第8話 それなりの『理由』があっての推しなのです

 あの頃の私は、本当に仕事に疲れていて。


 1日の労働時間が十数時間越えは当然。残業は残す方が悪いのであって、そんな効率の悪い奴に出してくれる手当などない。終電で家に帰れれば良い方で、それでもご飯を食べて風呂に入っていればいつの間にか日付は変わり、片手で指程度の時間後には、もう家を出る時間になっている。


 今日と明日の境界線があいまいで、一体どこまでが今日で、どこからが明日なのかわからない。平日も土日も祝日も、カレンダーに書かれた日付は皆平等で、『有給』は『休み』という言葉以上にファンタジーで非日常な呪文。それが、あの頃の私の現実だった。


 今にして思えば、社畜、という奴だったのだろう。でも、あの頃の私はそれには気づけなかった。気づかないままに社会という名の歯車のひとつとして、働き続けていた。


 それでもそんな社会の中でも生きて行こう、がんばろうと思えたのは、ひとえにトーチがいたからだ。


 乙女ゲームの男キャラとして生まれながら、物語のメイン核にはなれない、ヒロインとくっつくことのできないキャラクター。

 それでも彼は、どんなルートの中でも、己に与えられた役割を全うし、強く生きていた。


 乙女ゲームという世界観に潰されることなく、1人のキャラとして、グリム王国第一王子の身を守る者として、その信念を、理想を、主への忠心を高く掲げ、生き続けるトーチ。

 その彼の姿勢に、ただの社会を動かすだけの歯車になり欠けていた私は、久しぶりに泣いてしまった。


 久しぶりに――、自分が名もない歯車なんかではなく、ちゃんと生きてる人間だった事を思い出して、泣いた。


 そっからはもう、立派なトーチ・トライアンの女だ。

 仕事がどんなにつらくっても、家に帰れば、私はシンデレラになって、彼に会いに行ける。例え貴方と恋ができなくとも、貴方のお姫様になれなくても、貴方が強く生きるその姿が、私に生きる力をくれる。


 それが、あの頃の私が、あんな社会を生きていける一縷の理由だった――。


(――と言ってもまぁ、結局死んじゃってる事には間違いないんですけどねー!) 


 それも、ようやく念願叶って、ぴ〇しぶで掲載していた作品の中で一番人気だったトーチ×シンデレラの長編作、その完結を祝って作りあげた『総集編』という名の分厚い同人本を出す、イベントの前日での事だったと! マジ本当、世の中クソすぎますわーーーーーー! 


 あれ絶対、イベント参加の為に無理やり有給ぶんどった私に対する、上司の嫌がらせいのせいでもあると思うんですよね! 仕事量が倍々になる事は目に見えていたけど、有給前日の定時際になって、納期ギリギリの仕事を丸投げしてくるの、どう考えても嫌がらせ以外の何者でもなくない⁉ 


 オフで会う約束してた、数少ないトーチ推しのフォロワーさんとかいたのによー⁉ 生きてたら、労働基準監督署に訴えてやれたのになぁ! クソが!


 思い出したクソ上司の顔に、思わず脳内で親指を下に向ける。

 と、「シンデレラ様」と私に声がかけられたのは、その瞬間のことだった。


 ハッと我に返り、声がした方に顔を向ける。すると、案の定と言うべきか、そこにはトーチが立っていた。どうやら、いつの間にか男の人達との話は終わっていたようだ。「お待たせしてしまい、大変申し訳ございません」と、そう言葉を述べながらこちらに向かって頭をさげてくる。


「あぁ、ううん。いいですよ、そんな、頭なんて下げなくても。待つと言っても、そんな大した時間待ってないですし」

「……ですが、先ほどから私の所為で、こうして何度も足を止めさせてしまっております」


「先刻も眉間にしわを寄せていましたし……。シンデレラ様には、大変ご迷惑をかけてしまっているのでは……」とトーチが、キュッと眉を寄せる。険しく、どこか苦々しいしわが数本、彼の細い黒眉の間に刻まれる。


 あらやだ、どうやらクソ上司への溢れんばかりの憎しみが浮かんでいた顔を見られてしまったみたい。頭の中で回想いていただけの筈だったのに。

 いやー、これだから恨みって奴は、怖くていけないねぇ☆ あはっ☆


「いえ、あれはちょっとクソ上……、ごほん、嫌な事を思い出してしまっていただけなので、トーチとは全く関係ない事ですよ」


「お気になさらず」と、にっこりと笑顔を顔に作る。

 が、トーチの顔は晴れない。「ですが……」と言いながら、しょんぼりと肩を落としている。

 まるで自分の所為で主を困らせてしまった子犬のようだ。こんなつもりではなかったのに、と、そう悲し気に、しょんぼりと垂れる犬耳がその黒い頭の上に見えて来る気がする。


(うぅん! 落ち込む推し! くそかわ!)


 いやいや、じゃなくてじゃなくて。流石にそういう事を言ってる場合じゃないでしょうが、と脳内で1人ツッコミをしながら「本当にいいんですよ」と私は苦笑した。


「――だって、それがトーチでしょう」

「え」

「自分に声をかけてくれる人達1人1人をないがしろにせず、きちんと皆と向き合ってお話をして。自分が忙しくても、困っていれば思わず助けに入っちゃう。それが、私の知るトーチ・トライアンという男ですもの」


 むしろ、これで人々を無視して"私"との会話を選んできたら、解釈違いという名の爆弾で私の脳みそは死散していた事だろうし。解釈違いは推し女の地雷です。皆さん、気をつけましょう(何に?)。


(……そりゃあ、トーチに"私"をあまり意識して貰えない事が悲しくないと言えば、嘘になるけど)


 でも、そうやってついつい他人を優先しちゃうところを見るとね、あぁ、本当にトーチらしいなって思うんだ。これぞ、私が好きな推しだ! って、そう思える。


 まっすぐに揺らぐことのない。私が前世でも感じていた、トーチ・トライアンというキャラの強い意思が、確かにそこにある事を感じられるのだ。


 だから――、


「待つぐらい、全然どうってことないですよ。私は、貴方のそういうところが好きなんですから」


「だから謝らないでくださいな」そう言って、ニッ、と私はトーチに向かって笑いかけた。

 トーチが驚いたように目を見開いた。眉間のしわが解かれ、代わりにぱちぱちと、その夜の闇にも似た黒い瞳が数度、瞬きされる。


 予想外の反応に、思わず私の方もびっくりしてトーチを見返す。あ、あれ? 私、今、なんかまずい事言ったかな……? 「ト、トーチさーん?」と思わず、その顔の前で両手を振って、意識がある事を確認してしまう。


 と、


「貴方様は……、どうして……」


 ぽつりと、小さな声がトーチの口からこぼされた。

 が、正直、小さすぎて何を言っているのかよくわからない。なんと言ったのかと尋ねる為、再びその名を呼ぼうと口を開いた時だった。


「あ! トーチ師団長だー!」

「ほんとうだー!」

「おーい! 師団長―!」


 誰かがまた、トーチを呼んだ。トーチが、ハッと何か弾かれたかのように、びくりと肩を揺らして、声がした方へ顔を向けた。


 私もつられて声がした方へ顔を向ける。と、少し離れたところで、数人の子供達が手を振っているのが見える。手には木刀らしきもの。どうやら、どこぞの剣術の教室に通う子供達のようだ。トーチの姿に、嬉しそうに「おーい! おーい!」と手を振っている。


 トーチが困ったように笑いながら、手を振り返す。――その一瞬、彼の足が子供達の方に向こうとして止まったのを、私は見逃さなかった。


「いいですよ、行ってきて」


 にこりと、トーチに笑いかける。トーチが、顔から笑みだけを消し、困った表情を浮かべながら「ですが……」と私の方にふり返ってくる。


 まったく、これだから優しさって奴は。時には優柔不断になっちゃうのが玉に瑕なのがどうしようもないのよねー。


「いいから! 行くんです!」と立ち上がり、私はトーチの背中を子供達の方に向かって押し出す。「シ、シンデレラ様っ」と焦ったトーチの声が聞こえた気がするけど、有無を言わせず、ぐいぐいと押し続けていく。


「わ、わかりました、わかりましたっ、行ってきますからっ」


「直ぐ、本当に直ぐ、戻ってきますからっ! そこでお待ちしていてくださいねっ」と私の方にふり返ったトーチが、そう声を張り上げるように言った後、子供達の方へと駆け出していく。その後ろ姿に「はいはーい」と適当な返事をしながら、私は手を振りながら彼を見送った。


「まったく……。本当、どこまで行っても"いい人"なんだから、仕方ないなぁ」


 でもそれを言うなら、そんなトーチを好きになってしまった私もまた、仕方がない人の1人、という事なのだろう。

 

 まったく、人生と恋愛ってぇーのは、どうしてこうもままならないもなのかねぇ。ふっ、思わず熱くなっちまうじゃねぇか。


 でもまぁ、こうしていてもやることはないし、トーチが帰ってくるのをまた待ちますかねぇ。どうせだから、待ちながら、どうやったら誰にも邪魔されずにトーチの好感度をあげられるかについてでも、模索してみますかな。


(それにしても、初めて触れた推しの背中。思った以上に広くって固くって、筋肉質で引き締まってて……、ふひ、ふひひひひひひ……)


 こりゃあ、今夜は手なんて洗えませんなぁ――、そんなことを、ニヤニヤと考えながら、荷物を置いている方へ戻ろうと歩き出す。

 ――そうとした、次の瞬間だった。


 ガッ! と誰かの手が、私の鼻と口を塞いできたのは。


「!」


 え、と思ったのも一瞬。瞬きを一つしたその瞬間、鼻の中に嗅いだ事もない、濃い薬品臭が入り込んでくる。かと思うと、次第にうつらうつらと、自分の瞼と意識が暗闇に向かって傾き始める感覚を覚える。


(なに、これ……)


 どうしよう、え、待っ、誰か、助け――。


 薄れゆく意識の中、誰かが私の体を抱える感覚がする。体が揺られ、揺られ、ゆるりゆるりと暗闇が目の前の景色を飲み込んでいく。

 最後に見たのは、噴水の横、持ち主の帰りを静かに持ち続ける、荷物の山の光景で、

 ――そのまま、私の意識は暗転した。

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