十人部屋 その2

 素空が手紙を預けた日の夜、早速栄雪が十人部屋を訪ねて来た。宇鎮うちん良円りょうえん仁啓じんけいの3人は、ジッと栄雪の姿を追った。

 「素空様、お大師様が滝野のお住職様にお贈りする物がおありだそうで、その帰りの荷物として素空様のお道具を運び込むとおっしゃいました。遣いには、私が指名されました。荷馬車で往復しますので、10日も掛かることはないと思います。素空様が敬愛されている玄空様とは、一体どのようなお方か、お会いするのが楽しみです」栄雪は、2名の僧を連れて行くそうで、「しっかり役目を果たします」と言って別れた。瑞覚大師が、玄空に贈る荷物には、瑞覚大師なりの企てがあったのだが、今はまだその意味を知る由もなかった。

 栄雪が、素空と別れて3人の前を通った時、宇鎮が揶揄やゆするように言い放った。

 「これは、灯明番の栄雪様ではないか。もうお帰りか?今宵は1夜お泊めしたいが、いかがかな?ゆっくり朝までおもてなしいたしましょうぞ、おいおい、お待ちなされ」そう言うや、部屋を出て行く栄雪の背を見てドッと笑いだした。3人はひとしきり笑うと、元のように小声でもそもそ話し始めた。

 賄番まかないばんと、風呂番ふろばんをしていた3人が戻って来た。就寝の前になって、宇鎮が先だって経を唱え始め、皆がそれに続いた。素空も一同の後から読経の中に入った。

 その時、一同の中に動揺が広がった。心の奥底から突き動かされるような、これまでに感じたことのない奇妙な動揺だった。宇鎮は動揺を抑えながら、次の経を唱えた。素空は宇鎮の後に続いたが、他の者は、素空の後に続いた。

 宇鎮の動揺は更に続いた。素空の後に経を唱えた5人は、心の落ち着きを取り戻し、いつもより、はるかに厳粛げんしゅくな心持ちを経験した。

 宇鎮はこのままではまずいことになると予感した。2本目の経が終わると、宇鎮の額から生汗がでていた。

 「今宵は、ここまでにして休みましょうぞ」宇鎮は、そう言うなり床を敷き、すぐ横になった。皆も倣ったが、素空だけは3本めの経を、声をださずに唱えた。

 6人の視線が、素空に向けられていたが、それぞれに思うところは違っていた。宇鎮はこれまで数多くの僧の読経を耳にしたが、どんな高僧にも感じたことのない畏れを感じた。心を見透かされ、戒めを受けているような重苦しい動揺が全身を包んだのだった。

 良円は、心の中に悔恨の念が膨らみ、何故かしら、止めどなく涙さえ流した。仁啓と残る3人は、心の動揺が収まらず、素空の後に付くまで、これまでに味わったことのない不安を抱いた。素空の後に続いた時、初めて安らぎが全身を満たした。素空の声を低くした読経を聴きながら、5人は、素空が本山に上がった翌日に法名を頂き、認可を受けた訳がおぼろげに分かったような気がした。

 夜半になって、宇鎮は悪夢を見た。目覚めると、体中汗でグッショリ濡れていた。起き上がり、汗を拭くと素空の寝顔を覗き見た。『この男、我らに害を及ぼす者だ。今宵の内に仏罰を与え、害の及ばぬようにすべきか?明智様が戻られるのを待つべきか?』宇鎮は、長く考えていたが、意を決して素空の枕元に立った。

 素空の寝顔は、実に端整で神々しく、色白で、暗闇でもハッキリと輪郭を表していた。宇鎮は寝間着ねまきのまま、何かにかれたように帯を解き、素空の首に2巻きし、片方を自分の足に掛け、もう片方を思いっきり引っ張った。渾身の力を込めても素空の表情は変わらなかった。

 すると、素空の顔から金色こんじきの光が溢れ、光は帯を金色に染め、帯がフッと消え去った。やがて、素空の眼が開き、金色の光の中で宇鎮の顔をジッと見た。宇鎮はこれまでに感じたことがないほどの恐怖を感じ、2、3歩後ずさりした。

 素空から離れると、宇鎮を追い掛けるように光が強くなった。更に後ずさりしたが、金色の光は更に強く宇鎮を追い掛けた。宇鎮は恐怖のあまり、顔を手で覆い、布団の中に潜り込んだ。光は布団を通り抜け、両手の平も通り抜け、目の中を金色に染め、宇鎮は堪らず悲鳴をあげて気を失った。

 翌朝、宇鎮は昨夜のことは夢だったと思った。吐き気がするほど気分が悪かった。素空も含め、全員が夜具を片付け、朝の勤めに向かっていた。宇鎮は、現実のような夢を何故見たのだろうか考えた。しかし、考えをどう巡らしても結論に至らなかった。『あのような不思議な僧は初めてだ。人を畏怖する読経の声。金色の光を夢に見せる不思議。人の心を見透かしているのだろうか?心を見切られたのだろうか?明智様のお帰りがこれほど待ち遠しく感じたことはない』

 宇鎮はもう1度昨夜のことを思いだして、仏罰を与えようとしたことが現実で、素空の首に帯を回したことも現実だったと確信していたが、そこから先がどうにも自信がなかった。そこから先になると、まったく現実感がなく、素空も何もなかったような顔をしていた。

 『わしがしたことは何時の間にか夢の中のことになってしまったのだろうか?そうだとすると、金色の光の主が…それは御仏なのだろうか?』

 宇鎮はこれ以上考えても結論がでないと思っていたが、そこに仏の力が働いたことを素直に認めれば、すべてが解決したことだろう。

 宇鎮はこの後も長く神仏を信じることができずに過ごすことになるのだが、僧と言えども信じる思いにはそれぞれ差があるのは仕方のないことだった。素空にはそのことが十分理解でき、時が満ちた時初めて気が付くものだと思っていた。

 素空は朝の勤めの後、栄雪の見送りに出掛けた。栄雪は、純念じゅんねん喜然きねんと言う2人の僧を伴い、馬と荷車を繋いだところだった。純念も喜然も大部屋の僧で、荷物を運ぶには打って付けの体躯をしていた。素空より2つ3つ年上のようだったが、その物腰にはやがて灯明番に加わるだろうと感じさせるものがあった。

 「栄雪様、お大師様のお荷物はどちらでしょうか?」

 「今、お大師様のお部屋から運び出しているところです」

 数人の僧が幾つかのかたまりになって、荷物を抱えてこちらに向かっていた。馬は忍仁堂の階段から内部に入ることができなかったので、大きな荷物を運ぶのは骨が折れた。初めに、書棚が2つ荷車に乗せられた。続いて一抱ひとかかえもある書籍を10人ほどの僧が運びだした。

 栄雪が出発の挨拶をすると、素空が旅の無事を願いながら送りだした。

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