第6章 京屋分家岩倉屋 その1

 素空と栄雪は、鳳来山を西へ向かって歩きだした。栄雪は忍仁堂周辺に点在するお堂を説明しながら歩いた。そして、西の外れまで来た時、伊勢滝野の薬師寺より3倍ほど広い敷地に建設中のお堂が見えて来た。

 栄雪が目を輝かせて、素空に尋ねた。「ここは、明年完成するお堂です。このお堂の守護神を素空様がお彫りになられるそうですね?…このお堂は、西院の興仁大師のもとに置かれるもので、素空様を登用するについては、西院内での根回しが必要で、素空様のお名前を早くにだすことで、仏師の決定を急いだと聞いています。私は、素空様の薬師如来像を拝見していませんが、お大師様方がお口を揃えたようにお褒め下さったとも聞いています。私も守護神建立のお手伝いができれば良いと思っていますので、その折には是非ともお声をお掛け下さい」栄雪は不確かな情報も含めて結構な事情通だった。

 2人は東山方面ひがしやまほうめんに向かって、更に西へと下って行った。ほぼ、山を下り切ったところで昼食を摂った。時刻は正午をかなり回っていたが、春の日差しが心地よかった。

 素空は高野川沿たかのがわぞいの景色を眺めていたら、ふと里にあった地蔵菩薩じぞうぼさつを思いだしていた。すべては、あの日の驚きから始まったような、強い印象を持って記憶していた。

 『あの日がなかったら、仏師の道を歩むことはなかったかも知れない…』素空の口を吐いてでた言葉に、栄雪が何を呟いたのか聞き返した。

 「いいえ、栄雪様、お話しするほどのことではありません。高野川たかのがわの景色の中に、伊勢滝野いせたきの薬師寺やくしじに預けられて3年経った時のことを思いだしたのです。それで、つい口を吐いてしまいました」

 2人は立ち上がり、高野川沿いに歩きだし、宝ヶ池たからがいけの『京屋分家きょうやぶんけ岩倉屋いわくらや』と言う店に入った。岩倉屋は冬は主にまきすみを商い、夏はこおりも商い、1年を通してあぶら蝋燭ろうそく灯明とうみょうの芯などを扱う油問屋あぶらやだった。油と言っても様々な種類があるが、岩倉屋はほとんどの油を揃えていた。

 天安寺では法灯の油に鯨油げいゆを使っていた。サラッとした透明感のある油はすすのでが少なく、橙色だいだいいろに輝く光は神秘的だった。1度火が点くとなかなか消えないため、絶やすことのできない法灯の油には1番適していた。

 岩倉屋の主人、惣左衛門そうざえもん慇懃いんぎんそうに挨拶した。

 「これはこれは栄雪様、お久し振りでございます。はて、油はもう暫らくで持って上がることになっていますが、何か急にご入用の品がおありでしょうか?」

 栄雪が用向きを伝えた。「はい、灯明の芯を頂きたいと思いまして参りました。こちらは同行の素空様でいらっしゃいます。以後お見知り置き下さい」

 岩倉屋惣左衛門は、栄雪の言葉使いを訝しく思った。明らかに年若の僧に敬意を表しているのだ。過去何回か訪れた時も、1人或いは2人を連れていたが、連れには必ず呼び捨てで何やら命じていたのだ。

 岩倉屋惣左衛門は、もう1度素空に向かって頭を下げた。頭を持ち上げて素空を見直した時、ハッとして思わず目を逸らした。岩倉屋惣左衛門は、商売柄多くの客や、使用人、出入りの関係者などを上から目線で見ていた。栄雪や各寺院の僧に対しても何かしらの余裕があったのだ。それは、相手が公卿くぎょうであっても不思議にこのような追い込まれた気持ちになることなどまったくなかったのだが、素空の目を見た瞬間、涼やかな凛とした輝きの中に心の奥底を見透かされているような気がしたのだった。

 岩倉屋惣左衛門は2人を客間に通し、栄雪が驚くほどの接待をした。

 遣いの時の宿泊先は10年ほど前から岩倉屋惣左衛門の好意で店に泊めてもらっていたが、客間に通されれることはなかった。栄雪は今日のもてなし方に合点がてんがいかず、素空と京屋に何かの縁があるのではないかと思った。

 「いいえ、私は伊勢多気郡いせたきごうりの在で、御本山に上がるまで村をでたことはありませんし、京屋さんと言うお名も本日初めて伺いました」

 栄雪は、素空の不思議が更に1つ増えた思いだった。

 栄雪は、岩倉屋に到着後すぐに灯明の芯を注文し、惣左衛門に明朝早くに発つことを告げていた。

 夕食の後、2人は経を唱え始め、2本目の経が終わった時、岩倉屋惣左衛門がすまなさそうに部屋に入って来た。

 「お勤めの途中で申し訳ありませんが、手前どもの娘、コウの病平癒やまいへいゆのご祈祷きとうをお願いいたしたく参りました。おコウは16才になる私の次女でございます。昨年暮れに病を得て、以来方々いらいほうぼうのお医者様にて頂きましたが、一向に治る兆しがありません。具合の好い日は部屋の外で陽に当たったり、和歌を詠んだりもするのですが、大抵は床に就いたままなのです。かくなる上は、神仏にお頼みするのみかと思いまして、思い悩んだ末に夜分に参った次第です。どうかお助け下さい。お願いいたします」

 惣左衛門の必死の願いに応えぬ訳はない、と素空がすぐに返事した。

 惣左衛門がホッとして出て行くと、栄雪が眉根を寄せて囁いた。

 「素空様大丈夫ですか?もしも、娘様が治らぬ場合、天安寺の名に傷を付けることになりますよ。安易にお引き受けしないよういたさねば。これからでも遅くはありません、日を改めて祈願をすることにいたしましょう」

 栄雪が少しばかりうろたえ気味に、素空に心変わりを促した。

 「栄雪様、助けを求めるお方があれば、御仏の意を行うのが私の勤めだと思っています。また、結果の如何にかかわらず、御仏へのお取次ぎをするのが、僧である者の勤めと信じています」

 素空はもう1本の経を唱え始め、それが終わった時、無言で部屋を出た。栄雪は、素空の後に付いて行くしか仕方がないと、覚悟を決めて従った。

 離れの廊下で惣左衛門が待っていた。「娘の部屋でございます。お入り下さい」

 「いいえ、ご主人には母屋おもやの仏間にご案内頂きたいのです。娘御むすめごの部屋にご仏壇がありましたらそれでもいいのですが…」

 「では、仏間にご案内いたします。どうぞ…」

 惣左衛門はそう言うと、不満そうな顔で廊下を先になって歩いた。

 やがて、仏間の前まで来ると、惣左衛門は少し渋い顔を見せて障子を開けた。

 「不信心なもので、散らかっていますが、どうぞ中にお入り下さい」

 素空は、惣左衛門に促されて中に入ろうとする栄雪を制して、キッパリ言った。

 「ご主人、誠に突然の申し出でご迷惑をお掛けしますが、私共が入る前に仏間のお掃除をして頂きます。よろしいですね?」

 惣左衛門はまた渋い顔を見せたが、素空と目が合った時だけは取り澄ました顔をした。

 素空は目を閉じて外に向かって座禅を組み、栄雪は、素空の言動を理解できないまま横に座して、同じように座禅を組んだ。

 

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