京屋分家岩倉屋 その3
この日は、晴天で風もなく、岩倉屋惣左衛門は、娘を連れ出して菩提寺に出掛けようと思った。
「おコウや、今日の具合はどうだい?私と一緒に外を歩いてみないかね?無理しなくても良いのだが、もし良かったらどうかと思ってね」
おコウは、父の言葉に驚いた。内心は嬉しいのだが、素直に頷けなかった。仕事一筋で、不遜な父からの初めての申し出だった。
おコウは暫らくして頷いた。「はい、お父様、気分が悪くなりましたら、すぐに戻りますがよろしいですか?」
「ああ、いいとも。私はそう考えて
店を出て小半時(30分)ほどで1軒の茶店の前に辿り着いた。
「ひと休みしよう、疲れただろう?」
「いいえ、不思議なくらい気分がいいんです。お空もこんなに晴れて、寒くなく、さわやかな風が気持ちいいだけです」
惣左衛門は、こんな娘の表情を見たのは随分と久し振りのことで、嬉しさのあまり涙が溢れた。2人は暫らく休息して、また歩きだした。
「お父様、一体どこまでお出掛けするのですか?」
おコウの問い掛けに、惣左衛門が素空の勧めだと打ち明けた。
「お父様、お若い方のお坊様でしょう?私は、あのお坊様のお顔をひと目拝見して、並みのお坊様ではないことがはっきり分かりました。お姿が神々しく輝き、
惣左衛門はこれほど活き活きした娘の顔をこれまで見たことがなかった。
菩提寺に着くと、
住職が墓所に案内した。先祖の墓参をすませ、
「岩倉屋さん、私も是非にもお会いしたかった。自分で言うのも変じゃが、わしらみたいな
惣左衛門が、見たところ17、8才の若い僧だと告げると、住職は暫らく声もない風情で、何やら思いを深くして、やがて、おもむろに口を開いた。
「わしが小僧として修行していた15才の年に、この寺に3日ほど
「お住職、先代様は10年ほど前までお元気そうでしたが?」
「そのことだよ、その日から次第に良くなられ、7日後には床上げされたのじゃ。それからは、旅のお坊様がお彫りになった薬師如来様が寺の宝になったのじゃよ」
「お住職、そのお坊様は鳳来山に行かれてどうなったのでしょう?」
「それが、鳳来山でも
惣左衛門は、住職の話を素空と重ねて聴いていた。
「ところで、岩倉屋さん、おコウ殿にこれを貸して進ぜよう」住職が布に包まれた7寸(20cm)ほどの薬師如来像を取りだしながら言った。
「病が癒えたら返してもらわにゃならんが、今のわしには無用のものだから…」
そう言いながら取りだした仏像は、粗彫りの何の
「おや、岩倉屋さん、これをただの木彫りと思ってはいけませんよ。お住職様が
住職の言葉に、惣左衛門が驚いて言った。
「これはこれは、勿体ないことでございます。必ず、おコウの部屋に大切にお祀りいたします」
おコウは、手渡されてすぐに、体にドンとぶつかるような奇妙な感覚を覚えた。手にした如来像が暖かく感じて思わず目を見張った。『この仏様は生きていらっしゃる』そう実感した。
2人は暫らくして寺をあとにしたが、おコウは疲れたと言い輿に乗った。輿の上で如来像を改めたいためで、本当はまったく疲れていなかった。
輿に乗ってすぐに、
やがて店が近付き、おコウが如来像を胸に仕舞い、輿の手すりをしっかり
着替えをすませて床に就いた時は既に陽が傾き、床の中でジッと文机の如来像を見ていた。夕陽が
次の日の夕方、おコウは目覚めた。そして、自分の周りを家人が取り巻いていることに気付いた。
「おコウ、お前ずっと眠っていたんだよ。私は、おコウがこのまま死んでしまうのではないかと思って心配したんだよ。お寺の帰りに疲れたと言ったきり、元気がなくなったのに気が付かなかった。すまなかった、よほど疲れたのだろうね。こんなことになるのなら、あのお坊様の言うことなんか聞くんじゃなかった」
岩倉屋惣左衛門は、素空の言葉を
おコウが
「お父様、あのお坊様のお言葉を、決して疑ってはいけません。私がこうなったのは、きっとこれからだんだん良くなる
おコウはハッとして、文机の薬師如来像を探した。
「お父様、薬師如来像はどこでしょうか?
惣左衛門は、部屋の中を改めたが、どこにも見当たらない。家人にも聞いてみたが誰も知らなかった。
惣左衛門は、家人を部屋から出し、おコウと2人だけになって気になることを尋ねた。「おコウや、お前、金色の光って言ったが、見たのかね。その、何だ。仏様を」
「いいえ、お父様。
惣左衛門は、おコウにならば仏間のできごとを話してもいいと思った。
おコウは、胸が暖かくなるのを感じ、軽く胸に手をやった。ハッとして、
惣左衛門とおコウは、顔を見合わせて笑った。2人にとっては、仕舞い込んだところをうっかり忘れて、それが思わぬところから出て来たのではないことが、はっきり分かっていた。そして、この小さないたずらの正体に2人は気付いたのだった。
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