仏師方 その5
鞍馬谷には、あっと言う間に着いた。歩み進む先に、楠が目立って増えて来た。楠の巨木を見付けるたびに、一同は歓声を上げた。『なるほど、ここまで来ると、楠より太い樹がない。これならば、キコリ小屋、炭焼き小屋は言うに及ばず、民家にも楠材を使いそうな気がして来た』素空もそう思った。
鞍馬谷は、鳳来山と鞍馬山を仕切るように深くえぐれていた。
「素空様、この先に
「それでは、五郎様の小屋を使わせて頂きましょう」
素空の決定で、皆が揃って小屋に入った。
「何と広い小屋でしょうか。ここを小屋と言うには勿体ないですね」行信が部屋をウロウロと歩きながら感心して言った。
昨夜、栄雪達が用意しておいた弁当を開いて、遅い朝食が始まった。
朝食が終わると、仁啓に留守を頼んで、明智と良円、松石と法垂、栄雪と行信、そして、素空と淡戒が、2人1組で楠材でできた小屋を探すために散って行った。決め事は、夕暮れまでに戻ることと、在りかを探索するだけで戻ることだった。明智と良円が、最初の分かれ道を右に折れた。暫らく下ると、谷に掛かる吊り橋が見えて来た。栄雪が左に折れて吊り橋に向かった時、素空が制止した。
「栄雪様、鞍馬谷を越えてはなりません。先ずは、鳳来山の神の宿った材料をお探し下さい」
一同は、ハッとして素空の言葉の先にある意味を理解した。素空は単に鳳来山の神が宿った材料と言うばかりではなく、楠の乾燥材の搬出と、新たな建替え材の搬入のことを考えていたのだった。当たり前と言えば、至極当たり前のことだが、一同は、探すことに夢中で、後のことをウッカリ忘れていたのだった。
やがて、道が分かれるたびに2人ずつ減って行って、素空と淡戒の2人だけになった。「淡戒様、谷沿いに下って参りましたが、この先は、もう里になりますね。里まで下りると、どなたかと会えるでしょう。そのお方に色々と伺ってみましょう」
淡戒は、素空の言葉に何らかの考えがあることを感じた。それが何なのかは、見当も付かなかったが、このまま素空に付いて行くまでだった。
「素空様、私は
「今津と言えば、この里から琵琶湖の
淡戒は嬉しさに顔をほころばせて里のことを色々と話した。
「出家前は、
素空は、淡戒の鍛冶屋奉公に興味を示した。天安寺の僧達は様々な隠れた才を持っていたが、淡戒の鍛冶屋としての才はすぐに役立つことになるのだった。
素空と淡戒は里を歩く間、実に多くのことを話した。淡戒が、これほど話し好きとは思いもよらないことだった。互いに、気心が知れた仲になるには、それほどの時間は掛からなかった。
やがて、1軒の白壁で囲まれた大きな屋敷に差し掛かった。この辺りでは、かなりの実力者のようだったので、素空は迷わず中に入って行った。庭先に小男が3人、庭木の手入れをしていた。植木職人でないのは道具と
素空は、その中の1人に声を掛けた。
「もし、お伺いいたしますが、こちらのお屋敷はどのようなお方のお住まいでしょうか?」
「こちらは、
「ご主人にご挨拶したいのですが、お取次ぎ下さいますか?」素空の頼みに、男はすぐに答えた。
「母屋の前で声をお掛けになると女中が出ますので、ご用向きをお伝え下さい」
男の説明通りにすると、やがて主人に会うことができた。
素空と淡戒は、この屋敷の客間で志賀孝衛門と対面した。志賀孝衛門は、60才近いふくよかな
楠材の調達とその後の交渉について意見を求めると、志賀孝衛門が笑みを絶やさず丁寧に答えた。
「お坊様、鳳来山と鞍馬山の間の谷は鞍馬谷、別名
「お坊様、鞍馬谷に近い小屋は、恐らく見込みはないと思います。鞍馬谷の一帯は、
志賀孝衛門の言う通り、樟脳作りには楠の葉、根、茎を材料としているが、大木は
「ご主人、鞍馬谷から、天安寺までの小屋の持ち主を順にお教え願えませんか?」
志賀孝衛門は、暫らく考えていたが、地図を持って来ると言い、素空と淡戒を待たせて、客間を出て行った。
やがて、鳳来山の地図を持って来ると、2人の前に広げて見せた。
「この地図は、よそのお方には滅多にお見せしない物ですが、お坊様でしたら大丈夫でしょう」
そう前置きして差し出された地図を見ると、上に鳳来山から鞍馬山まで、下に琵琶湖が
素空は、主人の好意に感謝し、仏間に案内してもらって、経を上げることにした。素空と淡戒は、主人と共に仏壇に向かった。
「お坊様、暫らくお待ち下さい」そう言うと、志賀孝衛門は、家族や奉公人を仏間に招き入れた。14、5名ほどの家人達が仏間に座ったが、それでもまだ2倍は入れるほど広かった。素空は、この家の誰もが信心深いことに気付いていた。仏壇は言うに及ばず、部屋の隅々まで綺麗に清められ、家族や奉公人の面差しにも、主人の物腰にも信心深い雰囲気が漂っていたので清々しい思いだった。
素空の読経が
志賀孝衛門は、素空の読経に暫らく味わったことのない神聖な響きを感じた。『このお方は、ただならぬお方だ』心の中に住み着いた素空への
「ご主人、大変お世話になりました。お屋敷の皆様が平安でありますよう、お祈りいたしました。楠材が見つかりましたら、お力をお貸し願いたいと思いますので、その折はよろしくお願いいたします」門前で、素空は丁寧にお辞儀をして、淡戒と共に来た道を引き返した。
志賀孝衛門は、素空に深々と頭を下げると、何時までも後姿を見送った。
庭の手入れをしていた
「旦那様、お若いお坊様をいつまでもお見送りですが、一体どのようなお方ですか?」
「おお、
六助と呼ばれた小男は、不審に思い、更に問い掛けた。すると、志賀孝衛門は少し考えて、小男に分かりやすく表現した。
「六助や、あのお坊様は年はお若いのに、私など遠く及ばないほど徳の高いお方なのだよ。私は、あのお方の
六助は、ポカンと口を開けて見送った。
志賀孝衛門はその昔、若い僧が、10日ほど逗留した時のことを思い出していた。その時彫ってもらった
『天安寺から下りたばかりのお坊様で、玄空様とおっしゃるお方でしたな』当時を懐かしむように、ブツブツと独りごとを言った。
志賀孝衛門は、観音菩薩を仏壇に置かず、ずっと自分達の寝室に置いていた。金色の光を見たのは、女房のフサと自分の2人だけだったが、父母の死の悲しみを癒されたのは、ハッキリした実感として記憶し、以来、観音菩薩を家宝として祀っていた。
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