第9章 仏師方 その1
天安寺を出発してから9日後、栄雪が同行の2人の僧を伴って、瑞覚大師の部屋に入って来た。
「おお、無事に帰って来たようじゃな。ご苦労じゃった。で、どうであったかな?玄空住職の様子は…」瑞覚大師は先ず以て、最も気になることから質問した。
栄雪は、自分の感想を織り交ぜて簡潔に答えた。
「玄空様は、とてもお元気で、食事の支度から、風呂の世話まで、すべてお1人でなさいました。私達もお手伝いしたいと申しましたところ、『御本山からの使者に、恐れ多いことです。これくらいのことはいつもやっているのですから、お気遣いはご無用に願います』そう仰せられ、手出しできませんでした。玄空様は終始にこやかに接して下さいましたが、何をなさるにも手際よく、私達の相手をなさりながら、仕事をてきぱきと片付けていらっしゃいました。お大師様が贈られた書物に目を通しながら、何やら呟き1人笑いなどされていましたが、たいそうご満足されているようにお見受けいたしました」
瑞覚大師は、悦に入った様子で、顔をほころばせて、更に質問した。
「わしの文は、その日に読んだのだろうか?」
「はい、
瑞覚大師は、栄雪に優しい笑みを見せて、最後の質問をした。
「栄雪は、玄空住職をどう見たかな?聞かせてくれまいか?」栄雪は、玄空を評することは
「玄空様のお人柄を一言で申せば、
瑞覚大師は大いに喜び、栄雪を更に
瑞覚大師は部屋に1人残り、3年のうちに召されると言う
『御本山に上がって、
瑞覚大師はブツブツ独り言を呟きながら次の
『素空の守護神が始まらんことには玄空のお出ましは叶わぬし、興仁大師の説得もせにゃならん。何とも、難問続出じゃわい』瑞覚大師は、笑みを浮かべ、まるで楽しんでいるかのようだった。
瑞覚大師は、素空が彫った薬師如来像をふと振り返り凝視した。さっきまでは如来像に
《瑞覚よ。私の姿をそのまま受け入れなさい。さすれば、私を覗き込むような非礼をせずにすんだでしょう。汝に光背を現したのは、汝が、より私の
声は、それだけ伝えると消え去った。薬師如来像には光背がそのまま現れていた。
灯明番の詰め所では、素空が、栄信に呼ばれて部屋を訪ねていた。2人だけの時にはもっぱら守護神のことが話題になるのだが、この日も新堂の門前にどのような守護神を祀るのか、栄信が
「お堂の門前には、
金剛力士とは俗に言う
「玄空様の毘沙門様の仕上げの手と、金剛力士の手が同じとなるのに、関連性がないようにとは如何なものかと思いますが…?」
「栄信様、初めは毘沙門様の仕上げの手を、私が入れようと思っていましたが、どうにも手が出せないような気がいたします。あの毘沙門様は、やはり、わが師玄空に手を入れてもらわなければならぬと存じます。折を見てお大師様にお願い申し上げる所存です」
素空は、彫り掛けの毘沙門天を玄空の手で完成させて欲しかった。手の違いもさることながら、師の手になる完成された毘沙門天をどうしても見たかったのだ。何と言っても、玄空と肩を並べて守護神を彫ることが望みだったのだ。守護神を立派に彫り上げることが、師への恩返しになるのだが、心の半分では、ただ単純に玄空に会いたい気持ちがあった。
やがて、栄雪が、栄信の部屋に入って来た。瑞覚大師の部屋を出ると、同行の2人と別れてすぐに来たのだった。
「お大師様にご挨拶がすみました」そう言いながら部屋に入ったのだが、思い掛けず素空に会えて笑みがこぼれた。
「素空様、玄空様はたいそうお元気でしたよ」それだけ言うと、栄信に向き直って、瑞覚大師の部屋での会話を手短に話した。
当然、素空にも聞いてもらうよう内容にも配慮した。栄雪の話が終わると、栄信が改めて労い、素空も文の礼を言った。
素空が、栄雪に尋ねた。「栄雪様、それにしてもお大師様は、何故ご自分の書籍をすべて我が師に贈られたのでしょう?」
栄雪が答えた。「それが、よく分からないのです。玄空様が、お大師様の文をご覧になった後、しきりにお大師様のご様子を尋ねられたのです。私は、そのことと何かしら関りがあるような気がしてならないのです」
そこで、栄信が難しい顔をして割り込んだ。「素空様、何か悪い予感がしませんか?」
「栄信様、私も同じ思いです。お大師様には、何時までもお元気でいて頂きたいですね」暫らく妙にしんみりした空気が流れた。
栄信が、玄空のことについて、素空に質問した。
「素空様、玄空様とは一体どのようなお方でしょう?」
フッと口の中から押し出すような、密やかな声だった。
「お住職様は、私の親も同然のお方です。7才の時に寺に預けられ、御仏の教えは言うまでもないことですが、学問と、日常生活のすべて、行儀作法、仏師としての手ほどきなど、多くを学びました。
「そうですか。栄雪が宝刀を鞘に納めて、更に布で包んだようなお方と言ったのが良く分かります。人の器はそれぞれと言うことでしょうが、大きいに越したことはありません。その大きい器に、どのような人をも受け入れる人、そのような人になりたいものです」栄信はしみじみと語った。
栄雪は、岩倉屋に灯明の芯を買いに行った時から、胸に抱いていた素空への尊敬の念が、玄空に会ったことでやっと理解できたのだった。『この師にして、この弟子あり』栄雪は、改めて素空の顔を見た。
素空は
栄雪は、素空の顔を見ながら、岩倉屋でのことが蘇って来た。『玄空様も素空様も、同じように御仏に愛されているのだろうか?』栄雪は、間違いのないことだと思った。『お2人が愛されなければ、この世の誰が愛されるのだろうか?』栄雪は、素空の顔に目を止めたまま動かなかった。
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