第9章 仏師方 その1

 天安寺を出発してから9日後、栄雪が同行の2人の僧を伴って、瑞覚大師の部屋に入って来た。

 「おお、無事に帰って来たようじゃな。ご苦労じゃった。で、どうであったかな?玄空住職の様子は…」瑞覚大師は先ず以て、最も気になることから質問した。

 栄雪は、自分の感想を織り交ぜて簡潔に答えた。

 「玄空様は、とてもお元気で、食事の支度から、風呂の世話まで、すべてお1人でなさいました。私達もお手伝いしたいと申しましたところ、『御本山からの使者に、恐れ多いことです。これくらいのことはいつもやっているのですから、お気遣いはご無用に願います』そう仰せられ、手出しできませんでした。玄空様は終始にこやかに接して下さいましたが、何をなさるにも手際よく、私達の相手をなさりながら、仕事をてきぱきと片付けていらっしゃいました。お大師様が贈られた書物に目を通しながら、何やら呟き1人笑いなどされていましたが、たいそうご満足されているようにお見受けいたしました」

 瑞覚大師は、悦に入った様子で、顔をほころばせて、更に質問した。

 「わしの文は、その日に読んだのだろうか?」

 「はい、純念じゅんねん喜然きねんがお風呂を頂いている時に、お大師様と、素空様の文を読まれています。にこやかなお顔が、その時だけ妙に沈んでいらっしゃったのが忘れられません。それからお大師様のご様子を、事細かにお尋ねになったり、何やら、物思いに耽ったりなさいました。翌日、出立の時に、『くれぐれも、お身体お大事にと、お大師様にお伝え下さい』そうおっしゃられて、この文を預かりました」そう言うと、ふところから文を取りだし、瑞覚大師に手渡した。

 瑞覚大師は、栄雪に優しい笑みを見せて、最後の質問をした。

 「栄雪は、玄空住職をどう見たかな?聞かせてくれまいか?」栄雪は、玄空を評することははばかられ一旦断いったんことわったが、瑞覚大師はたっての頼みだと言い更に迫った。

 「玄空様のお人柄を一言で申せば、宝刀ほうとうさやに納めて、更に布でくるんだようなお方だと思います。話をすれば、誰しも暫らくのうちに深い知識と、明晰な頭脳に驚くことと思います。事をなせば、万事怠りなく、手際よく、そつがない。見事に無駄のないお方です。お言葉にも、お振舞にも、ご慈愛の深さを感じました。素空様が尊敬してやまぬお方です。私がこれ以上何を申し上げましょうや」

 瑞覚大師は大いに喜び、栄雪を更にねぎらった。

 瑞覚大師は部屋に1人残り、3年のうちに召されると言う薬師如来やくしにょらいの言葉を思い返した。本山に上がって40余年、振り返ると悔いることばかりのようだった。何と言っても想雲大師そううんだいしに関わるおぞましい出来事…友との別れ。瑞覚大師は30余年の歳月、常に脳裏に浮かんでは消え、また浮かぶ1人の僧を追い求めていたように思った。

 『御本山に上がって、唯一我ゆいつわれよりひいでたる玄空に、我が亡き後の東院とういんを託さねば、御本山を正しく導くことはできないのじゃ』

 瑞覚大師はブツブツ独り言を呟きながら次の布石ふせきに思いを馳せた。既に第1の布石を打っていて、栄雪に届けてもらった書物のすべてがそれだった。『あれを見れば、玄空なら察しが付くだろうが、次が問題じゃて』またブツブツ呟いた。

 『素空の守護神が始まらんことには玄空のお出ましは叶わぬし、興仁大師の説得もせにゃならん。何とも、難問続出じゃわい』瑞覚大師は、笑みを浮かべ、まるで楽しんでいるかのようだった。

 瑞覚大師は、素空が彫った薬師如来像をふと振り返り凝視した。さっきまでは如来像に光背こうはいはなかったが、今はハッキリとした金色の光背が現れているのだ。見たところ、金属質のようだが、近付いて見るのは失礼にあたると思い、そのままの位置で向き直って見直した。その時、どこからともなく声がした。

 《瑞覚よ。私の姿をそのまま受け入れなさい。さすれば、私を覗き込むような非礼をせずにすんだでしょう。汝に光背を現したのは、汝が、より私のそばに近付いたあかしなのです。何も気にすることはない、これまで通り私に接するのです。さて、汝が思い描くことを、意のままに行いなさい。素空の務めは、10日の内に始められるでしょうから、手助けとなるよう計らいなさい》

 声は、それだけ伝えると消え去った。薬師如来像には光背がそのまま現れていた。

 灯明番の詰め所では、素空が、栄信に呼ばれて部屋を訪ねていた。2人だけの時にはもっぱら守護神のことが話題になるのだが、この日も新堂の門前にどのような守護神を祀るのか、栄信が興味津々きょうみしんしんの面持ちで質問した。

 「お堂の門前には、金剛力士像こんごうりきしぞうをお祀りいたします。後門の毘沙門様びしゃもんさまとは、えて目に見える関連がないよう考えています」

 金剛力士とは俗に言う仁王様におうさまのことで、蜜迹金剛みっしゃこんごう那羅延堅固ならえんけんごと言う阿形尊あぎょうそん吽形尊うんぎょうそんの2体の守護神を表わしていた。

 「玄空様の毘沙門様の仕上げの手と、金剛力士の手が同じとなるのに、関連性がないようにとは如何なものかと思いますが…?」

 「栄信様、初めは毘沙門様の仕上げの手を、私が入れようと思っていましたが、どうにも手が出せないような気がいたします。あの毘沙門様は、やはり、わが師玄空に手を入れてもらわなければならぬと存じます。折を見てお大師様にお願い申し上げる所存です」

 素空は、彫り掛けの毘沙門天を玄空の手で完成させて欲しかった。手の違いもさることながら、師の手になる完成された毘沙門天をどうしても見たかったのだ。何と言っても、玄空と肩を並べて守護神を彫ることが望みだったのだ。守護神を立派に彫り上げることが、師への恩返しになるのだが、心の半分では、ただ単純に玄空に会いたい気持ちがあった。

 やがて、栄雪が、栄信の部屋に入って来た。瑞覚大師の部屋を出ると、同行の2人と別れてすぐに来たのだった。

 「お大師様にご挨拶がすみました」そう言いながら部屋に入ったのだが、思い掛けず素空に会えて笑みがこぼれた。

 「素空様、玄空様はたいそうお元気でしたよ」それだけ言うと、栄信に向き直って、瑞覚大師の部屋での会話を手短に話した。

 当然、素空にも聞いてもらうよう内容にも配慮した。栄雪の話が終わると、栄信が改めて労い、素空も文の礼を言った。

 素空が、栄雪に尋ねた。「栄雪様、それにしてもお大師様は、何故ご自分の書籍をすべて我が師に贈られたのでしょう?」

 栄雪が答えた。「それが、よく分からないのです。玄空様が、お大師様の文をご覧になった後、しきりにお大師様のご様子を尋ねられたのです。私は、そのことと何かしら関りがあるような気がしてならないのです」

 そこで、栄信が難しい顔をして割り込んだ。「素空様、何か悪い予感がしませんか?」

 「栄信様、私も同じ思いです。お大師様には、何時までもお元気でいて頂きたいですね」暫らく妙にしんみりした空気が流れた。

 栄信が、玄空のことについて、素空に質問した。

 「素空様、玄空様とは一体どのようなお方でしょう?」

 フッと口の中から押し出すような、密やかな声だった。

 「お住職様は、私の親も同然のお方です。7才の時に寺に預けられ、御仏の教えは言うまでもないことですが、学問と、日常生活のすべて、行儀作法、仏師としての手ほどきなど、多くを学びました。二親ふたおやとの生活より、既に長くお世話になっています。また、これまで1度も叱られることなどなかったばかりではなく、常に優しく、慈愛に満ちた笑顔で接して頂きました。私は、お住職様に近付くために修行に励んで参りましたが、毎日が実に充実して、苦にしたことは1度もありませんでした」

 「そうですか。栄雪が宝刀を鞘に納めて、更に布で包んだようなお方と言ったのが良く分かります。人の器はそれぞれと言うことでしょうが、大きいに越したことはありません。その大きい器に、どのような人をも受け入れる人、そのような人になりたいものです」栄信はしみじみと語った。

 栄雪は、岩倉屋に灯明の芯を買いに行った時から、胸に抱いていた素空への尊敬の念が、玄空に会ったことでやっと理解できたのだった。『この師にして、この弟子あり』栄雪は、改めて素空の顔を見た。

 素空はうつむき加減に目線を下げて、栄信の言葉を聴いていた。端整な顔立ちに、俯き加減でも、目の輝きが尋常でなく冴えている。顔を見ただけで明晰な頭脳の持ち主だと言うことが分かるのだった。

 栄雪は、素空の顔を見ながら、岩倉屋でのことが蘇って来た。『玄空様も素空様も、同じように御仏に愛されているのだろうか?』栄雪は、間違いのないことだと思った。『お2人が愛されなければ、この世の誰が愛されるのだろうか?』栄雪は、素空の顔に目を止めたまま動かなかった。

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