京屋分家岩倉屋 その2

 仏間が整えられ、中に入るよう乞われた。小半時こはんとき(30分)も掛けて、中は綺麗にされていた。素空は仏壇をひと目見るなり、この家の何人なんびとも神仏をあがめる心のないのが読み取れた。部屋には灯明が明々とともり、仏壇にも2本の蝋燭が灯されていた。素空はこうき、仏壇に祀られた阿弥陀如来像あみだにょらいぞうの顔をジッと見詰めた。顔に付いた綿ごみを取り除き始めると、岩倉屋惣左衛門がまた渋い顔をした。

 素空は、仏壇の前で暫らく目を閉じ、やがておもむろに向き直り、岩倉屋惣左衛門の顔をジッと見た。今まで渋い顔をしたり、不遜な表情を見え隠れさせていた惣左衛門が急に、追い詰められた小悪党のように、おどおどとした表情になった。顔は素空に向いてはいたが、目は泳いで焦点が定まらない様子だった。

 「ご主人、ご家族の中で1番信心深いお方はどなたですか?お会いしたいのですが…」惣左衛門は咄嗟に母親だと答えると、母親を呼びに遣った。

 やがて、70過ぎの老婆が、女中に手を引かれて仏間に入って来た。

 素空の前に座ると、素空が口を開くのを待つ構えだった。素空は、老婆の顔をジッと見た。すると、老婆はやましいことが露見しないようにと思ったかのように、待ちきれず先に口を開いた。

 「お坊様、夜中のことで、年寄りは眠る時間どす…どんなご用で?」

 素空は、少々気の強そうな老婆にニッコリと笑って見せた。

 「お婆様は岩倉屋さんで1番信心深いお方だとお聞きしていますが、ご仏壇にはに何回くらい向かいなさいますか?」

 老婆は暫らく考えて答えた。「そうさなあ、日に1度は多過ぎじゃよ。10日に1度はちょっとばかり少な過ぎかのォ」老婆はとぼけた口調で答えた。

 「他の方はお参りしていますか?」素空が更に問うと、老婆はぶっきらぼうに答えた。

 「いいや、他のもんは不信心な者ばかりどす」老婆は、自分のことは棚に上げて、家族の不信心を非難した。

 「お婆様、夜分にお呼び立てして申し訳ありませんでした。ごゆっくりお休み下さい」

 素空と母親の会話を聞いていた惣左衛門は、しびれが切れたように口を開いた。

 「お坊様、ご祈祷をお願いいたしますのに、どう言うことでしょう?」

 素空は、惣左衛門に鋭い目を向けて、ハッキリとした口調で諭すように言った。

 「ご主人、娘御の病の元凶げんきょうはこの家にあるのです。医者の手に負えない病とは、人の心の病や、魂の病です。京屋分家岩倉屋さんは商売上手で、大きな儲けを手にしているのでしょうが、心の豊かさをお持ちではないようです。家族は言うに及ばず、使用人も、おそらく人情豊かではないのでしょう。人を思い遣る心は何よりも尊いのです。時として、わが身を犠牲にしてまで相手を気遣う心は、御仏の御慈悲ごじひに適うのです。また、相手とはすなわち、身分みぶん貴賤きせんに関わらず、あなた方の目の前にいる人のことです。…大切なことです。ようくお聴き下さい。…娘御の病には祈祷の必要はないでしょう。心の病は、この家のすべての人々が患っているようです。娘御はこの家の病んだ魂が精気を奪おうとしている証です。病んだ魂とは、先祖の霊や、あなた方の守護霊しゅごれいのことです。心清こころきよければ、守護霊もまっすぐ導いてくれましょう。しかしながら、心歪こころゆがめば、守護霊も悪を為し、悪霊あくれいと交わり、やがて取って代わられることにもなりかねないのです。先祖の霊、守護の霊、この家に関わる様々な霊に、あなたが…いえ、この家の全員が御仏の御慈悲の心に適う者であることを示すのです。さすれば、娘御の病はたちまち癒えるでしょう。この家でただ1人、無垢むくな心を持った娘御なればこそ、霊の影響を受けやすいのです。娘御の心優しい人柄が、この家の人々の心に馴染まなかったのです」

 岩倉屋惣左衛門は、幾分不服そうに疑問を口にした。

 「お坊様、私共は先代から今日こんにちまで変わるところなく、このままの在り様を以って商いに精進して参りました。京屋ご本家も、その他多くの商家もすべて斯様かよう家風かふう、人となりでございます。我が家だけが難をるとはどうしても合点が行きません」

 素空は暫らく考えて、岩倉屋惣左衛門の顔を見て、笑顔で語り始めた。

 「御仏は、己の無力を知り、すがるがごとくに慈悲を乞う者の願いを聞き入れて下さるのです。良いと言うことと、悪くないと言うことには、大きな違いがあるのです。また、己が善だと思っている者と、己の罪を悔いる者が、同じような願いをしたら、どちらの願いが聞き入れられるでしょう。御仏は、己の罪に悔恨の涙を流し、そして罪を償う者に暖かく、高慢こうまんな心にあらゆる罪のきざしを見取るのです。ご主人、先ずは御仏壇を清め、朝な夕なに我が心のおごりを悔い改め、こうべを垂れて一心いっしんにおすがりするのです。『我が守護の霊よ、御仏にお取次ぎ下さい。我はいとも罪深い者、我を正しくお導き下さい。娘をはじめ、すべての人に幸来さちきたらんことを』そう言って、一心にお祈りなさることです。やがて、娘御は晴れやかな日々を送ることでしょう」岩倉屋惣左衛門は俯いたままあたまを下げた。

 素空と栄雪は、仏間を出て客間へと引き上げた。

 「素空様、あれでよろしいのですか?私は経を2、3本唱えるのかと思いました」

 「私も最初は当然のこととして、仏壇に向かい、御仏に一心にお願いするつもりでした。仏間に入る前に、この家の人々の不信心を知り、婆様と話をしてどうするべきか答えを得ました。このまま、御仏におすがりすれば、取り次ぐ私の罪となります。そして、私が申し上げたことをご理解できれば、娘御の病も癒えることでしょう」

 栄雪は、素空が栄信に一目いちもく置かれている訳がやっと理解できた。この日のことは、栄雪にとって忘れることのできないものになった。そして、栄雪は、仏が人の姿を借りるとしたら、きっと素空のようになるのだと思った。

 やがて2人は小さな寝息を立てて眠りに落ちた。

 夜半。「はああ、何と、おお勿体もったいないことでございます。おお、御仏が…御仏が輝かれた。ああ、何と、何と我が手の中で輝かれた。ああ…」

 真夜中の仏間で、岩倉屋惣左衛門が1人狼狽しながらも、何者かに平伏するような姿をしていた。これまで仏間に入り経を唱えたことは幾度かあったが、この夜のように、仏像を清めることなど1度もなかった。素空に諭されてすぐは少々腹が立っていたが、床に就いて暫らくすると、素空に言われたすべてのことが正しく、腹を立てている己の高慢を認めざるを得なかった。そして、真夜中にどうにもたまらず仏間に入ったのだった。

 仏壇に明かりを点けて阿弥陀像あみだぞうを布で磨き始めた。8寸(25cm)ほどの細身の銅製地金に金箔きんぱくで仕上げた見事なものだったが、細かい窪みの中はちりが付着して、せっかくの金箔も台無しだった。『これでは、お坊様に不信心を見咎められる筈だ』1人ぶつぶつ言いながら、新品同様ピカピカにし、仏壇に納めようと少し持ち上げた時、手の中で金色の強烈な光が広がり、すぐに収まった。

 惣左衛門は、狼狽して声を上げたが、同時に、神仏に対して初めて畏怖の念を持ったのだった。そして、金色の光を知る者が自分だけだと言うことに何となく物足りない気がした。

 翌朝、素空と栄雪が帰り支度をしている時、惣左衛門が遣って来て、素空に昨夜のことを尋ねた。素空は昨夜のあらましを聴いたところで、惣左衛門の疑問に答えた。

 「ご主人、それは良い体験をなさいました。御仏は、信仰の種を見出した時、芽を出す手助けをし、やがて、花を咲かせるまで辛抱強くお待ち下さいます。あなたに、金色の輝きを示したと言うことは、あなたの中に信仰の種が落ちたと言うことに他なりません。ですが、家人には決して打ち明けてはなりません。あなたは見て信じたのです。家人が見ずして信じることはないでしょう。あなたがなすべきことは、ご自分の信仰の姿を示すことで、家人の心に信仰の種を蒔くことです。私達はこれから帰りますが、今日は天気がいでしょうから、娘御とお2人でご先祖の菩提寺ぼだいじに行かれ、守護の霊に娘御の病が癒えるよう、お願いすることから始めると良いでしょう。心が変われば思い掛けない変化が、必ず訪れる筈です」

 惣左衛門は、昨日とは打って変わって従順だった。昨日、時折見せた渋い顔や、不遜な表情はまったくなかった。1夜にして人が変わることは時折あるが、その多くが悪く変わるものだが、岩倉屋惣左衛門は明らかに良い方に変わった。そして、既に神仏に帰依きえした者だけが持つ謙虚さを備えていた。

 「素空様、次にお会いする時は、お言葉の通りの岩倉屋になるよう努めます。またお越し下さいませ」岩倉屋惣左衛門と番頭が店の前まで出て来て見送った。

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