志賀孝衛門 その3

 志賀孝衛門は夜半に目覚めて、その後、なかなか寝付けなかった。おフサの寝息を聞きながら、あれやこれや考え、まんじりともしなかったが、思い切って仏間で経を唱えようと思った。『どうも観音様を部屋から移したのが原因かな?』志賀孝衛門は仏間に移した観音菩薩が気になって眠れないのだと思った。

 仏間は、仏壇の灯明とうみょうで明るかった。そこに、素空が座して声を潜めて経を唱えていた。志賀孝衛門はドキッとしたが、素空と分かると後ろに座して黙礼した。

 素空は向き直って会釈えしゃくした。

 「志賀様、どうなさいましたか?」志賀孝衛門は、同じことを素空に尋ねた。

 素空は笑みを浮かべて答えた。「私は夜の静寂の中で、この家の人々の平安をお祈りしています。昼間は落ち着いて御仏に向かうことができません。この時間が心穏やかに御仏とお話しできるのです」

 志賀孝衛門は胸を衝かれるように感じ入り、素空への畏敬の念を益々深くするのだった。「素空様、夕餉ゆうげの後に仏間で経を唱えていたら、観音様が金色に輝いたそうですが、それは一体何故いったいなぜなのでしょうか?」

 素空は、孝衛門の眠れぬ訳が分かったような気がした。

 「志賀様、以前、お2人共金色に輝く観音菩薩像をご覧になったのでしたね?」

 素空の質問に、孝衛門が答えた。「はい、おフサも私もハッキリと2度見ました。いずれも、父母の死後に悲しみが癒えるよう、御仏が御慈悲を下さったのだと信じています」

 素空は、少し間を置いて答えた。「御仏の存在を信じる人の中でも、御降臨を目にすることができる人はほんの僅かです。概ね、御仏の降臨は、真に仏道を生きる人と、信仰に傾いた人を誘う時と、仏罰を与える時なのです。ご夫妻に金色の光を現したのは、お2人が正しい信仰心を持っておられると言うことに他なりません。さあ、私と一緒いっしょにお経を唱えましょう」

 そう言うと、素空は仏壇に向かい目を閉じ、一心いっしんに経を唱え始めた。

 素空の経は低く仏間の壁に吸い取られるように、外に漏れることはなかった。

 志賀孝衛門は、素空の声に思いを載せて、素空の後姿の、その向こうにある仏壇を覗き見た。その時、家宝の観音菩薩像が金色に輝き、仏壇から素空の傍らに立つほど大きくなった。志賀孝衛門は驚きのあまり仰天したが疑わなかった。素空の傍らに立つのはまぎれもない観音菩薩だった。

 志賀孝衛門は何かしゃべろうと口を開けたまま固まってしまった。金色の光は微かに輪郭を縁取るだけで、色とりどりの模様が浮かぶ衣に包まれて、赤い唇を柔和に開き、語り掛けるような素振りを見せていた。目が合った瞬間、吸い込まれるような感覚の中で気を失った。

 志賀孝衛門が目覚めたのは、素空の経が終わって間もなくのことだった。仏間で横たわる孝衛門を、素空が揺り起こし、気が付いた時には観音菩薩は消えていた。

 「素空様、私はハッキリと観音様を見ました。目と目が合った瞬間、吸い込まれて気を失いました。このまま召されても構わないと思いましたが、この世に戻ったようでございます」志賀孝衛門は力なく声をだしたが、それ以上は話すことができなかった。

 素空は、目を見開いたまま横たわる志賀孝衛門に語り掛けた。

 「志賀様は、御仏の御降臨に預かった数少ない人になられたのです。恐らく、志賀様のご臨終の際にまた現れ、志賀様をお連れすることになりましょう。その日まで、再度の御降臨にあずかれるかどうかは分かりませんが、信仰の炎を消さぬよう日常をお大切にお過ごし下さい。今、浄土じょうどへの道は開かれました」

 素空の言葉が終わる頃、志賀孝衛門は素空の前に正座するまでに回復した。この日の体験は、志賀孝衛門を更に信心深くした。

 それから暫らくすると、朝の光が天窓から注ぎ込み、廊下のあちこちで白い光の溜りができた。仏間は、金色の光に満ち、素空の経はまだ続いていた。

 志賀孝衛門は、ずっと気になっていることを素空に切りだした。

 「素空様、我が家のために御仏にお祈りして頂くのはありがたいことですが、お体をもっと大切にして頂かなくては心配でなりません。若さに任せて無理をなさらないようお休み下さい」

 「私は生きている限り、すべてのことを御仏に委ねています。先ず、この世の生はの生で、永遠に続く死後の生がまことの生であることを知らなければなりません。次に、この世にある時に、自分も、他人も幸せであらねばなりません。幸せでない人は、死後の幸福を知る術が分からず、その人の魂はこの世の生への悔恨や、人へのねたみ、猜疑心さいぎしんから逃れられなくなり、死後に罰を与えられるのです。生きている時のあり様が、後の世の幸福を左右すると言えるのです。御仏にすべてを委ねて生きている私は、誰より幸せなのです。そして、何より、人がそれぞれに持つ幸せの物差しを、早くに御仏の物差しと同じ長さにすることが肝心なのです。それは、自分よがりの幸せではなく、御仏の御心に適う幸せと言えましょう」

 雨戸がすべて開けられて、朝の光が部屋中に満ち溢れ、どの部屋も白く輝き始めた。僧達は朝の勤めをし、その後、朝食を頂き、弁当をもらって志賀孝衛門の屋敷を出て鳳来山へと帰って行った。

 志賀孝衛門は、9人の僧の後姿を見送っていた。傍らのおフサが、感慨深げに語り掛けた。「お前様、素空様は仏様のお遣いのようなお方でしたね。物腰もさることながら、何か特別なお力をお持ちのようでしたね」

 志賀孝衛門は、おフサの言葉にまったく同感だった。

 「おフサ、お前は幸せですか?」志賀孝衛門は、気になっていたことを口にした。

 「私は、とつぐ前も嫁いでからも、ずっと幸せでした。お父様にも、お母様にも大切にして頂きました。子にも恵まれ、孫もできました。何より、自分が御仏の証を目の当たりにしたことは、信仰の励みにもなりました。そして、素空様と仏間にいて、金色の光を見ることができました。一心にお祈りして、観音菩薩像がまことの仏様だと確信できました」

 「その観音様が、昨夜ご仏壇の前で実体となって、私の前にお立ちになりました。素空様のお経が、御仏の降臨を実現したのでしょうが、素空様の傍らで極彩色の衣を揺らめかせ赤い唇をしていました」

 おフサは、孝衛門を見上げながら、気になることを1つだけ尋ねた。

 「お前様、御仏はどのようなお方でしたか?」おフサは小声で尋ねた。

 「私はハッキリと見たのですが、素空様はご覧にならなかったようなのです。素空様はジッと目を閉じ、心の中でお経を唱えておいででした。仏壇の観音様が、金色に輝いた後、素空様の傍らをすり抜けて、そのまま大きくなって私の目の前にお立ちになったのです。色とりどりの衣は輪郭だけが金色に揺らめいて、羽衣はごろものようにしなやかで、軽やかで、つややかな風合いでした。お体はふくよかで、どっしりしていました。お顔やお体では、男か女かは分からず、多分どちらでもなかったかも知れません。お顔は見たようで、思い出せるほど覚えていないのです。でも、唇はべにを引いたように赤かったのですが、ご自身の唇の色だったようでした。私に語り掛けようと僅かに動いた時、仏様と目が合った瞬間、吸い込まれるような感じがしたかと思うと、気を失ってしまったのです。吸い込まれそうになった時、このまま召されてもいいと思いましたが、叶いませんでした」

 おフサは喜びの眼差しで孝衛門を見上げた。

 「お前様が極楽往生をしても、私は寂しいばかりです。ほんに気を失っただけでよかった。私は、お前様と2人で、もう少し長生きしたいのです」

 『おフサが居なければ、あの時召されていたのかも知れない』

 志賀孝衛門はこの時、慈悲で生かされていることに気付いたのだった。

 

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