第4話 7月17日
7月17日
……くん、……くんってば!
遠い所に出かけてしまっていた意識が、店長の声で引き戻される。
「あっ、す、すいません。な、なんでしょうか?」
「んもう、伊藤くんったらぼーっとしちゃって。あ、これ出しといてくれる?」
「あ、はい、了解です。」
昨日のその後を思い返していたら、つい仕事をおろそかにしてしまった。しっかりしなくては。
昨日は映画を見た後、興奮の冷めやらぬうちに感想を語り合った。
デロリアンがどうだとか、2が楽しみだとか、映画館帰りに寄った喫茶店で行われる、他愛もない映画感想会のような…そんなほんわかした、楽しい時間を過ごしたのだった。
…カシャン、カシャンと、チューハイの缶を棚に置いていく。一つ、また一つと積んでいくも、すぐにあの子のことを考えてしまう。…あぁ、完全にホの字だ。ちょっとうつつを抜かしすぎじゃないか、自分。…けれど、この気持ちは、決して間違ってはいないと思う。もっと楽しいことを教えてあげたい。あの子と、たくさんの思い出を作りたい。…二人で、夏を過ごしたい。この暑い夏を。……あと何度自分には夏が来るだろうか。70歳ぐらいまで生きられたとして、あと53回ほど…。いや、おそらくそんなにもないはずだ。歳をとってしまうと、夏という季節が、ただ暑いだけのものになってしまいそうな、そんな気がするのだ。
………もう二度と、この夏は訪れないのでは……。
_____「あ、お疲れ様です。上がりまーす。」 「はい、お疲れ様。」
仕事を終えると、いつも決まって、一旦帰宅しシャワーを浴びてからむしのもとへ向かうのが、ルーティーンになっていた。もうすぐ夜だというのに、外はまだ蒸し暑い。明らかに、自分が子供の頃より暑くなっている。……そういえば、子供の頃は夏休みになると決まって、自転車で知らない町まで冒険したっけ。あの時の好奇心や、体を突き動かす無邪気さゆえの探求心を、すっかり忘れてしまったように感じる。
暑さから逃げるように帰宅し、バスルームに駆け込んだ。シャワーを浴びていると、なぜだか子供の頃を思い出してしまった。
…お盆になると、一週間ほど祖父母の家に泊まることになっていた。当時の自分にとってはそれが一大イベントで、そのために夏休みの宿題を片付けるほどだった。
祖父母の住む町は、和歌山県にある絵に描いたような田舎町だった。行けども行けども田んぼが広がり、緑が生い茂る山々に囲まれている。夜寝るときは、山から蛙や昆虫の鳴き声がよく聞こえたものだ。
祖父に連れられて、カブトムシやセミを取ったり、川で魚を釣ったりもした。
疲れ果てて祖父におぶられ、家に帰ると祖母がスイカを切って待っていてくれて…
______カナカナカナカナカナ……………
ヒグラシの声を聞きながら、縁側でスイカを食べていると、ひゅうと涼しい風が吹く。
それに呼応するように、風鈴がちりんと鳴って、蚊取り線香の煙が揺れて…。
…夏の暑さなんて忘れて、一日中遊び続けた。まるで自分が、夏の主人公にでもなったかのように、田んぼの合間を駆け抜けた。流れる汗、草のにおい、眩しいぐらい青い空。そこを堂々と流れる入道雲。そして、……そして、………女の、子……。……え?
むし、ちゃん……?
____はっと気が戻り、シャワーを止め呼吸を整える。
ダメだ。これ以上は殺される。
………なぜ………なぜ、僕の少年の記憶に、彼女が……。
_____「おっす、来たよ。」
「あ、こんばんは。」
「うーん、やっぱりここはひんやりしてていいね。」
「うん、…ここはとてもいい所。」
「むしちゃんはずっとここにいるもんね。」
「そう。気づいたら…ここにいたから。」
……そうだ、きっと思い違いだ。むしちゃんはずっとここにいたんだ。あの田舎に、…いるわけないじゃないか。
「…むしちゃんはさ、…夏は好き?」
「…うん、好き。…ほら、よく聞いてみて。」
「え?聞いてって…。」
言われるままに耳を澄ますと、聞き覚えのある声がする。
「あ……ヒグラシ。」
「そう、ヒグラシ…いい声がするから…。」
「うん、たしかにいい声だ。」
いい声すぎるぐらいに。
「……どうしたの?信二くん…。」
「…分からない。なにか…締め付けられるんだ。胸が…この声を聞くと…。」
あぁ、聞きたい、いっそ聞いてしまいたい。
「それは…嫌いってこと?ヒグラシの声が…。」
「いや、そうじゃない。そうじゃないけど…」
「じゃあ、どうして…?」
「…終わりそうな、感じがするんだ。」
「終わるって……何が?」
「……夏が。」
二人を沈黙が襲った。ただヒグラシの声だけが、廃墟を取り囲んでいる。
…突如、少年の頃の記憶に現れたむしが、フラッシュバックした。
彼女は、笑いもせず、かといって怒りも悲しみもしない、そんな表情でこっちを見つめていた。
「……むしちゃん。」
少年の、夏の記憶に現れた、謎の少女。
「……はい。」
_______________「君は一体何者だ?」
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