第35話

 ゴクリと喉を通る液体。

 こんなにも美味いものを口にしたことがない。

 もっと飲みたくて更に牙を食い込ませようとしたその時、愛しい人の怯えた声が、僕の理性を引き戻した。


「の、乃亜…?」


 僕は、一瞬動きを止めると、慌てて旭の首から顔を離し焦って旭を見る。

 僕と目が合った旭は「ひっ…」と呻いて、その目に恐怖の色を浮かべた。


「乃亜…っ、おまえっ、目が…」


 僕はふらふらと立ち上がると、壁に掛けてある鏡に近づく。


「なんだ…コンタクトの意味ないやん…」


 鏡に映る僕の目は妖しく赤く光り、旭の血で真っ赤に染まった口端からは鋭い牙が覗いている。

 自分でもゾッとするおぞましい姿…。

 僕は旭に振り返ると、震えながら言った。


「旭…ごめん。ずっと黙ってたけど僕…人間ちゃうねん。最近まで知らんかったんやけど…吸血鬼なんやって…」

「は?なんだって?…吸血鬼?乃亜…おまえ、今みたいに人間の血を吸ってたのか…?」

「違う!そんなんしたことないっ!おじさんがそうならんように点滴してくれてたからっ!」

「父さん?父さんは知ってたのか?」


 旭が首を押さえながら立ち上がり、僕に近づく。

 僕は、旭が近づいた分後ろに退りながら頷いた。


「うん。僕は僕が吸血鬼やということをおじさんから聞いた。ショックやったけど、これからも人間として生きていきたいって言ったら『俺が人間を襲わせないようにするし、そんなことがあったとしても全力で止める』って言ってくれた…。でも…一番最初に、僕の大切な旭を襲ってしもた…ごめん…」

「…そうか。父さんは事情を詳しく知ってそうだな。帰ったら父さんに聞くよ。乃亜、今まで誰も襲ってないならそれでいい。一番最初に血を飲まれたのが俺で良かった。俺なら大丈夫だ。こんなの、蚊に刺されたようなもんだよ。さあ帰ろう」

「旭…」


 旭がまた一歩、僕に近寄る。

 首を左右に振りながら後ずさる僕の背中に、月島の身体がトンと当たった。


「乃亜くん、おめでとう。どうだった?初めての食事は。ほんの少しの吸血だけで、乃亜くんの身体から痛いほどの圧を感じるよ。ほら、背中の傷も少しずつ塞がってきてる。もう少し飲めば完全に治るよ?残念だけど、もう今までみたいな暮らしには戻れないよ?吸血欲を押さえるらしい点滴?そんなのももう効かない。これからは俺達と共に行動しよう」

「…わかった。あんたの望むようにする。だから、旭を早く帰して」

「ダメだっ!乃亜っ、一緒に帰るぞっ!」


 旭が僕の目の前に来て腕を伸ばそうとした瞬間、数人の男に押さえつけられた。


「何するんだっ!離せっ!」

「旭を離してっ!月島っ、早く旭を解放しろっ!」


 振り向いて月島のシャツを掴む僕に、月島が下卑た笑いを浮かべて言う。


「ごめんね、乃亜くん。君はまだまだ甘い。完璧に覚醒してもらう為に、宇津木くんには犠牲になってもらうよ」

「なっ?どういうこと…っ?」

「…やれ」


 月島が、顔を上げて命令を下す。

 旭を押さえつけていた数人の男が、牙を剥いて一斉に旭に襲いかかった。

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