第10章 志賀孝衛門 その1
「松石様、お久しゅうございます。昨日いらっしゃったお坊様から伺っています」志賀孝衛門は客間で松石と向かい合った。
松石は丁寧に挨拶をすませると、早速用件を切りだした。
「孝衛門殿、昨日伺いましたのは、御本山の新堂の仏師で、素空様でございます。実は、卯之助殿の炭焼き小屋と、佐助殿のキコリ小屋をお譲り頂きたいと思いまして、お口添えをお願いに参りました。また、素空様は、縞蔵殿の小屋をご覧になっていますが、こちらにも良材があれば同様にお譲り願いたいと思います」
松石は、何時になく丁寧な言い回しをした。志賀孝衛門とは旧知の仲で、普段なら砕けた言い回しをするところだが、素空のための交渉ごとに、失敗をすることができないと言う、責任を感じていたのだった。志賀孝衛門は、いささか緊張気味の松石に、交渉が如何に重要なのかを感じ取った。そして、素空に敬意を払った言い方を不審に思った。
「松石様、承知いたしました。早速、使いを差し向け、
「素空様は、新堂の仏師です」
「そのことは先ほど伺いました。昨日お見えになった時、仏間で経を唱えて頂きました。素空様のお経の声が、何とも胸に染み入る響きをお持ちで、心穏やかになるお経でした。物腰が柔らかく、
「おっしゃる通り、素空様は御本山に上がった翌日に認可を受けて、素空と言う名を頂いたのですが、御仏が命名したそうなのです。御仏に愛された数少ない僧で、御仏の
六助達、3人の小男が使いから帰って来た。
それとは逆に、明智と、良円、淡戒の3人は、屋敷の外に出て周りの農地を見ながら、縦横1町(100m)ほどの
近在の百姓は、松石達西院の僧のお陰で、僧に気兼ねなどしたことがなかった。
『お寺に近付くことは、御仏に近付くことであるが、その前に僧が親しみ易く接することが信仰の始まりである』と、興仁大師に教えられていた。松石の人懐こい性格は、長年この辺りの村々の檀家回りをしてのことだった。
明智は、松石の人柄の良さはこの土地の人情に接することで、次第に形成されて行ったのだと思っていた。しかし、百姓の老夫婦と出会った時、松石がこの村の檀家に影響を与えていたことに気付かされた。
「お坊様、お疲れ様です。今日は松石様はお見えじゃねぇですか?あのお方が、わしらのような者にまで分かり易く説いて下さるから助かります。ほんに、優しいお方じゃ」明智は、これまで反抗していた老僧達とはまったく違った松石達、西院の僧の姿に心惹かれる思いだった。
素空が、志賀孝衛門の屋敷に着いた頃、明智、良円、淡戒の3人は既に客間で待っていた。素空は客間に案内され、中に入ると、松石と志賀孝衛門の
素空が、縞蔵の小屋の柱だけ
昼時であり、志賀孝衛門は昼食を勧めたが、皆は弁当があると
志賀孝衛門は上機嫌だった。
「これほど多くのお坊様がいらっしゃることは、滅多にないことでございます。まるで、私が御本山に参ったようです。これから、家の者達を呼んで参りますが、どうぞ、お始め下さい」そう言うと客間から出て行った。
志賀孝衛門は、手のすいた者達に、客間に行くよう勧め、女房のフサと一緒に客間に入った。客間に行く前に、上機嫌の孝衛門を見ておフサが言った。
「お前様、昨日からえらいご機嫌よろしいですね」
志賀孝衛門はニコニコと機嫌よくフサに答えた。
「昨日は、観音様を彫って頂いた玄空様のことを思い出したのです。素空様とよく似たお方でしたが、松石様のおっしゃるには、素空様はただならぬお方のようです。本当に、玄空様のようなお方です」
「お前様、お坊様方のご予定はどうなっていますか?お話が長引くようでしたら、お泊り願いたいのですが如何でしょう?」
志賀孝衛門はニッコリと笑って同意した。
「おフサが思っていることは、すぐに分かりました。今日は、うちの者に早仕舞いをさせて、全員揃ってお坊様達のお経を聞かせましょう」2人は客間に向かった。
客間で経が3本唱えられ、交渉が上手く運ぶように、志賀家と村の平安のためにと、客間は、暫らく
卯之助、佐助、縞蔵の3人が揃ったのは、
素空は仏間にいた。客間を松石に渡すと、他の僧は達は客間の次の間に移り、交渉の行方を確かめようとした。
おフサは、素空だけを仏間に案内して、観音菩薩を見てもらおうとした。おフサは仏壇から観音菩薩を降ろすと素空に手渡した。素空は、おフサから観音菩薩像を受け取ると、ハッとして目を見張った。
「お内儀、これはわが師玄空の手になる物と思いますが如何ですか?」
おフサは驚いた。「はい、この観音様は、その昔、鳳来山の御本山からお
おフサの言葉を聴き終わると、観音菩薩を仏壇に安置した。
おフサは思わぬ偶然に、暫らく素空の顔を見詰めると、過ぎた日の玄空の面差しが浮かんで来た。嫁に来て何年も経った頃で、来客も数多く様々な人とも出会ったが、思い出の中にしっかりと残るその面差しと比べていた。師弟と言う偶然より、面差しの似ていることに驚いていた。
栄雪と淡戒が仏間に入って来て、難航している交渉がまとまるように、素空と共に祈ろうと言った。やがて、密やかながら力の籠った経が始まった。次の間に残っていた、明智、行信、良円、仁啓、法垂が加わり、8人の僧とおフサで経を唱え始めた。
「皆さん、客間でのお話合いがまとまりますよう、新堂の守護神建立が無事にすみますよう、そして、志賀様ご
素空はそう言うと、経を唱え始めた。それに続いて7人の僧が唱えると、仏間の中は荘厳な空気に包まれた。おフサは経が始まると、胸奥を揺り動かす経の響きを受けながら、僧達の後に続いた。
読経は客間まで聞こえて来たが、初めのうちは
卯之助が怒って『帰る!』と言いだした時、シンとなった客間に、今度ははっきりと読経の声が聞こえた。卯之助は怒りに任せて帰ると言ったものの、読経が次第に大きく聞こえ、何とも気まずい空気が広がった。
卯之助は佐助と縞蔵を横目で覗いた。縞蔵は柱3本を杉の丸太に取り換えてくれるのであれば、問題はないと涼しい顔で成り行きを眺めるだけだった。佐助も最初のうちは反対していたが、志賀孝衛門がだした条件にほぼ満足していた。
しかし、卯之助だけは、どんな条件も飲めない理由があった。
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