第2話 7月15日

7月15日


じっと天井を見つめ、昨日あった出来事を反芻していた。

果たしてあれは現実だったのか。もしかしたら夢だったんじゃないか。

ベッドに寝っ転がりながら、同じようなことをぐるぐると思いめぐらせる。

ふと時計に目をやると、すでに9時過ぎを指していた。さて、どうしたものか。

学校に行くにはもうとっくに遅刻だし、かといってバイトも夜からだ。

…今日もいるのかな。

もしかすると、僕のことを待っていてくれてるんじゃ…

唐突に、昨日の彼女の言葉を思い出した。

「いかないで」

…どうしてあの子は僕を呼び止めたのだろう。

久しく人に会っていなかったからだろうか。それとも…

…とにかく、今は彼女のことをもっと深く知るべきなんじゃないだろうか。

なぜだか自分でも驚くほどに、彼女のことばかり考えている。

いよいよ居ても立ってもいられなくなって、鞄に少しのおみやげを詰め、外の世界へと繰り出した。


外は相変わらず蒸し暑く、太陽が責め立てるように照っている。

あの脇道は昨日と変わらず雑草が生い茂っていた。

廃墟に近づくにつれ、心臓の鼓動が高鳴るのを感じる。

なぜだ。なぜこんなにも僕は緊張しているのだ。いや、この胸の高鳴りは、緊張とはまた違う。

これは……これは、もしかして。

ハッと顔を上げると、廃墟の目の前だった。昨日来たばかりなのに、不思議と何年も住み慣れた場所のような、懐かしい気持ちに襲われる。

ふう、と一息つき、シャッターをくぐる。

やはり中は別世界のように肌寒い。薄暗い空間の中に、…いた。

彼女は僕を見るなり、絹のように綺麗で、そしてか細い声でこう言った。

「…また来てくれたんだ。」

「うん、昨日約束したからね。」

彼女、…むしの隣に腰を下ろし、ぽつぽつと話し始める。

「あ、おみやげ持ってきたんだ。これ、よかったら…」

鞄からいくつかの箱入りお菓子と、家にあった本を出した。

「…ありがとう。」

「あ、あと、これもよかったら使ってよ。」

次に取り出したのはスタンド型電球だ。この薄暗い中での読書は至難の業だろうと思い、押し入れの奥にあったものを引っ張り出してきたのだ。

「………。」

むしは黙り込んで下を向いていた。…もしかしたらお節介だったかな。

そんな一抹の不安をよそに、むしは突然口を開いた。

「あ、これ…。」

むしは黙りこくっていたのではなく、本を吟味していただけだったようだ。

興味を示した一冊は、フランツ・カフカの「変身」だった。

「表紙に虫がいる…。」

「あぁ、それはね、主人公の男が虫になっちゃう話なんだ。」

「えっ、虫に?すごい…。」

僕はハッとした。もしかして、この子が自分のことを「むし」と名乗るのと、虫に興味を示すのとが、何かしら関係があるのではないか。もう少し探りを入れてみることにした。

「虫が、好きなの?」

「……うん、なんだか、そうだった気がする。」

「やった、一つ思い出したじゃん!」

「でも、どうして…どうして、こんなに虫に惹かれるんだろう。」

「…そういうものなんじゃないかな。何かを好きなったり、興味を持ったりするのって。どうしてかなんて、明確にはわかんないよ。」

僕にとっての君みたいに。と言いそうになるのを抑え、次の質問に移る。

「そういえば、むしちゃんってずっとここにいるの?」

「うん。朝から夜までずっと。」

「じゃあ、ごはんとかどうしてるの?」

むしはしばらく黙り込み、なにかに気づいたようにバッと顔を上げた。

「あっ…そういえばそう…私、ここに来てから何も食べてない。」

「え⁉ここに来てからって…どのくらい?」

「分からない…けど、全然お腹が空かないし、食べたいとも思わないの。」

「そ、そんなことって…。」

あまりに予想外な返答に、僕の頭は再び混乱の渦へと巻き込まれた。

「あ、ごめんなさい。これ、持って来てくれたのに…」

「ん、あぁ、お菓子?いや、全然いいよ、はは、うん。」

ついテンパってしまう。なんなのだこの子は。不可解なことばかり言うのに、とても気遣いができて、それが余計僕を混乱させる。

ついには二人して沈黙してしまった。

思えば無理があったのかもしれない。廃墟に住み着く少女が、自分にとって理解の及ぶ存在であるとする方が都合がよすぎたのだ。

そんなことばかり考えていると、ふと、か細い声が聞こえた。

むしが何か言ったのだ。完全に意識が内に向いていたので聞き逃してしまった。

「あっ、ごめん、なに?」

「あなたのこと、もっと知りたい。」

…一瞬硬直した後、その言葉に頭が追いついた。そうか、そうだよな。思えば自分ばかり質問して、この子の気持ちをおろそかにしてしまっていた。

「…そうだね、ごめん。こっちばかり聞いちゃって…。」

「ううん、いいの。私はただ、あなたがどういう人なのか、知りたいだけ。」

「…僕は…そうだな、強いて言うなら、いっぱしの高校生だよ。…特にやりたいこともない。対して勉強もできないし。秀でた才能があるわけでもない。僕は…」

僕は、なんなのだろうか。むしに聞かれて、自分の空虚さや、虚しさを、再確認してしまった。

「…ごめん。わかんないや。自分が何者なのか…。人にあれこれ聞いておいて、自分がわからないなんて…。」

僕は、なぜここにいるんだろう。

そう言いかけたときだった。

「私たち、似た者同士だね。」

ハッとむしの顔を見る。その顔は、微笑んでいた。それも、今まで会ったどの人間の笑みよりも、優しく、慈しむような…。

気づけば涙が出ていた。それほど自分は苦しんでいたのか、ということに今更気が付いた。

「…っ!ごめん、なに、なに泣いてんだ僕は…。」

「いいの。それで、いいんだよ。…私、君と見つけたい。本当の自分を。」

「…うん…うん。そうだね、見つけようむしちゃん。」

むしは、床に置いていた手を、ゆっくりと僕の方へ近づけた。

僕はそれに応えるように、その白い手の上に手を重ねた。


____どのぐらい時間が経っただろうか。

シャッターからはもう光が漏れてこない。バイトの時間はとっくに過ぎてしまっているかもしれない。…けど、それでもよかった。僕は、なにより大切なものに気づけたような気がしたのだ。

「…むしちゃん、今日は、…ずっとこうしていてもいいかな。」

「うん、…私も、こうしていたい。」


重ねられた手は、いつしか強く握り合っていた。

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