志賀孝衛門 その2

 

今から35年ほど前、卯之助がまだ子供で、祖父と父が炭焼き小屋を作り始めた頃のことだった。卯之助は、父親より祖父に可愛がられていたこともあって、祖父の最後の仕事場だった炭焼き小屋を大切にしていた。楠の丸太を切出して、馬で引いて来た父と2人で組み始め、半年掛かりで建てた小屋だった。小屋のでき上がりを家族全員で祝ったのは、子供の頃の大切な思い出だった。

 卯之助は、祖父と毎日山に入り、小屋の整地から落成までをつぶさに見ていた。小屋近くのかまで炭焼きし、できた炭を小屋の中や、軒下のきしたまでいっぱい積み上げて、街で売り捌いた。炭は卯之助一家にとって貴重な現金収入で、薪とは比較にならないほど高値で売られたので、祖父が健在だった時の暮らしはかなり豊かだった。

 卯之助がこだわったのは、幼い頃からの思い出が詰まった小屋を壊し、建て替える理不尽への言い知れぬ感情だった。

 素空の読経が、卯之助のたかぶりを静め、心の平安をもたらすのにさほどの時は掛からなかった。卯之助は客間から出て庭の景色を眺めた。庭はよく手入れされていて、無音の風景の中に、読経の澄んだ声だけが胸奥に沁みた。感情に負けた後の虚しさだけが全身を支配していた。

 卯之助は客間に向かって尋ねた。「松石様、あの読経はどなた様のお声でしょうか?」

 「あれは、素空様のお声です。この度楠の良材で新堂の守護神を建立される仏師です。年若いお坊様ですが、御本山に上がった翌日に認可と法名を授けられ、御本山始まって以来の、異例の計らいを受けたお方です。噂では、御仏のお告げで名前を決められたと言われています。その素空様が、あなたの小屋の梁と柱をご所望なのです」

 卯之助は、すごい僧だとは理解したが、その言い方に更に理不尽を感じた。だが、静まった心からは、怒りの感情は消え去っていた。卯之助は暫らくぼんやりと考えていたが、素空とじかに話してみたいと思った。素空がそれほどの僧であれば、自分の気持ちをきっと分かってもらえると思った。志賀孝衛門と松石が諦めない以上、張本人に諦めさせるしかなかった。

 読経が終わり、仏間から遣って来た素空と対面してハッとした。年若いことは見るまでもなかったが、素空の持つ神聖さにたじろぎを感じたのだった。今まで目にしたことがない異人種のようだった。『人の世にこのようなお方がいるとは思いもしなかった』卯之助は物言うことが暫らくできず、志賀孝衛門に促されるままに、おずおずと語り始めた。

 素空は、卯之助の言葉を頷きながら聴き終わると、おもむろに口を開いた。

 「卯之助様のお心の内に、大切な思い出がおありとあれば、私共がこれ以上お願いすることはできないでしょう。鳳来山の新堂の守護神を建立するに当たって、鳳来山の精霊の宿る木が所望でしたが、私共は他を探すことにいたしましょう」

 卯之助はあっけに取られた。あの手この手を考えながら、素空を撃退してやろうと思っていたのだ。そうなると、素空があっさりと引き下がった訳が気になった。

 「この世のことは、すべて御仏の意のままなのです。御仏は、卯之助様のお心を大切にされるだろうと思ったまでのことでございます。人が無理を通すと、御仏の意に適わなくなるのです」素空の言葉は思いのほか単純だった。卯之助は、自分が承諾したらどう思うのか訊いてみたくなった。

 「卯之助様のお心のままに、私共は楠材を譲って頂くまでです。しかしながら、今はそれだけではすまなくなりました」

 「それはどのようなことでしょうか?」

 怪訝な顔で、卯之助が問い掛けると、素空は声音を変えて答えた。

 「卯之助様の思い出をお聴きした今では、その思いを深く受け止めなければ、梁も柱も頂けないと思うからです。御仏は、私に小さな試練をお与えになり、私はその試練を受け止めるだけなのです。卯之助様は一向いっこうに気になさらなくてよろしいのです。では、失礼いたします」素空は客間を後にして仏間に向かった。

 廊下を2間ほど進んだ時、客間の方から卯之助が声を掛けた。

 「あの、お坊様、お坊様にでしたらお譲りしてもいいと思います。ただ、祖父母と両親の菩提ぼだいをおとむらい下さいませ」

 卯之助の突然の変化に、松石と志賀孝衛門ばかりか、佐助、縞蔵まで唖然として目を見張った。素空は淡々と受け止め、深くお辞儀をして、卯之助の心変わりに感謝した。

 その夜、夕食後の雑談で、志賀孝衛門が一同いちどうに交渉の一部始終いちぶしじゅうを話した。松石も一同には話すべきだと思った。

 素空は、おフサに招かれて仏間にいた。おフサは気は良いのだが、わからないことや、不思議なことは口に出さずにいられない性分で、気になる不思議を素空に尋ねたところだった。

 「お内儀、ご両親が召された後に観音様が金色に輝いた時、御姿はご覧になったのでしょうか?」

 「はい、観音様は金色に輝き、光が消えるとそこに前と同じ観音様がいらっしゃいました。私は、その御姿こそ本当の観音菩薩様だと信じています」

 それを聴いて、素空が同意した。

 「それは、まさしくその通りだと思います。私が仏師を志したのも、地蔵菩薩じぞうぼさつの御目が動いたからなのです。それは、まことの地蔵菩薩だったと信じています。御仏の御心に適う御姿には、必ずや御仏の降臨が訪れるのです。ある時は金色の光となり、またある時は御姿そのままに降臨されるのです。また、信じる者には見え、信じない者には見えないのです」おフサは、仏間に祀った観音菩薩が、まことの観音菩薩だと言うことを確信した。

 客間では食後の歓談が続き、素空はおフサと2人、仏間に籠って経を唱え始めた。おフサは読経が始まると、天にも昇る心地で、素空の声を聴いた。素空の声は、胸奥にずしんと響き渡り、おフサを極楽浄土ごくらくじょうどいざなった。

 おフサは、本物の観音菩薩の前で仏の声を体で感じながら仏壇にぬかずいた。経の半ばを過ぎた頃、観音菩薩が金色に輝くのを見た。素空は目を閉じ、経に没頭しているようだったが、おフサは3度目の不思議にうろたえることなく、更に心を込めて経に専念した。

 やがて、経が終わると素空がおフサに向かって話し掛けた。

 「ご主人もさることながら、お内儀も信心深いお方でございます。私は経を唱えながらお2人と、お2人にとって大切な方々が幸せを享受できるようお祈りいたしました。観音菩薩は、お2人の幸せを見守って下さるでしょう。ご安心下さい」

 おフサは深々とお辞儀した。

 素空が、2本目の経を唱えだした時、松石始め8人の僧が、素空の周りに座した。暫らくして、志賀孝衛門が、家族や奉公人を引き連れて仏間に入って来たので、仏間はほぼ一杯になった。

 仏間は9人の僧達の読経によって重厚で荘厳な空気が漂い、続いて家人の敬虔けいけんな声が神聖さをかもしだしていた。経は松石達が加わってから、更に3本唱えられた。

 僧達にとっては、夜の務めに過ぎない極当たり前のことだったが、志賀孝衛門は先代の法事より僧の数が多く、何とも心地よく、喜びの多い1日になった。素空の声は他の僧とはまったく違い、胸奥に高貴な響きを感じさせた。

 家人は、昨日に続いて思い掛けず素空の読経を聴くことができて、この上ない喜びだった。やがて、すべての経が終わると互いに笑みを浮かべて何やらひそひそ話し合い、素空の姿を見ながらお辞儀をして、部屋の出口でもう1度頭を下げて出て行った。

 家人が退室すると、志賀孝衛門夫婦と9人の僧達が残った。志賀孝衛門は、仏間に茶を運ばせて僧達をねぎらった。

 「皆様、本当にありがとうございました。客間の次の間に床を延べさせていますので、今宵はゆっくりお休み下さい。それにしても、松石様、話しがまとまったとは言え、ホッとする間もなく建替え、げ替えの準備が大変ですね。よろしければ、近在の大工をお引き合わせいたしますが如何でしょうか?」

 志賀孝衛門の申し出に、松石は一存いちぞんでは決めかねると考えて言葉を濁した。

 素空は、志賀孝衛門に促されて口を開いた。

 「志賀様が存じ寄りのお方とあれば、申し分ないことでしょう。御本山では新堂の建築で、お抱えの大工は請け負えないと思いますので、なにとぞよろしくお願いいたします」素空の決断は速かった。

 松石は、永く興仁大師に付いていたせいで、自分の裁量で判断することが苦手になっていることを実感し、素空の決断力に感心した。居合わせた僧達も、それぞれの心の中で、日に日に素空の存在が大きくなって行くような思いだった。

 栄雪は、灯明の芯を買い出しに行った時、岩倉屋で感じた素空に対する畏敬の念が更に強く確固としたものとなった。

 

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