第6話 7月19日
7月19日
どこか、海にでも行きたいなぁ。
洗濯物を干しながら、ぼーっとそんなことを考えていた。むしちゃんを海に連れて行ってあげたい。そういえばあの子、海を見たことがあるんだろうか。ずっとあの廃墟にいたんじゃ……。もしかしたら、海を知らないかもしれない。あ、そうだ。どこか田舎にでも行って、のんびり過ごすのもいいな…。
なんて、なぜこんなにも能天気におでかけの予定を立てているのかというと、そりゃあ明日から夏休みだからである。
「夏休み」……あぁ、なんと甘美な響きだろうか。
やっぱりいくつになってもこの一大イベントには心が躍る。夏休みといえば、何を思い浮かべるだろうか。海、祭り、花火、色んな色の‘‘夏‘‘が人にはあるだろう。僕にとっては、夏と言えばなにか、と言われて思い浮かべるものは、どれも決して華やかなものではない。
涼しい風に吹かれて揺れている、青い夏草たち。星空の下、ひんやり冷たい砂の上で、小さく輝く線香花火。そんな、静かな情景や思い出が、僕にとっての‘‘夏‘‘なのだ。
…………あっ。
今ふっと、思った。
あれは一体、どこなのだろう。子供のころの記憶に現れたあの田舎町の名前を、僕は忘れてしまっている。和歌山のどこか、ということは覚えている。うーーーむ、…ネットの力を借りてもわかりそうにない。
……えー…。電話するの…?このためだけに?
しかし、こればっかりは思い出しておかないといけないような、そんな気がする。腹を決めて、約半年ぶりに実家に電話をかけるのだった。
「……あ、もしもし。」
「信二?どうしたのいきなり…。」
母親の声だ。
「あ、いや、全然大したことないんだけどね、ちょっと聞きたいことがあって…。」
「…なによ?」
そんなに不審がらなくてもいいじゃないか。久しぶりの息子からの電話だというのに。
「あのさ、子供の頃、よく夏休みになったらじいちゃんの所に連れてってくれたじゃん。その町の名前を知りたいなと思って…。」
「…それ聞いてどうするの?」
「いいじゃんかなんでも…。とにかく知りたいんだ。」
「…有田川町よ。和歌山の。」
「有田川町。おっけ、ありがとう。」
「…ところであんた、ちゃんと学校行ってるの?」
「えっ、ま、まぁ、うん…」
「その様子だとまた行ってないんでしょ。まったく何のためにお金出してると思って」
「あーもうわかったから!それじゃあね。」
ガチャッ
…だから嫌なんだ。実家に電話すればいつもこうだ。やれ学校がどうだとかお金がどうだとか……
普段はほったらかしのくせに……。
ふと窓を見ると、どんよりと暗く、窓ガラスには水滴が滴っていた。…雨か。そういえばここしばらく雨が降っていなかった気がする。
……空は、誰かの代弁者なのかもしれない。眩しいほどの青空も、息が詰まりそうな閉塞感のする雨空も、人の感情に通ずるものがあるように思う。……この雨は、きっと今の自分なのだ。いつまでも果てしなく降り続け、そして気づけば、何事もなかったかのように普通の空に戻るんだ。
………それにしても、何か忘れている気がする。
……………。
「あっ!!洗濯物!!!」
______もうすっかり足に馴染んだ獣道も、雨のせいでぬかるんで歩きづらい。そういえば、なんであの廃墟はこんな山道の奥まった所にあるのだろう。昔はこの辺りも開けていたんだろうか。………いや、そんなことあるか?山が開発されて建物が立ち並ぶなら分かるが、その逆はあり得るだろうか?……また調べてみるか。
「……おーいむしちゃーん!来たよー。」
廃墟の外側から呼びかける。が、返事がない。
「…あれ?むしちゃん?」
シャッターを上げ、暗い一室を見渡す。
「……むしちゃん?むしちゃん!ちょっ…」
彼女は、ぐったりと横たわっていた。この身なりから、一瞬死んでいるのかと肝を冷やしたが、どうやら息はしているようだ。
「む、むし、ちゃん…。」
横たわる彼女に恐る恐る手を伸ばし、ゆさゆさと身をゆすった。
「………ん……あ、……来てくれてたんだ。」
「あ、よかった……寝てただけ?」
「うん、……あれ。」
「ん?どうしたの?」
「……私、いつのまに寝たんだろう。」
「…え。」
「それに、……なんだか不思議な夢を見たの。」
「ど、どんな?」
「なにか……田舎の町にいるの。それも、日差しの照っている真夏。」
……まさか。その風景には、心当たりがある。
「そ、それ、どんな夢だったの?」
「…私は、ただ夏を見ているだけ。そこに……入ってはいけない。まず、見えたのは…カブトムシと、セミ。」
僕は、それを知っている。
「川で、魚を釣っていた。」
それも知っている。
「縁側のスイカと、涼しい風に揺れる風鈴と蚊取り線香。」
それも、知っている。
「眩しいぐらいに空が青くて……大きな入道雲の下で、私は」
「男の子を見た。」
むしはびっくりした表情で、僕の顔を見上げた。
「え、なんで、知ってるの……。」
「……そりゃあ知ってるさ…。だって、その夢とまったく同じ風景を、最近よく思い出すからさ。そして……」
「…そして、なに?」
「……それは、僕の子供の頃の記憶だ。」
むしは目を見開き、小さく口を動かしている。‘‘うそ‘‘ ‘‘そんな‘‘ という声が微かに聞こえてくるようだった。
「本当さ。……これは、一体どういうことなんだろう。」
「……会ったことが、……ある?」
いつのまにか土砂降りになった雨が、より強くなった気がした。
雨の音の中、二人は夏の夢を見る。
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