異端者明智 その3

 明智の十人部屋を出た素空は、書庫に向かった。書庫は方々にあったが、忍仁堂の書庫は、崇慈すうじと言う50半ばの老僧が預かっていた。素空が訪ねると、崇慈大師は書庫の1番奥に座して、書物の点検をしていた。素空に気付くと、顔をほころばせて迎えた。「おうおう、素空よ、よく来てくれた。わしは崇慈と申すが、そなたの師、玄空様げんくうさまの弟弟子だったのじゃよ。そなたが、希念きねんとして御本山に上がった時、玄空様がその昔、希念と名乗ったことを思いだして懐かしく思ったものだが、今こうして懐かしいお方の、所縁ゆかりの人を迎えることは大きな喜びだよ」そう言うと、用向きを尋ねた。

 「書庫に保管されている書籍の中で、神仏の繋がりについて調べたいのです」

 崇慈大師は笑みを浮かべながら答えた。

 「書庫の書籍、経典は、修行のためのものじゃよ。言わば、書籍はすべてお前さんの物も同じじゃよ。いつでも自由にお使いなされ。右の奥の棚を探すがよいぞ」

 素空は、玄空の弟子であるが故の好意を受けて、またしても、深い感謝を抱いた。

 崇慈大師は更に言葉を続けた。

 「素空よ、我が兄弟子は、御本山に上がって7日後に認可を受けたと聞いている。同時に、希念改め、玄空と名を頂いたのじゃよ。わしはそれから1年後に御本山に上がったのじゃが、運よく玄空様のもとで働くようになったのじゃ。書庫の司書として、蔵書の整理や、貸し出し、写経などをやったもんじゃ。4年ほど玄空様のもとにいたが、可愛がってもらったよ。玄空様は多才なお方で、仏師顔負けの仏像をお彫りになったので、新堂の裏門に安置する守護神を彫られた時、当時のお大師様を嫌って山を下りなさった。わしは胸が張り裂けるほど悲しかったのを、今でもようく覚えているよ。素空が、希念と言う名で御本山に上がったことを知り、わしには、すぐに、玄空様との関わりが分かっていたんじゃよ。誠に、素空お前さんは、玄空様によく似ていいなさる。更に精進して、師を超えるほどになりなされ」そう言うと、素空に書物の閲覧を薦めた。

 夕食が終わり、僧達が宿坊に戻って行く頃、素空も1冊の書籍を手に、十人部屋に戻った。そこには、明智みょうち宇鎮うちんを始め、明智の十人部屋の全員が揃っていた。素空は、自分の文机に向かい、書籍を開いた。『神仏序列集しんぶつじょれつしゅう』と言う意味の題字が、梵字ぼんじで書かれていたが、中を見ると、漢字交じりで、梵語ぼんごの原書を翻訳したものだと分かった。素空は、玄空から梵語の手ほどきを受けていたので、原書でもほとんど理解することができた。この書物を借りた訳は神仏のつかさどる働きを整理して考え、神仏の配下の者達のことも、少し詳しく調べたいと思ったのだった。お堂の正面を守護するのは、どう考えても、仁王像におうぞうを置くしかないとは思っていたが、裏付けが欲しかった。書物や師の教えによる知識の上に、己自身の考えを巡らすことが素空の遣り方だった。素空は書物を開くと熱中した。読むのが際立って速く、それまで無視していた明智がチラリと視線を投げた。就寝の時刻までおよそ半時はんとき(1時間)、既に殆んどを読み終えていた。

 やがて、素空は梵語の書物を文机の上に置いて、紙に何やら書き始めた。小半時こはんとき(30分)ほどして、素空が筆を擱いた。もう、就寝時間だった。布団が延べられ、明智が経を唱え始めた。それに倣って一同が続き、素空も、明智の声をなぞるように経を唱え始めた。

 一同は、素空が唱え始めた時、素空に一瞥いちべつを投げ、その後に付くようにした。宇鎮でさえ、一同と同様に、素空の後に続いた。素空の読経は、胸を突き上げられるように体から入り込んだ。

 明智は胸の中がざわつき、心の奥底で仏の慈悲を願う己を見た。素空の声が、今度は耳から直接入って来た。己を責め立て、罪人を罰するような、重く鋭く、更には何とも胸糞悪むなくそわるい響きだった。

 やっと、1本目の経が終わった時、明智は激しい動悸に襲われ、2本目の経を唱えることができなかった。素空が2本目の経を唱え始め、一同がそれに続くのを聞いていたが、次第に動悸が治まり、明智も素空の後に続いた。明智はこの時初めて、心の平安を感じ、素空の前に唱えていた時とは、まったく違った心模様が心地よかった。

 素空の声は、心の隅々まで浸透して行くようで不思議だった。

 3本目の経が唱えられる頃、宇鎮以下7人は目に涙を蓄え、一心いっしんに素空の後をなぞった。明智と一同は対面していたが、ここに来て明智も皆に背を向けて、全員同じ向きになった。向き直った明智の眼には、薄っすらと涙が溢れ、まるで回心を誓う罪人のように、心穏やかだった。明智はこの不思議な体験に戸惑っていた。

 経が終わると、すぐさま布団に潜り込み、さっきの不思議な現象を考えていた。『素空は妖術ようじゅつを自在に操る、妖術使いなのではないか?あの読経には、どんな高僧にもない凄味すごみがある。自分より前に言葉を発する者を従わせ、心を意のままに操ることは、僧の力を超えたものだ。間違いなく、妖術使いの仕業だ』

 明智はそう結論付けたところで、まどろみの中に入って行った。

 夜半、明智は妙な夢を見た。素空が妖術の修行をしているところだった。前にいるのは、顔は見えないが、素空の師玄空に間違いなかった。『玄空は本山を下りた後、恐らく妖術の修行をしたのだろう。その後、弟子の素空にも妖術の手ほどきをしたのだろうことは間違いない筈だ』

 明智は、夢の中で盛んに推理を巡らした。そして、師から極意の伝授を受けるのをハッキリと耳にした。『良いか素空、そもそも妖術とは心の技である。深く心を沈めれば、森羅万象己しんらばんしょうおのが意のままとなる。ひとたび心を沈めれば、如何なる敵にも正気で構うべからず。じゅつを以って応ずべし』

 玄空の教えは、ハッキリと聞こえて来た。しかし、既に素空の前にはいなかった。

 明智はドキッとして背後を振り返った。玄空の顔が不敵な笑みを浮かべて、こちらを覗き込んでいた。玄空の顔はハッキリしないまま、明智に迫って来た。妖術の呪文を唱えながら、明智にぶつかりそうになった時、目が覚めた。

 明智は額に脂汗あぶらあせをかいていた。胸苦しく、荒れた呼吸は僧になって初めてのことだった。動悸が明智の思考力を奪っていた。起き上がると、薄暗い部屋の1番下手しもてを見た。素空は上を向いて寝ていた。視線の先に激しい憎悪を感じた明智は、妖気ようきに支配されているかどうか、太腿ふとももの内側をつねってみた。痛みが己の意識の支配を意味していた。

 明智は立ち上がって、素空の枕元まで歩んで行き、帯を外して素空の首に巻くと、渾身の力を込めて帯を引いたが、素空の表情は変わらなかった。更に力を込めると、素空の顔から金色の光が溢れ、光は帯を金色に染め、金色の帯がフッと消え去り、それから先も宇鎮とまったく同じことになった。

 明智は『これが宇鎮の体験したことなのか?妖気はどこにもなかった筈だ』そう呟きながら、堪らず気を失った。

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