第3話 7月16日
7月16日
遠くで蝉の声がする。時計の針は、12時を少し過ぎたあたりを差している。
あれから朝日が昇り、僕はむしに別れを告げ帰宅した。
それからベッドに沈み込み……それから先は覚えていない。
昨日はバイトを無断欠勤してしまった。連絡を入れなければ、とメールを開くと、すでにあちらから一通メールが来ていた。もしや、クビか…?と一瞬疑ったが、その心配は杞憂に終わった。
‘‘伊藤くん、昨日はどうしたの?なにか辛いことがあったなら、無理しないでね。皆心配してるよ。明日、来れるなら連絡してね。 店長より‘‘
あぁ、なんと優しいのだろう。何も言わずに仕事に来なかった奴に対する文にしては、滲み出る優しさがあった。
そうだ、考えてみれば、この町の人間は決して、町が持つ特有の陰鬱さや、頭痛がするようなノスタルジックに侵食されてはいなかった。
昨日までの僕のように。
…そう、今の自分は何かが、何かが違うのだ。昨日まであった、心にへばりついたヘドロのような感情が、今はすっかりなくなってしまったようだ。あれから随分時間が経ったのに、あの白い手の温もりを未だに覚えている。
ふと台所に目をやると、ガラスコップが水滴を垂らしていた。窓から入る、夏の太陽の日差しが、その水滴に反射してキラリと光った。
その一瞬の現象さえも、今は輝かしく、そして愛おしく思えてならない。
ようし、今日はいっちょ学校にでも行ってやるか!と意気込んだが、よく考えたら今日は土曜日だった。なんだか肩透かしを食らったような気もしたが、あることを閃き、出かける準備を始めるのだった。
出かけ際、バイト先に‘‘明日は行ける、無断欠勤して申し訳ない‘‘といった旨の連絡をして、駅へと向かった。目的地は、隣町のホームセンターだ。
最寄りの丸山駅は、階段を上って渡り廊下を通らなければ向こう側のホームに行けない構造になっている。僕はいつも、この渡り廊下の窓から見える景色が嫌いだった。檜川町が一望できるこの窓は、僕にとっては自分が置かれている現実をありありと見せつけられているに過ぎないからだ。
だが今は違うぞ。きっとここから見える景色は、今の自分なら違う風に見えるはずだ。
そういった気概で階段を上り、通路側の窓を覗き込んだ。
………結論から言うと、前とは見え方が違っていた。しかし、決していい意味ではない。
やはり、この町はどこか普通ではないのだろう。なにか、形容しがたい不気味さがあった。向こうの方に見える、傾斜に沿って段々と建てられたバラック小屋が、今にも音を立てて崩れてしまいそうな…。
こんな、山に囲まれた田舎町なんて探せばいくらでもあるだろうに、僕にはこの町が、どこか異常に見えて仕方がないのだ。
せっかく清々しい気持ちで出かけたのに、なんだか沈んでしまった。
まぁ仕方がない。気持ちを切り替えて、買い物に行くとしよう…。
___あの脇道に来ると、胸躍り、自然と笑みがこぼれてしまう。完全に少年気分だ。(まぁ実際少年なわけだが。)変わらず雑草が好き放題生えている道に足を踏み込み、あの廃墟へと向かう。
廃墟の前に立つと、びゅうと風が吹いた。火照った肌には気持ちがいい。高鳴る胸を抑え、シャッターをくぐる。
「やぁ、むしちゃん。おはよう。」
「うん、おはよう。…わっ、なにその大きな箱!」
「ふふふ、ちょっといいことを思いついてね。」
おもむろに箱の中身を取り出した。
「これ、ホームプロジェクターっていうんだ。」
「ぷ、ぷろ…?」
「ま、まぁ、映画とか観れる機械だよ。一緒に観ようと思って…。」
「映画…観れるの?こんな所で…。」
「それが観れちゃうんだよ!これさえあればね。」
百円ショップで買った白い布を壁に掛けて、ホームプロジェクターの電源を入れる。
「わっ!映った!」
「おぉ、案外綺麗に映るもんだな。」
「…なんだか、秘密基地みたい。」
「ははは、確かに。秘密の映画館かな?」
僕らは顔を見合わせて、ふっと笑った。
「さ、何観る?一応むしちゃんが好きそうなの色々まとめてきたけど…。」
何を隠そう僕は割と映画が好きなので、スマホに購入した映画が沢山あったのだ。
「わ、ありがとうこんなに…あ、これ…。」
むしが指差したのは、‘‘ザ・フライ‘‘だ。
「あぁ、これは…。」
「表紙にハエがいる。ハエが出てくるの?」
「いや、ハエになっちゃうんだ。男の人が…。」
「え、‘‘変身‘‘みたいな感じ?小説の…。」
「いや、まぁそうっちゃそうなんだけど…。グロいんだ。結構。」
「あ、そ、そうなんだ…。じゃあ、また今度にしようかな。」
「はは、そっか。勇気が出たら一緒に観る?」
「ふふ、うん、そうする。……あ、これ面白そう。」
次にむしが興味を示したのは、‘‘バックトゥザフューチャー‘‘だった。
大人から子供まで楽しめる最高の映画だ。これなら最高の映画体験になるだろう。
「お、それいいよ。大好きな映画だ。」
「やっぱりそうなんだ!うん、これ観たい!」
虫出てこないけどいいの?と言いそうになったのをぐっと抑える。何でもかんでも虫が好きだと思うなよ。
「よし、じゃあ観よっか!」
スマホとプロジェクターを繋ぎ、映像をスクリーン(布)に映し出す。
有名なテーマソングが流れ、ついに映画が始まった。
むしと僕は、昨日のように身を寄せ合って、スクリーンに目を奪われていた。
外は、僕たちに気を使っているかのように静かだった。
薄暗い洞穴のようなこの一室が、今や映画を観るのに最適な暗さとなっていた。
__二人しかお客がいない小さな映画館が、森の中にオープンしたのだ。
…ふと、スクリーンに夢中になっているむしの横顔にちらりと目をやった。
なにか、…可愛らしい顔であることは間違いないのだが、どこかその…そうだ、‘‘朧げ‘‘だ。なかなか言葉が出なかった。この子の顔、いや、顔だけでなく、この子の持つ雰囲気全体が、どこか朧げさを醸し出していた。
まるで、……まるで、この世のものじゃ…ない、ような…。
ほぅ、とむしが一息ついたのに気づき、ハッとスクリーンに目をやった。
映画はすでに最初のタイムスリップに突入しており、僕も集中して観ることにした。
そうだ、この子の雰囲気がどうだとか、どうでもいいじゃないか。この子が楽しそうにしてくれれば、それでいいのだ。
それで………。
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