むし
sid
第1話 7月14日
____あれは、現実だったのか。
僕は大人になっても、あの夏を、たった一度のあの夏を、忘れることができない。
7月14日
暑い。
目が覚めていの一番に思うことはそれだった。
夏は好きじゃない。かといって嫌いでもない。僕はそういった中途半端な人間なのだ。
…そう、中途半端。
一人親元を離れてアパートで独り暮らしを始めたのも、別に自立心が芽生えたからとかではない。
ただ家の居心地が悪くて、半ば逃げ出したようなものだった。
今年で高校2年になるが、最近あまり学校に行っていない。
近所のスーパーで退屈なアルバイトをして、あと何日学校を休んだらマズいかななんてことばかり考えている。
それも別に人間関係が嫌になったとか、勉強についていけなくなったからとかではない。
…そんな明確な理由があった方がまだましだった。
ただなんとなく、30分近く電車に揺られて、夕方まで受けたくもない授業をやらされるのがどうしてもくだらなく、無意味に思えてならないのだ。
そんな中途半端な生活を送っている自分にも、ついに夏が来た。
かといってやることもないので、扇風機をつけて着替えを始めた。
果たして自分は今退屈なのだろうか。そんなことも自分で分からなくなるほど、僕は毎日を見失っている。
おもむろに鞄を引っさげて、外へと繰り出した。
今日はバイトも学校も休みだ。そんな日は決まって散歩をする。
散歩といっても、一駅ぶんぶらぶら歩くだけだ。(しかもそこまで距離がない)
途中で自販機でコーヒーを買ったり、スーパーに寄ったりするぐらいで、散歩はすぐに味気ないものになってしまう。
…ああ、この町のなんと空虚なことか。
周りは鬱蒼とした山々に囲まれ、あるものいえば小さな喫茶店やスーパーぐらい。
ここ檜川町に来てからというもの、充実感や満足感といったものを感じていないように思う。
もういいや、といった気持ちで自宅へと踵を返した。
もはや自分には喜びなんてない。だが悲しいという感情もない。
僕はこんなにも卑屈な性格ではなかった。この町が、いや、この町の空気が、きっと僕をそうさせたのだ。
今の僕は空っぽだ。
今の僕は空っぽだ。
今の僕は空っぽだ。
今の僕は……………
………下ばかり見ながら歩いていると、ふと、山に続く一本の脇道が目に入った。
はて、こんなところに道なんてあったかしら。
木が生い茂っていて、奥の方がどうなっているのかよく見えない。
しかし、明らかにそこだけ空気が違うのが分かった。
寒さとも、冷たさとも違うこの感じ…
…僕は、何故かその道に、突如として心を奪われてしまった。
どこに繋がっているのか分からないこの脇道。
空虚な町、空虚な自分。
突如として自分の目の前に現れた、雑草が生い茂るその脇道を進めば、何かが、何かが変わりそうな気がして…
……足を踏み入れると、雑草が触れチクチクとして痛い。
そんなに狭くはない道だというのに、随分長い間手入れがされていないようだ。
まだ先が見えない。木の葉の間から少しこぼれ出る太陽の光、雑草たちの青い臭い、なぜだかこの感覚が、この感情が、さらに歩を進ませるのだった。
「……えっ」
思わず声が出てしまった。
何かある。それも大きい。……建物だ!こんな山奥に何故。
もう少し近づいてみる。…どうやら廃墟のようだ。こんなに大きな廃墟があるとは知らなかった。高さからして三階はありそうだ。外壁はあちらこちらにひび割れがあり、窓は朽ちてしまっている。
「…あんたも一人なのか。」
木々が生い茂る中、独りぼっちで佇むこの廃墟と自分を重ねてしまう。
きっとこの廃墟は、この森の、この町の行く末を見てきたのだろう。
そう思うと、畏敬の念というのか、そういった感情に追われて、もっと深くこの廃墟を知りたくなった。
よく見るとシャッターが半分ほど降ろされている。
グッと身を屈めて、中を覗き込んでみる。
……その時だった。
「わああっっっっっ!!!」
…………いや、きっと違う。落ち着け、そんなはずはない。そりゃそうだ。
こんな鄙びた廃墟に、人なんているわけないじゃないか。
絶対に見間違いだ。
……けど、だけど、はっきりと見てしまった。
白い、怪しいほどに白い脚。それを包み隠すような白いスカート。
僕はこの目ではっきりと見てしまったのだ。
…死体かもしれない。本気でそう思った。
そうだとしたら大変なことじゃないか。と、なんとかもう一度中を覗く理由をつけて、もう一度シャッターを覗き込んだ。
……やっぱりある!どうする、今ならまだ引き返せる。…いや待て、そうだ、考えてみればどうでもいいことじゃないか。ここで僕が中を確認しなくても、後で警察に言えばいい。
わざわざこんなに勇気を振り絞ることはない。
今度は、見ない理由を必死で作り出し、シャッターから身を引いた。
……また、逃げるのか。
何も変えられないまま。
「いかないで」
心臓をぎゅっと握られたようだ。
そんなまさか、嘘だろう。声だ。誰の?
…信じたくないけど、この廃墟の主だろう。バカな。生きているというのか。
そんな得体の知れない廃墟の住人が、「行かないで」と言ったのだ。
それも、か細い、本当にか細い、消え入りそうな声で。
……僕はその場から動けないでいた。
どうする。このまま去るべきか。それとも…
……今ここで去ってしまったら、僕は今後一生色んなことから逃げ続けてしまうのではないか。
しばらく立ち止まって葛藤した。
___ザザザザ… ___ザザザザ…
ふと音が聴こえた。竹林だ。廃墟を覆うような形で生い茂る竹林が、風に吹かれて揺らいでいる。なぜだかその音が、僕に何かを訴えかけているような気がした。
……ぎこちない足取りで、また僕は廃墟と向き合うのだった。
シャッターは屈みこんでやっと中が見えるほどだったので、中に入るのに苦労した。
下手に上げようとするとどこかしらが崩れてしまいそうな雰囲気だったので、狭い間から身をねじ込んで中に入る。
…中はひやっとして肌寒く、薄暗い。
あちらこちらに蜘蛛の巣やトタン板、タイヤが無造作に置かれてあった。
まるで洞穴のようだ。そんな一室の真ん中に、壁にもたれた廃墟の主がいた。
……少女だ。そこには少女がいた。
見た目からして、僕と同じか少し下ぐらいの年齢に見える。
真っ白な髪、真っ白なワンピース、そして埃で汚れてしまった白い肌。
そのすべてが、僕から視界を奪い、そして心をも奪って、しばらくその少女を見つめたまま立ち尽くしてしまった。
少女はじっと僕を見ている。ピクリとも動かずにじっと。
何分ぐらい経っただろうか。先に口を開いたのは、意を決した僕だった。
「あっ、え、えーと…な、何してるの?こんな所で…」
少女は視線を落とし、しばらく黙り込んだ。
沈黙が恐ろしく気まずく、唾を飲む音さえ大きく聞こえる。
「…分からない」
「へっ?」
思わず間の抜けた返事をしてしまった。
分からない?分からないって…自分がなぜ廃墟にいるのか分かってないのか?
「は、早く帰らないと家の人心配しちゃうよ?家どこ?よかったら送るよ。」
見たところこの廃墟にいた時間は決して短くない。きっと両親は探し回っていることだろう。…しかし、そんな心配をよそに、少女から返ってきた答えは僕を驚愕させるものだった。
「……分からないの。私は、どこから来たの?どこへ行くの?」
…どうやら一筋縄ではいかないようだ。
僕は少女の傍に腰を下ろし、話を聞くことにした。
「…えっと、本当に、なにも分からないの?」
「…うん、気づいたらここにいた。」
「どのぐらいここにいるの?」
「…何回も夜が来たけれど、何日経ったのかは分からない。」
「そっか…えーと、あ、名前は?覚えてる?」
少女はまたしばらく黙り込み、そして、ハッとした顔で答えた。
「むし」
「…えっ?」
「むし…私は、むし。」
「むしって…」
少女はまた黙り込んでしまった。むし…虫?自分の、というより人の名前にはふさわしくないように思う。だが、この子がやっと答えをだしてくれたのだ。ここは受け入れることにした。
「そっか。じゃあむしちゃんだ。僕は伊藤信二。よろしくね。」
「うん。よろしく。…あの、えっと、…ごめんなさい。」
「えっ?なにが?」
「私…なんにも分からなくて…」
なんにも分からない。その言葉は、今の自分にあまりにも刺さる言葉だ。
「…大丈夫だよ。…僕だって、なんにも分かっちゃいないんだから。」
「…えっ、そうなの?」
「うん。この町に来てからずっと、自分がなんだか分からなくて…」
二人して黙りこくってしまった。だが、さっきほど気まずくはなく、むしろ居心地がよく感じている。
夏の暑さから逃れられるこの空間は、山中の避難所のようだ。
ここには僕たち二人しかいない。
ただ静かに、外の風に揺れる木々の音を聞いていた。
なんだかその音が、僕たちを包み、町から隠してくれているように思えた。
そうしてただ時間だけが過ぎてゆき、気づけば辺りは暗くなり始めていた。
「…ごめん。そろそろ行くよ。…あのさ、また、来てもいいかな。君が色々分かるようになるまで、話し相手になるよ。」
「…!うん。ありがとう。」
「それじゃあ、バイバイ。」
「うん。…またね。」
むしはにっこりと微笑んだ。その初めて見せる笑顔に、不覚にも少し心が揺らいでしまった。
シャッターをくぐり抜けて、帰路に就く。
…ふと振り返り、廃墟を見た。なぜだか、今にも消えてしまいそうな雰囲気だった。
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