く洗って、水道水を入れ直した物だ。まぁ、飲まず食わずよりはマシだろ。
「……ありがと」
なんで嬉しそうな顔してんだこいつ。俺を見て怯えないどころか、礼を言って笑う余裕があるとか、ずいぶんと肝の据わったガキだ。いや怯えないのは俺の女みたいな
さておき、水を貰って喜べるって……。
「テメェ普段なに食ってんだよ」
独り言のつもりで呟いて、もう一本のペットボトルを開いて口の中に水を突っ込む。少しだけ傷が痛んだ。
「……つくえ」
「あ?」
「……たまに、つくえ、うえ、たべる」
なんだ今のは、暗号か? こいつ、まさか俺がバカだと思って試してやがるのか? 上等だ、解いてやろうじゃねぇか。
話の流れと、食べるというキーワードから察するに、これは飯のことだ。直前に俺が「普段なに食ってんだよ」と言ったから、それに対する返事と考えるのが自然だろう。
つまり、このガキはたまに机の上を食べている。
「……いやいや、そんなわけねぇ」
冷静に考えろ。机の上ってことは、つまり机の上にあるものってことだ。だが、普通は机の上にある物を食べるなんて表現はしねぇ。そう表現するってことは、こいつは自分の意思で飯を食べてるってことだ。その理由は、親から与えられていないから。つまり、答えはこうだ。
「たまに机の上に残っているものを食べている」
ご名答、そんな様子でガキは頷いた。
ひゃっほい見たか俺の推理力と騒ぐ予定だったが、そんな気は失せた。笑えない冗談だ。いや、まるで冗談に聞こえねぇけどな。そりゃ箸の使い方も知らないわけだ。
「……おかあさん、いつも、まさくん」
おいおい、男と遊んでガキを放置とかクズってレベルじゃねぇぞクソビッチ。まったく、このガキには同情するぜ。クソみたいな親の次はクソみたいな底辺の元に捨てられて、こんなボロアパートで最底辺の生活を強いられるとか人生ハードモードってレベルじゃない。ちゃっかり捨てられたと表現したが、まぁ確定だろうな。
分かったところで、俺に何かする義理なんてねぇんだけど。
なぜか俺の顔を凝視するガキを見ながら、俺は目を閉じた。
少し疲れていたからか、眠気は直ぐにやってきた。
夢を見た。
とても古い記憶を見た。
そこには俺が居て、俺の母親が居た。
彼女は俺に向かって、何か必死になって声をかけている。
俺は無表情のまま、ずっと同じ返事をしていた。
やがて彼女は諦めたように息を吐き、呟いた。
最低ね、本当に――
朝だ。また朝になった。
まともなケアをしなかったせいか、口の中が少し痛む。
「……クソっ」
朝起きて最初に口をついて出たのが呪いの言葉。
昨日クソガキから聞いた話のせいか変な夢も見るし、文字通り最悪の朝だ。
「……あ? なんだこれ」
イライラして唇を噛んでいると、ふと頬に違和感があった。
手を当てると、何か貼ってあるのが分かった。
「絆創膏か……あ? なんでだ?」
疑問に思った直後、窓際にちょこんと座っていたクソガキと目が合った。
……こいつか。
「おいガキ、これどうしたんだよ」
「……」
「みさき、なんだこれは」
「……けが、してた」
「やっぱテメェか。おい、これ何処からパクって来た?」
「……?」
「どこから盗んできたんだ?」
「……ちがう」
「嘘吐くんじゃねよ!」
「……ない」
おっとイケねぇ、泣きそうな顔してやがる。
クソっ、変な夢を見たせいだ。別にガキがどっかからパクって来たとして、そんなの俺には関係ねぇだろ。なのに、なんでこんなイライラしてんだ……。
「……あの」
「ああ?」
後ろから聞こえた女の声に振り向くと、ドアを開けて中を覗き込んでいた眼鏡で黒髪の地味な女が怯えたような反応を見せた。
あいつ、確か隣に住んでる……。
「何の用だよ」
「……その子、盗んでないですよ」
「あ?」
「そそ、それ、私が、あげたんです。はい」
「テメェが?」
ガキの方を見ると、コクリと頷いた。
地味女に向き直って、問う。
「なんでだよ」
「ええぇと、昨日ですね、深夜にですね? その子が、ケガしてるぅって、はい……その、ええ」
「分かんねぇよハッキリ言え」
「ええとっ、だからっ、私があげたので、盗んでないです!」
「そうかよ」
「あの、声が聞こえてきて、だからそれで」
「聞いてねぇよ、もういいから帰れ」
「は、はひっ、失礼しました!」
ドアを開けたまま、そそくさと逃げていった。
そこから入り込んでくる冷たい風を受けて、少しだけ冴えた頭で状況を整理する。
「……こんなのほっときゃ治るんだよ」
ガキに言えたのは、こんな言葉だった。
一度言ってしまったからには、もう他の言葉はかけられない。
……あーあ、ダッセェ。何ガキみたいなことしてんだよ俺。
溜息を吐きながら立ち上がって、ドアを閉めようとすると、後ろでクソガキが咳をした。
「はいはい、直ぐ閉めるっつうの」
ドアを閉めた後、ドンという音がした。そんなに強く閉めたかと首を傾げつつ、音が後ろから聞こえてきたような気がして振り返る。そこに、ガキが倒れていた。
「おい、どうした?」
傍に近寄って、ガキの身体を起こす。
酷く汗ばんでいて、呼吸も荒かった。
「大丈夫か?」
ガキは返事の代わりに、咳をした。
服越しに伝わってくる体温はとても高くて、とにかくマジで辛そうだ。
……どうする?
病院に連れていくのが無難な行動だろう。だが、それでどうなる? このガキがマジで捨てられていた場合、事情を知った病院が警察を呼ぶだろう。そしたら俺が警察と仲良く話をして、このガキはめでたく施設に入れられる。
なんだ、悩むことなんて無いじゃないか。それで解決だ。ここにいるよりも、あのビッチの元に戻るよりも、施設で善意に包まれながら育てられる方がいいに決まっている。少なくとも、最低限のラインまでは国が保護してくれるだろう。
最低限と最底辺では雲泥の差がある。
どちらが良いかなんて考えるまでもない。
それは、俺が一番良く知っている。
「……だい、じょう、ぶ」
「無理するな、寝てろ」
ガキはふらふらと小さな手を動かして、俺の頬に触れた。
「……きず、いたい?」
俺は言葉を失った。
大丈夫とは自分の事を言ったのではない。
このガキは俺に問いかけたのだ。俺を心配して、そう言ったのだ。
なんなんだこのガキ、どうして他人の心配なんて出来るんだ?
どう考えたって世界を恨んで泣き喚くのが自然だ。なのに、どうして……。
……いいのか?
「さっきも言っただろ」
……いやいや、否定した所で俺に何が出来る。
「こんなの、ほっときゃ治る」
……俺には子供を育てるなんて不可能だ。病院で見てもらう為の金すら持ってない。落ち着け、こんな同情は無意味だ。こんな感情、捨ててしまえ。どうせ俺には何も出来ない。
どうせ俺には――ふざけるな。そんなの、誰が決めた。
「今から病院に連れてく。もうちょっとだけ我慢しろ」
ガキを背負って立ち上がり、部屋から飛び出た。理由は簡単で、腹が立ったからだ。きっと今朝見た夢のせいで、昔のことを思い出したからだ。
「クソがっ! 舐めんじゃねぇよ!」
このガキの気持ちは、少しだけ分かる。
大人の都合で生を受けて、大人の都合で不幸になる。だけど何かをする力なんて無いから、どんなに頑張ったところで何も出来ない。
だからって、何もしないのか?
どうせ失敗するって分かってるから、やる前に諦めるのか?
ふざけるな……そんなの、絶対に認めない。
「上等だ、やってやるよ」
ガキを背負って街中を全力で走る。
奇異の目で見る馬鹿共を睨みつけながら、俺は真っ直ぐ病院を目指した。
「聞け! みさき!」
これは自分勝手な行動だ。
このガキに同情して、助けたいだとか、そんな思いは一切無い。結局、こいつは他人の都合で振り回されるだけだ。
だけど、それがどうした?
俺は好き勝手に生きているんだ。
何が正しいかなんて知るか。
俺は、俺のやりたい事をする。
「俺がお前を育てる! 世界一幸せにしてやるから、覚悟しやがれ!」
そのまま病院に着くまで返事は無かった。
だけど、ちゃんと届いたとは思う。
意味を理解しているかどうかは微妙だが、とにかく、俺は決めた。
ガキを病院に預けた後、受付の人に「明日には迎えに来るんで、預かっててください」と一方的に伝えて、俺は病院から走り去った。
ぜーぜー言いながら公衆電話を見付け、受話器を取る。
「……俺だ」
『俺って……龍誠か? テメェやらかしやがって、あのあと――』
「頼む! 今すぐ仕事を回してくれ!」
『……頼む? テメェがそんなこと言うのは初めてだな。何かあったのか?』
「うるせぇよ、いいから仕事を寄越しやがれ。あいつの為に、金が要るんだ」
『……はん、よく分かんねぇけど、いいだろう。1時間後に、いつもの駅まで来い』
「駅だな、分かった!」
受話器を置いて、電話ボックスから飛び出た。
とりあえずは、金だ。
病院っていくらするのか知らねぇが、ガキ1人を治すなら1万くらいで十分だろ、多分。問題は山積みというか、何が問題なのか理解出来ているかも怪しいが……。
「……なんだよ、面白いじゃねぇか」
天童龍誠、23歳。
月1万のボロアパートで暮らす最底辺の人間。
その生活に満足していて、特別な出来事なんて望んでいなかった。
だが、どうやら間違いだったらしい。
とにもかくにも。
この日、俺はみさきを育てると決めた。
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